殺鬼塚英昭『原爆の秘密 (国外編)殺人兵器と狂気の錬金術 』 [本]
前回の林千勝著を読んで引っ張り出してきたのが鬼塚英昭著『原爆の秘密 (国外編)殺人兵器と狂気の錬金術 』と『原爆の秘密 (国内編)昭和天皇は知っていた』。16年前、2008年(平成20年)の本だ。何回かに分けて取り上げていた。
・繆斌工作が成っていれば原爆投下はなかった https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2008-08-04
・鬼塚英昭著『原爆の秘密』を読んで https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2008-09-15
・「原爆投下 活かされなかった極秘情報」 https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2011-08-08
・天皇は日本だけの天皇ではない https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-08-26
(・草莽の志士たらん https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2016-03-17)
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≪核兵器用プルトニウムを生産するための施設を完成するために「その基本計画を受け取った時点から27ヶ月を要し・・・その工場施設の設計・建設・実際の運転業務を推進するにあたって、デュポン社は、1万ないし1万5000の他企業の援助を得た≫と、長崎を破壊したプルトニウム爆弾の開発を担ったデュポン社の社長カーペンターは語ったという。(『原爆の秘密(国外編)』257p)関わった企業が10,000~15,000と言う数字の大きさに唖然とした。原爆の完成に至るまでにどれだけの人とカネが注ぎ込まれたことか。
≪自分たちは湯水のように、アメリカという国家の金を使った。今さら、良心的な行為をしろという学者たちよ、お前たちは、そろそろこの表舞台から去ってもらおう。民主主義とは何かを、心に問うてみるがいい。それは、成果を見せて、国民を喜ばせることなのだ。/そのためにはスペクタルが必要となる。そうだ、無警告の中での原爆ショーである。≫(261p)(https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2008-09-15)
≪自分たちは湯水のように、アメリカという国家の金を使った。今さら、良心的な行為をしろという学者たちよ、お前たちは、そろそろこの表舞台から去ってもらおう。民主主義とは何かを、心に問うてみるがいい。それは、成果を見せて、国民を喜ばせることなのだ。/そのためにはスペクタルが必要となる。そうだ、無警告の中での原爆ショーである。≫(261p)(https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2008-09-15)
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ルーズヴェルト大統領は、新型爆弾の可能性を説くアインシュタイン署名入り書簡によって20億ドルの支出を決断した。1939年10月のことだ。「アインシュタイン書簡が契機となってアメリカの原爆製造が始まった」ことになっているが、実はこの時すでに原爆製造は、ベルギー領コンゴのウラン鉱山開発という形で始まっていた。それどころか、《原爆は計画された当初から、日本に落とす計画が存在した》(国外編33p)のかもしれない。第二次世界大戦は遅くとも1943年中に終わるはずだった。それを先延ばしにしたのが「原爆の実用化」だった。《原爆製造のためにマンハッタン計画がつくられ、20億ドルの巨費が投じられるのである。・・・この原爆投下ゆえに、戦後に数百ドル、否、数千億ドルの原爆産業が誕生するのである。》(国外編38p)その原爆利権の生贄にされたのが日本人(the Japanese)だった。
「レプリコンワクチン」は、3発目の原爆 [本]
林千勝『。
10月から接種が始まる「レプリコンワクチン」を「3発目の原爆」として警告する宣伝に惹かれて求めた。
1944年9月ニューヨーク州ハイドパークで交わされたルーズヴェルト大統領とチャーチル首相との間の覚書の一文が問題にされる。《 when a "bomb" is finally available, it might perhaps, after mature consideration, be used against the Japanese, who should be warned that this bombardment will be repeated until they surrender. 》著者の訳:《爆弾(原爆)が完成した暁には、熟慮の上、日本人に対して使用されるだろう。日本人が降伏するまで爆撃(原爆投下)が繰り返されることは警告されるべきである。》
著者は「Japan(日本)」でなくて「the Japanese(日本人)」であることを問題視する。《投下対象を「軍事施設」から「人」に、しかも「民間人」にする、それを「日本人の頭の上に」としたのが「原爆投下の実相」であり、尋常な人間の発想ではありません。》ルーズヴェルトは、「ドイツが降伏しないならドイツ(Germany)にも落とす」と言っているが「ドイツ人(German)に落とす」とは言わなかった。原爆利権の「生贄(いけにえ)」にされた日本人。そして今またレプリコンワクチンによって、医薬利権の生贄になろうとしているのではないかと国民運動をよびかける。《現在も未来も、過去の歴史の延長線上から逃れることは難しい。/けれども、気づきと行動が、歴史の呪縛から自身を解き放つ可能性を秘める。/何よりも、日本人は、気づいたなら抗うなら態度で示さなければならない。/日本人の命を守ることができるのは国民運動だけである。》
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『自分だけを信じて生きる』(副島隆彦) [本]
副島隆彦著『自分だけを信じて生きる』。副題に「スピリチュアリズムの元祖エマーソンに学ぶ」とある。1/27の日経に大きく広告が出ていた。知識や情報を得たくてこの書に近づけば、多少エマーソンについて知ることにはなるかもしれないが、そんなことはどうでもいい。そもそも知識を伝えようとする本とはちがう。残された人生、だれにも遠慮は要らない。言いたいことを言わせてもらうし、やりたいことをやらせてもらう、そんな気合いで書かれた本だ。
スピリチュアリズムとは何か。いい答えがあった。いわく、《超越的(飛び越える。トランセンドtranscendする)とは、物的世界(マテリアル)だけでは絶対に解決しない、霊的世界を認めることである。それがスピリチュアリズムである。》(110-111p)要するに、カントの言う「即自的物自体」を第一義にする、というとよくわかる。そこでは「対自」も「対他」もないゆえに「評価」とは無縁な世界だ。したがって「自分だけを信じて生きる」世界なのだ。「一心清明」の世界へと通じてゆく。
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基本的人権にとっての重大危機 [本]
鳥集(とりだまり)徹著『コロナワクチン 私たちは騙された』 (宝島社新書)について、昨日の記事とは視点を変えてアマゾンにレビューしてきました。
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コロナワクチンの危うさについて『女性セブン』で、早くから一般啓蒙にチャレンジしてきた著者としてよく知り、これまでもありがたい思いをしてきた。この著の要点をわかりやすく紹介した動画を見た。問題がよく整理されており、押さえておくべきデータも貴重に思え、Kindle版をもとめて目を通した。
《いかに「メリットがリスクを上回る」と言っても、それによって健康を損なう人が出てしまっては本末転倒なのです。 「ワクチン」と謳うかぎり、リスクは限りなく「ゼロ」でなくてはなりません。もし一人でも死亡事例が出れば、いったん接種を中止して安全性を確認すべきなのです。これまでのワクチンでは、それが常識でした。/ところが、このコロナワクチンは、健康だったはずの多くの人を傷つけてしまっているのに、接種が続けられています。 現在進行形で「薬害」を拡大し続けているのです。 政府・厚労省、医学会、大手メディアの責任は、非常に大きいと言わざるを得ません。/あなたやあなたの大切な人が薬害に遭わないためにも、コロナワクチンによって薬害が現在進行形で起こっている実態を知ること。 そして、接種を推奨し続けている政府・厚労省、医学界、専門家、大手メディア等の情報を鵜呑みにせず、安易に接種を続けないこと。これが一番肝心であると言えるでしょう。》要はここに尽きると思うのだが、2021年春にワクチン接種が始まって以来、ほとほとそのことの困難さを痛感させられてきた。まさかここまでワクチン接種が浸透するとは思ってもいなかったのだ。
最後の章で、WHOが進めるパンデミック条約と国際保健規則(IHR)の改定問題が取り上げられる。これが通ると、勧告だけの諮問機関であるWHOが、国家主権を超えて法的拘束力をもった統治機関に変わるという。ワクチン接種の強制化もありうる。現実がその方向に進んでいるとしたら怖ろしい。
この著の最後を転載させていただく。
《いかに「メリットがリスクを上回る」と言っても、それによって健康を損なう人が出てしまっては本末転倒なのです。 「ワクチン」と謳うかぎり、リスクは限りなく「ゼロ」でなくてはなりません。もし一人でも死亡事例が出れば、いったん接種を中止して安全性を確認すべきなのです。これまでのワクチンでは、それが常識でした。/ところが、このコロナワクチンは、健康だったはずの多くの人を傷つけてしまっているのに、接種が続けられています。 現在進行形で「薬害」を拡大し続けているのです。 政府・厚労省、医学会、大手メディアの責任は、非常に大きいと言わざるを得ません。/あなたやあなたの大切な人が薬害に遭わないためにも、コロナワクチンによって薬害が現在進行形で起こっている実態を知ること。 そして、接種を推奨し続けている政府・厚労省、医学界、専門家、大手メディア等の情報を鵜呑みにせず、安易に接種を続けないこと。これが一番肝心であると言えるでしょう。》要はここに尽きると思うのだが、2021年春にワクチン接種が始まって以来、ほとほとそのことの困難さを痛感させられてきた。まさかここまでワクチン接種が浸透するとは思ってもいなかったのだ。
最後の章で、WHOが進めるパンデミック条約と国際保健規則(IHR)の改定問題が取り上げられる。これが通ると、勧告だけの諮問機関であるWHOが、国家主権を超えて法的拘束力をもった統治機関に変わるという。ワクチン接種の強制化もありうる。現実がその方向に進んでいるとしたら怖ろしい。
この著の最後を転載させていただく。
加藤の乱→「絶対に負け戦をしてはダメ」(岸田文雄) [本]
今朝の副島重掲板「【3095】安倍派(統一教会)つぶし、解体の最新状況 と インドネシアがもの凄く重要だ論」。インドネシアを主題にしながら現在の日本の政治状況に絡めて、《今の安倍派潰(つぶ)し解体作業の実行は、日本国民にとって大変、喜ばしいことである。森喜朗(もりよしろう)はじめ安倍派の幹部たち全員が逮捕され、起訴されて刑事裁判に掛けられればいいのだが。そこまでは行かないだろう。》として、平成12年の「加藤の乱」に言及。《私、副島隆彦は、前回(12月14日)に、「これは、岸田文雄の、人生最大の悲願である、大宏池会(だいこうちかい)の復活、再統合である。岸田は、23年前に、森喜朗や野中広務(のなかひろむ)によって、宏池会の加藤紘一(かとうこういち)が当然に、次の首相になる予定で、そのための正当な手続きを踏んで来たのに、それが、叩き壊れた、あの2000年〇月〇日の「加藤の乱」の屈辱、恥辱の日のことを決して忘れていない。/ 加藤紘一が、無念の怒りに駆られて、森喜朗首相への、野党の不信任決議に同調して賛成投票する、という行動に出ようとしたときに、横から谷垣禎一(たにがきさだかず)が縋りついて、「あなたは親分なのだから」と、必死で、泣きながら止めた。その下の横に岸田も泣きながらいたのだ。私たちは、あの日本の政治ドラマの重要な、「刃傷(にんじょう)松の廊下(ろうか)」の忠臣蔵並みのシーンを、今でも覚えてる。》とあり、岸田首相が谷垣禎一とともに居て討ち死も覚悟したひとりであったことを知った。
『中国は嫌々ながら世界覇権を握る』(副島隆彦) [本]
副島隆彦著『中国は嫌々ながら世界覇権を握る』。
「賃労働と資本の非和解的な対立」(マルクス)をどう解決するか、という問題提起について考えさせられた。
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《賃労働者(いわゆるサラリーマン、勤労者)の側に身を置くか、それとも、自分の能力(才覚) と幸運で資本家(企業経営者)の側に這い上がれるか。あるいは、親の財産を引き継いで地主(土地及び賃貸建物の所有者)の側に、自分の身を置くか。この3者のいずれかの人生を人間は営む。》(114p)この3者を「縛られた時間を生きる者」、「時間を縛って働かせる者」、「何もしなくても生きられる者」と言い換えてみて、ハンナ・アーレントの「労働」「仕事」「活動」の3分類を思った。(→「『AI時代の新・ベーシックインカム論』「労働」観の転倒」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-07-04)商品生産のための「労働」、永続性あるものの制作を目指す「仕事」、人間としての正体を明らかにした社会的営みとしての「活動」だ。
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「労働」はカネのために自分の時間を売る。「仕事」は資本力(カネ)で「労働」を買うことで剰余を得る(つくる)。「活動」はカネから超然。 Y=C+I の式にあてはめれば、「労働」は C に含まれ、「仕事」が I をつくる。「活動」にとってカネは二の次三の次、そもそもカネの心配のないところでのハタラキなのだ。
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上記井上智洋著に《これら三つの活動的生活のうち、「労働」は古代ギリシャで「蔑まれた最低の地位」にあったが、近世にはルターによって人々の神聖な義務となり、近代にはジョン・ロックによって「すべての財産の源泉」として評価され、遂にはマルクスによって「最も人間的で最大の力」という高みにまで引き上げられた。/アーレントは、こうした近代における価値転倒をさらに転倒させ、労働をその地位から引きずり下ろすとともに、仕事と特に活動の復権を企図している。》とある。
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副島氏は《それ以外に、現代社会では、多くの職種の自営業者を生み出しているが、この人々のことは、ここでは捨象する。》(114p)とするが、「賃労働と資本の非和解的な対立」の解決の方向は「自営業者」にこそあるのではないか。
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『虎雄とともに』を読む [本]
「おわりに」に《やはりひとかどの人の人生というものは、あげつらうものではなく、真摯に辿るべきだと実感する。昨今のSNSにはびこるような、否定や批判をして溜飲を下げるという惨めな人間ではなく、勇気や思いやりを持って前進する人間として描き、語り伝えることが大事なのだと、今回の仕事では考えさせられた。》(208p)と書いた著者は、秀子夫人に真摯に虚心に向き合うことで、夫人を通しての徳田虎雄像を描き出した。「繊細さと機転と機微」の節に《総じて考えてみると、虎雄は繊細ゆえに機微というものがよくわかっていたのではないか。》(176p)一見豪胆さの裏にある繊細さをだれよりも体験、実感していたのが秀子夫人だった。
ちょうど昨日届いた徳洲新聞1417号は記念式典特集で東上震一理事長の「直言」を読んでうれしかった。《実はこの式典は、前日の午後3時頃に、当初の立食形式から着座形式へと大幅な変更を行いました。式の運行がどうにも気になっていた私が、事前に会場を見ておこうと、武蔵野徳洲会病院の巡回指導後に、ホテルを訪問して急遽、変更命令を下したのです。ご高齢の方が多い参加者に、2時間にわたる立食スタイルを強いることが、本当に皆様をもてなし、感謝を伝えることが本意の式になり得るのか、気になったからでした。ホテル側は突然の変更にもかかわらず、60脚の円卓と約800人分の椅子を用意してくれました。》実は私自身、立食パーティを予想して行ったら指定のテーブルに案内されて驚いたのだった。東上理事長はさらに言う、《「何事も段取り8分、仕事2分」と、徳田虎雄・名誉理事長がいつも口にしていた言葉が、苦く胸をよぎりました。「徳田先生は数人の会合でも、誰がどこに座るかまで指示する非常に細かい気配りの人で、あらゆることに目を通し、全てのことに了解を求める人でした」と、安富祖久明・最高顧問は、私が今回の運営上の不満を口にした時に、そう返してくれました。》気持ちの入ったいいお祝いと強く感じてきたのだが、そうした配慮があったのだ。あらためて「繊細さと機転と機微」徳田精神の復権、浸透を思う。
陸奥宗光の初恋の人 [本]
苫米地英人『超国家権力の正体』 [本]
苫米地英人著『超国家権力の正体』。
グローバリズムの淵源が解き明かされている。「奴隷こそが資本主義の根幹」として《例えば、自動車にしてもIT機器にしても洋服にしてもいかに原価を安くするかが資本主義で儲けるための基本中の基本です。》(118p)そのために一番効率的なのが奴隷制度。それを世界に広げる魁けとなるのが、1602年設立の株式会社オランダ東インド会社(VOC)。西洋視点での「発見の時代」の始まりであり、以来「大航海時代」と言われる。《”新大陸”を発見したと騒ぎ、その土地で平和に暮らしていた人々を異教徒だと決めつけて奴隷化する。この奴隷を使役することで産物を産み出して、それをまた異教徒たちに売りつける。/こういったシステムをつくり出したのがVOCをはじめとするグローバリストたちでした。今の格差社会の雛形はすべてここから始まっているのです。》(119p)
しかし、相手が悪いというか問題なのは、彼らの所業が「悪」としてではなく「良心」に裏付けられていたということだ。《彼らはその残虐行為に正当性を持っていたのです。正しい行いをしている信念がそこにありました。》それゆえまさに、《この部分を理解しないと私たちはいつまで経っても彼らの後手に回り続けることになってしまうのです。》(161P)要するに、《彼らは神の存在を本気で信じています。本気で神を畏れ、最後の審判で地獄に堕ちることを徹底的に怖がっています。この部分を真に理解しないと彼らを見誤ることになってしまうのです。》(161-2p)「コロナワクチンの狙いは人口削減」説に対して、「そんなバカな」が正常な反応のわれわれ。しかしそれは彼らには通用しない。彼らは《「我々は他国の人口や文化・食生活にまで踏み込むことができる」と本気で思えるのです。》(172p)
著者の悲痛な叫び、《もう一度、歴史を見直してください。大航海時代といまとなにか違っているでしょうか?》(183P)手元に置いて何度も読み返さねばと思う。
↓ この著を読んでいて出会った「陥穽」の一コマ。西洋感覚の怖ろしさとその受容を迫られる東洋について、いろいろ考えさえられている。
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飯田進『魂鎮への道』 [本]
小さいころ、昭和30年前後、夏休みになると山の湯治場(滑川温泉)へ祖父母に連れられて何日かをすごした。ある晩、廊下を隔てた向かいの部屋、大声で語る戦地中国での武勇伝がいやでも耳に入ってきた。「何人殺した」とか「女をどうした」とかの話で、子ども心にも強烈だった。おぞましい記憶だ。その記憶がよみがえった。
『魂鎮への道の著者飯田進氏が死刑を求刑されたのは、ニューギニアにおける所業のゆえだった。 』《中国戦線で日本軍がなにをしたか。ぼくはニューギニアの密林のなかで、いやというほど兵隊たちから話を聞いています。兵隊たちは、歩兵部隊の兵隊も憲兵も、ほとんど中国戦線から転用されてきた者たちでした。/兵隊の話といえば、女と酒が通り相場です。しかしニューギニアにはそのどちらもありませんでした。チョロチョロと燃える椰子油の灯火を囲んで、兵隊たちは中国戦線における討伐作戦や、スパイ容疑の住民の取り調べなどを得々として語っていたのです。いまここで言葉では再現することがはばかれる行為が、いたるところで行われていたのです。》(205p)中国戦線においては武勇伝として語り得たことも、ニューギニアの戦線においてはなにもかもが《ひじょうに重くて陰鬱な、目をそむけたくなるような内容の話》(3p)ばかりであった。《ニューギニアのジャングルは、人間が住める環境ではありません。・・・そこに大本営は、つぎつぎに20万人もの大軍を送り込み、その大部分の兵隊を餓死させました。》(19p)そうした地獄の果ての敗戦、《アジア各地で、いわゆる戦場犯罪に問われたBC級戦犯裁判が行なわれました。50ヶ所もの臨時軍事法廷で、実に一千名からの旧軍人・軍属が死刑に処され、また四千名近い者が有罪の宣告を受けています。》(4p)著者も判決は終身刑だったが、死刑を求刑されたひとりだった。それに至ることどもを語ることは「つらい作業」である。《しかし無念の思いをいだいて刑死した人々の魂鎮のためにも、やはりぼくは「手負いになる勇気」をふりしぼらなければならないのかもしれません。たしかに生きているうちに果たさなければならない、これはぼくの義務なのでしょう。》(3p)そうして書かれた重い著である。文庫で382ページのこの著、著者の意思にどう応えうるかを思いつつ、(たまたま入院中の身でもあり)一気に読まされた。
飯田氏によってつきつけられた問題、私には「天皇の戦争責任問題」を最も重く受け止めた。小野田寛郎さんの言葉が提示される。《「敗戦後日本人は誰も天皇の責任について言及しなかったようだが、天皇は自ら責任をとるべきだった。(中略)そこんところをあいまいにしたことが今の無責任時代の源流になったのではないか。」》(264p)「無責任時代」の内実とはこうである。《国家とは倫理的理念の実現をめざす政治的共同体である、と言われています。だが戦後の日本のどこに、国家としての倫理的理念があったでしょうか。日本はまさに倫理的規範を見失ったまま、精神的・心理的に、いわば閉塞状態に置かれ続けてきました。》(314p)そして言う、《日本が、自らの恥部を白日の下にさらけだし、そのあやまちを正していく国家、民族としての勇気をもち得るかどうか》(316p)。この言葉、著者の「手負いになる勇気」に裏付けられてわれわれに求められた問いと受け止める。ここを「わがこととして」掘り下げること。