SSブログ

『自分だけを信じて生きる』(副島隆彦) [本]

自分だけを信じて生きるのコピー.jpg自分だけを信じて生きる.jpg副島隆彦著『自分だけを信じて生きる』。副題に「スピリチュアリズムの元祖エマーソンに学ぶ」とある。1/27の日経に大きく広告が出ていた。知識や情報を得たくてこの書に近づけば、多少エマーソンについて知ることにはなるかもしれないが、そんなことはどうでもいい。そもそも知識を伝えようとする本とはちがう。残された人生、だれにも遠慮は要らない。言いたいことを言わせてもらうし、やりたいことをやらせてもらう、そんな気合いで書かれた本だ。

スピリチュアリズムとは何か。いい答えがあった。いわく、《超越的(飛び越える。トランセンドtranscendする)とは、物的世界(マテリアル)だけでは絶対に解決しない、霊的世界を認めることである。それがスピリチュアリズムである。》(110-111p)要するに、カントの言う「即自的物自体」を第一義にする、というとよくわかる。そこでは「対自」も「対他」もないゆえに「評価」とは無縁な世界だ。したがって「自分だけを信じて生きる」世界なのだ。「一心清明」の世界へと通じてゆく。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

基本的人権にとっての重大危機 [本]

コロナワクチンに騙された.jpg鳥集(とりだまり)徹著『コロナワクチン 私たちは騙された』 (宝島社新書)について、昨日の記事とは視点を変えてアマゾンにレビューしてきました。

*   *   *   *   *

コロナワクチンの危うさについて『女性セブン』で、早くから一般啓蒙にチャレンジしてきた著者としてよく知り、これまでもありがたい思いをしてきた。この著の要点をわかりやすく紹介した動画を見た。問題がよく整理されており、押さえておくべきデータも貴重に思え、Kindle版をもとめて目を通した。

《いかに「メリットがリスクを上回る」と言っても、それによって健康を損なう人が出てしまっては本末転倒なのです。 「ワクチン」と謳うかぎり、リスクは限りなく「ゼロ」でなくてはなりません。もし一人でも死亡事例が出れば、いったん接種を中止して安全性を確認すべきなのです。これまでのワクチンでは、それが常識でした。/ところが、このコロナワクチンは、健康だったはずの多くの人を傷つけてしまっているのに、接種が続けられています。 現在進行形で「薬害」を拡大し続けているのです。 政府・厚労省、医学会、大手メディアの責任は、非常に大きいと言わざるを得ません。/あなたやあなたの大切な人が薬害に遭わないためにも、コロナワクチンによって薬害が現在進行形で起こっている実態を知ること。 そして、接種を推奨し続けている政府・厚労省、医学界、専門家、大手メディア等の情報を鵜呑みにせず、安易に接種を続けないこと。これが一番肝心であると言えるでしょう。》要はここに尽きると思うのだが、2021年春にワクチン接種が始まって以来、ほとほとそのことの困難さを痛感させられてきた。まさかここまでワクチン接種が浸透するとは思ってもいなかったのだ。

最後の章で、WHOが進めるパンデミック条約と国際保健規則(IHR)の改定問題が取り上げられる。これが通ると、勧告だけの諮問機関であるWHOが、国家主権を超えて法的拘束力をもった統治機関に変わるという。ワクチン接種の強制化もありうる。現実がその方向に進んでいるとしたら怖ろしい。

この著の最後を転載させていただく。

続きを読む


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

加藤の乱→「絶対に負け戦をしてはダメ」(岸田文雄) [本]

 今朝の副島重掲板【3095】安倍派(統一教会)つぶし、解体の最新状況 と インドネシアがもの凄く重要だ論」。インドネシアを主題にしながら現在の日本の政治状況に絡めて、《今の安倍派潰(つぶ)し解体作業の実行は、日本国民にとって大変、喜ばしいことである。森喜朗(もりよしろう)はじめ安倍派の幹部たち全員が逮捕され、起訴されて刑事裁判に掛けられればいいのだが。そこまでは行かないだろう。》として、平成12年の「加藤の乱」に言及。《私、副島隆彦は、前回(12月14日)に、「これは、岸田文雄の、人生最大の悲願である、大宏池会(だいこうちかい)の復活、再統合である。岸田は、23年前に、森喜朗や野中広務(のなかひろむ)によって、宏池会の加藤紘一(かとうこういち)が当然に、次の首相になる予定で、そのための正当な手続きを踏んで来たのに、それが、叩き壊れた、あの2000年〇月〇日の「加藤の乱」の屈辱、恥辱の日のことを決して忘れていない。/ 加藤紘一が、無念の怒りに駆られて、森喜朗首相への、野党の不信任決議に同調して賛成投票する、という行動に出ようとしたときに、横から谷垣禎一(たにがきさだかず)が縋りついて、「あなたは親分なのだから」と、必死で、泣きながら止めた。その下の横に岸田も泣きながらいたのだ。私たちは、あの日本の政治ドラマの重要な、「刃傷(にんじょう)松の廊下(ろうか)」の忠臣蔵並みのシーンを、今でも覚えてる。》とあり、岸田首相が谷垣禎一とともに居て討ち死も覚悟したひとりであったことを知った。

岸田本.jpg岸田文雄著「岸田ビジョン 分断から協調へ」 (講談社+α新書) Kindle版が無料で読める。「闘う宏池会」と題する最終章に「加藤の乱」が詳述されている。総理に最も近かったはずの山形3区選出加藤紘一がなぜダメだったのか、以下の記述でなんとなくわかったような気がした。と同時に、「安倍派潰しの真相」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2023-12-29それはそれとして、岸田首相と宏池会についてのひとつの視点を得た。

安倍派vs.岸田派として、岸田著の最後は《政治家として勝負をかけたときは、絶対に負け戦をしてはダメだ──その思いが、いまも私の胸に刻まれています。》の言葉で締められている。今勝負をかけているのではないか。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:

『中国は嫌々ながら世界覇権を握る』(副島隆彦) [本]

「賃労働と資本の非和解的な対立」(マルクス)をどう解決するか、という問題提起について考えさせられた。
《賃労働者(いわゆるサラリーマン、勤労者)の側に身を置くか、それとも、自分の能力(才覚) と幸運で資本家(企業経営者)の側に這い上がれるか。あるいは、親の財産を引き継いで地主(土地及び賃貸建物の所有者)の側に、自分の身を置くか。この3者のいずれかの人生を人間は営む。》(114p)この3者を「縛られた時間を生きる者」、「時間を縛って働かせる者」、「何もしなくても生きられる者」と言い換えてみて、ハンナ・アーレントの「労働」「仕事」「活動」の3分類を思った。(→「『AI時代の新・ベーシックインカム論』「労働」観の転倒」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-07-04商品生産のための「労働」、永続性あるものの制作を目指す「仕事」、人間としての正体を明らかにした社会的営みとしての「活動」だ。
有効需要の原理.jpg「労働」はカネのために自分の時間を売る。「仕事」は資本力(カネ)で「労働」を買うことで剰余を得る(つくる)。「活動」はカネから超然。 Y=C+I の式にあてはめれば、「労働」は C に含まれ、「仕事」が I をつくる。「活動」にとってカネは二の次三の次、そもそもカネの心配のないところでのハタラキなのだ。
上記井上智洋著に《これら三つの活動的生活のうち、「労働」は古代ギリシャで「蔑まれた最低の地位」にあったが、近世にはルターによって人々の神聖な義務となり、近代にはジョン・ロックによって「すべての財産の源泉」として評価され、遂にはマルクスによって「最も人間的で最大の力」という高みにまで引き上げられた。/アーレントは、こうした近代における価値転倒をさらに転倒させ、労働をその地位から引きずり下ろすとともに、仕事と特に活動の復権を企図している。》とある。
副島氏は《それ以外に、現代社会では、多くの職種の自営業者を生み出しているが、この人々のことは、ここでは捨象する。》(114p)とするが、「賃労働と資本の非和解的な対立」の解決の方向は「自営業者」にこそあるのではないか。
*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

『虎雄とともに』を読む [本]

虎雄とともに.jpg松下隆一著『徳田秀子が支えた医療革命 虎雄とともに』(PHP 2023.9)。徳洲会グループ創立50周年記念式典でいろいろいただいた中の一冊だ。

「おわりに」に《やはりひとかどの人の人生というものは、あげつらうものではなく、真摯に辿るべきだと実感する。昨今のSNSにはびこるような、否定や批判をして溜飲を下げるという惨めな人間ではなく、勇気や思いやりを持って前進する人間として描き、語り伝えることが大事なのだと、今回の仕事では考えさせられた。》(208p)と書いた著者は、秀子夫人に真摯に虚心に向き合うことで、夫人を通しての徳田虎雄像を描き出した。「繊細さと機転と機微」の節に《総じて考えてみると、虎雄は繊細ゆえに機微というものがよくわかっていたのではないか。》(176p)一見豪胆さの裏にある繊細さをだれよりも体験、実感していたのが秀子夫人だった。

ちょうど昨日届いた徳洲新聞1417号は記念式典特集で東上震一理事長の「直言」を読んでうれしかった。実はこの式典は、前日の午後3時頃に、当初の立食形式から着座形式へと大幅な変更を行いました。式の運行がどうにも気になっていた私が、事前に会場を見ておこうと、武蔵野徳洲会病院の巡回指導後に、ホテルを訪問して急遽、変更命令を下したのです。ご高齢の方が多い参加者に、2時間にわたる立食スタイルを強いることが、本当に皆様をもてなし、感謝を伝えることが本意の式になり得るのか、気になったからでした。ホテル側は突然の変更にもかかわらず、60脚の円卓と約800人分の椅子を用意してくれました。》実は私自身、立食パーティを予想して行ったら指定のテーブルに案内されて驚いたのだった。東上理事長はさらに言う、何事も段取り8分、仕事2分」と、徳田虎雄・名誉理事長がいつも口にしていた言葉が、苦く胸をよぎりました。「徳田先生は数人の会合でも、誰がどこに座るかまで指示する非常に細かい気配りの人で、あらゆることに目を通し、全てのことに了解を求める人でした」と、安富祖久明・最高顧問は、私が今回の運営上の不満を口にした時に、そう返してくれました。》気持ちの入ったいいお祝いと強く感じてきたのだが、そうした配慮があったのだ。あらためて「繊細さと機転と機微」徳田精神の復権、浸透を思う。

続きを読む


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

陸奥宗光の初恋の人 [本]

佐代.jpg陸奥宗光14歳の時、出羽寒河江(さがえ)柴橋代官所から着任したばかりの代官松永善之助の十歳の娘と八歳の息子の家庭教師となる。その時松永の後妻佐代は27歳。宗光の初恋の人だった。今朝の『陥穽』、《――佐代は船場で裁縫を一年余り教えたあと、胸の病いを発症し、二人の子供を連れて生国(しょうごく)の出羽置賜郡白鷹(おきたまごおりしらたか)の実家に帰り、一年後、深い雪の中で息を引き取った。》

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

苫米地英人『超国家権力の正体』 [本]

超国家権力の正体.jpg苫米地英人著『超国家権力の正体』

グローバリズムの淵源が解き明かされている。「奴隷こそが資本主義の根幹」として《例えば、自動車にしてもIT機器にしても洋服にしてもいかに原価を安くするかが資本主義で儲けるための基本中の基本です。》(118p)そのために一番効率的なのが奴隷制度。それを世界に広げる魁けとなるのが、1602年設立の株式会社オランダ東インド会社(VOC)。西洋視点での「発見の時代」の始まりであり、以来「大航海時代」と言われる。《”新大陸”を発見したと騒ぎ、その土地で平和に暮らしていた人々を異教徒だと決めつけて奴隷化する。この奴隷を使役することで産物を産み出して、それをまた異教徒たちに売りつける。/こういったシステムをつくり出したのがVOCをはじめとするグローバリストたちでした。今の格差社会の雛形はすべてここから始まっているのです。》(119p)

しかし、相手が悪いというか問題なのは、彼らの所業が「悪」としてではなく「良心」に裏付けられていたということだ。《彼らはその残虐行為に正当性を持っていたのです。正しい行いをしている信念がそこにありました。》それゆえまさに、《この部分を理解しないと私たちはいつまで経っても彼らの後手に回り続けることになってしまうのです。》(161P)要するに、《彼らは神の存在を本気で信じています。本気で神を畏れ、最後の審判で地獄に堕ちることを徹底的に怖がっています。この部分を真に理解しないと彼らを見誤ることになってしまうのです。》(161-2p)「コロナワクチンの狙いは人口削減」説に対して、「そんなバカな」が正常な反応のわれわれ。しかしそれは彼らには通用しない。彼らは《「我々は他国の人口や文化・食生活にまで踏み込むことができる」と本気で思えるのです。》(172p)

著者の悲痛な叫び、《もう一度、歴史を見直してください。大航海時代といまとなにか違っているでしょうか?》(183P)手元に置いて何度も読み返さねばと思う。

↓ この著を読んでいて出会った「陥穽」の一コマ。西洋感覚の怖ろしさとその受容を迫られる東洋について、いろいろ考えさえられている。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

飯田進『魂鎮への道』 [本]

魂鎮への道.jpg小さいころ、昭和30年前後、夏休みになると山の湯治場(滑川温泉)へ祖父母に連れられて何日かをすごした。ある晩、廊下を隔てた向かいの部屋、大声で語る戦地中国での武勇伝がいやでも耳に入ってきた。「何人殺した」とか「女をどうした」とかの話で、子ども心にも強烈だった。おぞましい記憶だ。その記憶がよみがえった。

『魂鎮への道―BC級戦犯が問い続ける戦争の著者飯田進氏が死刑を求刑されたのは、ニューギニアにおける所業のゆえだった。《中国戦線で日本軍がなにをしたか。ぼくはニューギニアの密林のなかで、いやというほど兵隊たちから話を聞いています。兵隊たちは、歩兵部隊の兵隊も憲兵も、ほとんど中国戦線から転用されてきた者たちでした。/兵隊の話といえば、女と酒が通り相場です。しかしニューギニアにはそのどちらもありませんでした。チョロチョロと燃える椰子油の灯火を囲んで、兵隊たちは中国戦線における討伐作戦や、スパイ容疑の住民の取り調べなどを得々として語っていたのです。いまここで言葉では再現することがはばかれる行為が、いたるところで行われていたのです。》(205p)中国戦線においては武勇伝として語り得たことも、ニューギニアの戦線においてはなにもかもが《ひじょうに重くて陰鬱な、目をそむけたくなるような内容の話》(3p)ばかりであった。《ニューギニアのジャングルは、人間が住める環境ではありません。・・・そこに大本営は、つぎつぎに20万人もの大軍を送り込み、その大部分の兵隊を餓死させました。》(19p)そうした地獄の果ての敗戦、《アジア各地で、いわゆる戦場犯罪に問われたBC級戦犯裁判が行なわれました。50ヶ所もの臨時軍事法廷で、実に一千名からの旧軍人・軍属が死刑に処され、また四千名近い者が有罪の宣告を受けています。》(4p)著者も判決は終身刑だったが、死刑を求刑されたひとりだった。それに至ることどもを語ることは「つらい作業」である。《しかし無念の思いをいだいて刑死した人々の魂鎮のためにも、やはりぼくは「手負いになる勇気」をふりしぼらなければならないのかもしれません。たしかに生きているうちに果たさなければならない、これはぼくの義務なのでしょう。》(3p)そうして書かれた重い著である。文庫で382ページのこの著、著者の意思にどう応えうるかを思いつつ、(たまたま入院中の身でもあり)一気に読まされた。

飯田氏によってつきつけられた問題、私には「天皇の戦争責任問題」を最も重く受け止めた。小野田寛郎さんの言葉が提示される。《「敗戦後日本人は誰も天皇の責任について言及しなかったようだが、天皇は自ら責任をとるべきだった。(中略)そこんところをあいまいにしたことが今の無責任時代の源流になったのではないか。」》(264p)「無責任時代」の内実とはこうである。《国家とは倫理的理念の実現をめざす政治的共同体である、と言われています。だが戦後の日本のどこに、国家としての倫理的理念があったでしょうか。日本はまさに倫理的規範を見失ったまま、精神的・心理的に、いわば閉塞状態に置かれ続けてきました。》(314p)そして言う、《日本が、自らの恥部を白日の下にさらけだし、そのあやまちを正していく国家、民族としての勇気をもち得るかどうか》(316p)。この言葉、著者の「手負いになる勇気」に裏付けられてわれわれに求められた問いと受け止める。ここを「わがこととして」掘り下げること。

続きを読む


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

『ニーチェのふんどし』を読む [本]

昨日、In Deep最新記事「みんな同じなクローン社会に生きる」https://indeep.jp/welcome-to-the-clone-world/ を読んで、藤森かよこ著『ニーチェのふんどし を思った。今日読んだIn Deep、さらに踏み込む。昨年10月の記事がリンクされている。私は最近「ブースター」が展開された後のマンハッタンに行き、そこで奇妙な経験をしました。/ブティックホテルの屋上にある混雑した屋上バーに私は立っていました。テーブルの上でいちゃつく魅力的なカップル。シングル客はカクテルをかき混ぜていました。/空には太陽が輝いていて、すべてが正常に見えました。/しかし、私はホログラムの中に立っているような戸惑いを感じ続けていました。気がつくまで、何に戸惑いを感じているのか理解できませんでした。/それに気づいたのです。彼らは群衆のように見えましたが、群​​衆のようには感じませんでした。もちろん、たくさんの人々がそこに実際にいます。しかし、2020年以前のマンハッタンにあったような人間の群集の、つまり濃密で、喜びに満ち、情熱的で、キラキラした、激しいエネルギーを感じることができなかったのです。》それはなぜか。それはパンデミックへの対応だった。すべてのポリシーは、人間関係を壊すように構成されていた。人間という存在は、病気の媒介者に他ならないとされた。みんなそれぞれが離れろ! 人と人は近づくな! 独りになりなさい。孤独になりなさい。それが唯一の適切な方法だと繰り返された。》

ニーチェのふんどし.jpegそこであらためて、『ニーチェのふんどし いい子ぶりっ子の超偽善社会に備える

強く心に残ったのがここだ。《オイディプス王はアポロ的な生き方をしていたのに、ディオニソス的なるものに動かされ、結局は罪を犯した。彼は運命に翻弄されながらも懸命な生き方を模索した。しかし、その結果として、父を殺し母を自殺させ国を疲弊させた。その結果を彼は引き受け、盲目となり乞食となった。オイディプスは自分の運命から逃げなかった。彼の姿には、「超地上的な明朗さ」がある。彼の人生の悲惨さは「無限の浄化」に達している。いかに努力しようと、知恵を尽くそうと人生は過酷な結果を招いてしまうかもしれない。それでも、そのような自分の生を引き受け生き切ることに尊厳があるし、真の高貴さがある。》(154p)ところが、ソクラテスの登場によって、ギリシア悲劇は矮小化される。《主人公たちは、自分の心を引き裂くアポロ的なるものとディオニソス的なものに激しく苦悩するようなタフさがない。苦悩できるだけの能力がない。苦悩できるだけの人間としての大きさがない。知的に考察すれば正解を導くことができると信じているほどに小賢しい。そんな計算や思慮を吹き飛ばすようなことが人間の人生には起きるし、人間とは理知に飼いならされるほどに柔な存在ではないという洞察もないという意味で、人生と人間を舐めている。》(156p)ニーチェの『悲劇の誕生』の鉾先は、ソクラテス的楽天主義の象徴としての近代科学批判に向かうのだが、著者にとってのターゲットは「ホワイト革命」だ。《現代という時代が退屈でつまらないのも無理はない。アポロ的なるもので満たされているから。ディオニソス的なるものについては見て見ぬふりをしているから。そして近未来には、「ホワイト革命」というアポロ的なるものをもっと矮小化した精神によって小ぎれいな箱庭化した超偽善的社会が到来する。》(158p)きっとそうにちがいない。《強者へのルサンチマンから生まれた道徳や大義が作り出す世界は、一見いかにユートピアに見えても、嘘まみれのディストピアである》(195p)のだ。そこに在るのは《退屈な末人の人生》(209p)だ。「結語」に言う、《ホワイトな人々は、ホワイトであることこそが最高の価値として考え、人間の多様性や複雑性を受容できない。彼らや彼女たちの価値観は固定化される。そう言う人々は価値観だけではなく美意識の幅も狭くなる。だから、自分や他人に求める容姿も類型的になりやすく、外見至上主義に陥りやすい。》(219p)まさにその結果としての「みんな同じなクローン社会」というわけです。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

「みんな同じなクローン社会に生きる」(In Deep) [本]

In Deep最新記事「みんな同じなクローン社会に生きる」https://indeep.jp/welcome-to-the-clone-world/ を読んで、テレビに出てくる人の顔の区別がつかなくなったのは年のせいかと思っていたが、必ずしもそれだけではないと思わされた。

11カ国の 1万1,000人を対象に「好みの絵画の風景の傾向を調査する」・・・ふたりのアーティストは、「どれほど異なる、そして自由な絵画作品ができるのだろう」と期待して、このアート・プロジェクトを始めた・・・ところが、「みんな同じ」だったのです。》
《この作業を完了した後、コマール氏は次のように述べた。「私たちはさまざまな国を旅し、世論調査会社の代表者との交渉に従事し、さらなる世論調査のために資金を調達した結果として、私たちは結局、多かれ少なかれ同じ青い風景を描くことになりました。私たちは自由を求めて、この仕事に取り組んだのですが、そこで見つけたのは奴隷制でした」》
ニーチェのふんどし.jpeg藤森かよこ著『ニーチェのふんどし いい子ぶりっ子の超偽善社会に備えるがターゲットにした「ホワイト革命」を思った。第1章 二ーチェの思想をあなたが必要となる契機は「ホワイト革命」/ 1・1 岡田斗司夫の「ホワイト革命」論の衝撃 /1・2 「ホワイト革命」は、とりあえずは高度情報化社会の産物/1・3 道徳的であるという評価が個人だけではなく国や企業にも求められる/1・4 21世紀の「優しい良い子たち」は進化した人類か?/1・5 ホワイト革命の先駆としてのポリコレとキャンセルカルチャー/1・6 道徳化された社会形成のための段階としてのポリコレ・ヒステリー/1・7 岡田が予測するホワイト革命は起きると私が思う理由(その1)/1・8 岡田が予測するホワイト革命は起きると私が思う理由(その2)ーSDGsだのESGだのニュー資本主義だの /第2章 ホワイト革命がもたらす7つの様相/2・1 歴史始まって以来の人間革命?/2・2 魔女狩り社会になる?/2・3 現実逃避社会になる?/2・4 バックラッシュ?/2・5 人間はより画一的になりルッキズムに至りアバターに身を隠す/2・6 優しく良い子たちの人畜牧場完成/2・7 現実逃避も魔女狩りもバックラッシュも身体性からの逃避もあるし権力者共同謀議もあるが、人間革命は起きない》の項目でちょうど100pが割かれて、こう説く。《世界は、ホワイトもブラックもグレーもブラウンもピンクもブルーもレッドもグリーンもある混沌としたものだ。ホワイトになるはずがない。人間存在もそう簡単にホワイトになるはずがないと思う。》そして、《なぜそう思うかと言えば、私はニーチェと人間観を共有しているからだ。》となる。(つづく)
*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ: