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新・mespesadoさん講義(115)「エゴ」あるいは「自分」 [mespesado理論]

中島潔 大漁.jpg
  「大漁」 金子みすゞ
 朝焼け小焼だ
 大漁だ
 大羽鰮の
 大漁だ

   浜は祭りの
   ようだけど
  海のなかでは
  何万の
  鰮のとむらい
  するだろう

最新のIn Deep日常の価値観の瞬間的変転の中での違和感。そして私の中の「死霊」」、埴谷雄高の『死霊』がテーマなのだが、金子みすゞの「大漁」を思い、放知技板でのsuyapさんとmespesadoさん、貴香さんとのやりとりを思い、さらに、いささか辟易しつついま読み進める『触手』(小田仁二郎)を思った。

高橋和巳は「『触手』と『死霊』は戦後文学の端緒において両極をなす」と評価した。《戦後文学は、その端緒には目くるめくような幅をもった。作家の文壇的所属を無視して、その作品を作品のもつ意味からいえば、その幅の両極は、埴谷雄高の『死霊』と小田仁二郎の『触手』に代表された。・・・創作面での、従来比類なき観念の極限化による形而上学小説『死霊』と、もっとも原始的な感覚まで後退して〈家〉の崩壊を息づまるように描いた『触手』は、ああ、この両極端の幅こそが、ひらかれゆくべき日本文学の原野を象徴するものだと夢想させたのだった。そして、それぞれの特異な文体は、構想を具体化する方法そのものであるという正当性をもっていた。「指と、指との、指の、つけねの・・・」といった短く断続し、やがてオルガスムスのようにせりあげてゆく『触手』の文体は、家庭を規定し、またそれに規定される人間存在の性と死を少年の手さぐりのうちにあかしてゆく作品の意図と相補していた。それは確かな意味であり、それは確かな真実だった。(「戦後文学私論」『文藝』昭和38年8月号)共に「アプレゲールクレアトリス」(真善美社)としての発刊。共に戦時という極限下において構想され、放(ひ)り出された必然の文学だったのかと、今は言えるのかもしれない。

高橋和巳は前の文章の後で、「文学の自律」についてこう言う。我は我なり、そう言ったときにかかってくる重荷は想像するにあまりがある。彼はもはや何ものにも助けを求めることができない。問いつめられ、疲れはてても、みずからを鞭打って、みずから答えようとすることができるだけである。しかし、そうした精神態度が普遍化するとき、文学ははじめて自律への道を一歩ふみだす。そしてその端緒は、戦後文学の中にある。》吉本隆明の思いにそっくり通ずる。結局はそこにゆくに決ってゐる。だから僕はそこへゆこうとする必要はないはずだ。ここをいつも掘下げたり切開したりすることの外に、僕に何のすることがあるといふのか。》(『初期ノート』) そこに在るのは、suyapさんが思い描く「エゴ」ではなく、貴香さんの言う「自分」だ。《日本は日本の独自の道を進むことは出来無いのでしょうか?・・・結局私は自分専用の世の中を創り上げる道を進む為に、自分の中にある負の意識等の原因を探り、それをポイッと捨て去り、大丈夫、大丈夫って自分を癒すだけに専念しておきます。/きっと日本の集合意識に届き、影響を及ぼしていくだろうって感じているから。/日本の集合意識は地球の集合意識を動かすだろうし、宇宙にも届く筈です。》

 

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