SSブログ

新・mespesadoさん講義(121)柔らかな心 [mespesado理論]

mespesadoさんとOBさんのやりとりに、今読んでる『世界は「関係」でできている』が重なった。
レーニンの『唯物論と経験批判論ーある反動哲学に関する批判的な覚え書き』(1909)は、マッハ哲学批判の書だが、その政治的標的は、ボルシェヴィキの共同設立者であったボグダーノフであった。レーニンの批判に反して、マッハ哲学は20世紀の相対性理論と量子力学の誕生に影響を与え、一方《ボグダーノフは、レーニンの教条主義によってロシア革命が凍り付き、氷の塊となってそれ以上発展できなくなることを見越していた。革命を通して得られたあらゆるものの息の根が止まって、硬直してしまうことを。》(133p)歴史は、レーニンの敗けであることを証した。
《マッハは、感覚を超えたところにある仮想の現実を推論したり直観的に把握したりすることで知識が得られるとは考えていなかった。それらの感覚に関する私たちの考え方を効率的に組織化する試みこそが、知識なのだ。・・・マッハにとって、物理世界と精神世界にはまったく違いがなく、「感覚」は、物理的であると同時に精神的でもあった。それが現実なのだ。・・・現象の背後に存在する物質的実在という概念は消え、それを「知っている」精神という概念も消える。マッハにすれば、知識は観念論における抽象的な「主体(主観)」が所有するものではなく、人間の具体的な行動ーー具体的な歴史の流れのなかで、自分が相互作用しているこの世界の事実をよりよく組織化する術を身につけていく活動ーーなのである。》(126-127p)
OBさんにレーニンが、mespesadoさんにボグダーノフが重なっていた。OBさんの感覚は、昨日見た予算委員会での財政をめぐる質疑、前原誠司氏のMMTに対する硬直的姿勢にも通ずる。レーニンもOBさんも前原氏も、何か「守るべき牙城」あるがゆえの硬直性か。
前段の「支配欲」をめぐるやりとりも貴重。「支配欲」に関して川喜田二郎さんの文章を引っ張り出したが(https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-12-30)、『限界費用ゼロ社会』のリフキンの言葉を見つけた(https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2016-02-20-1)。
リフキン.jpg《人類の歩んだ歴史を振り返ると、幸福は物質主義ではなく、共感に満ちたかかわりの中に見出されことがわかる。人生の黄昏時を迎えて来し方を振り返ったとき、記憶の中にはっきりと浮かび上がるのが物質的な利得や名声、財産であることはほとんどないだろう。私たちの存在の核心に触れるのは、共感に満ち溢れた巡り会いの瞬間—自分自身の殼を抜け出して、繁栄を目指す他者の奮闘を余すところなく、我がことのように経験するという超越的な感覚が得られた瞬間なのだ。/ 共感の意識は、ユートピア的な理想主義と混同されることがままあるが、それは実際には正反対のものだ。あなたや私が、他の人間であれ他の生物であれ他者に共感を抱くとき、そこには相手にいずれ訪れる死の気配と、目の前に存在する命に対する称讃が漂っている。相手の喜び、悲しみ、希望、恐れを感じ取っている間、私たちの命はどれも心もとないものであることが、私にはしきりに思い出される。他者に共感するとは、自分の命に対するのと同じように相手の唯一無二の命を認識することだ。それが文明社会を生きる人間であれ、森の中で暮らすシカであれ、彼らの時間も自分の時間と同じく、巻き戻しも繰り返しもできず、生ははかなく、不完全で、困難なものであると理解することだ。共感を抱いているとき、私は相手の存在の脆さとはかなさを感じる。共感を抱くとは、他者が繁栄するよう応援し、相手の短い人生に秘められた可能性のすべてを自ら実感することだ。思いやりとはすなわち、地球上で生命の旅をする仲間として連帯の絆を認めて、互いの存在を祝福する私たちなりの方法なのだ。/ 天国に共感は必要なく、ユートピアに共感の入り込む余地はない。というのも、こうした異世界には、悩みも苦しみも、弱さも欠点もなく、完璧さと不死があるのみだからだ。共感溢れる文明社会で仲間とともに生きるということは、互いの力になり、思いやりを通して、不完全な世界で繁栄に向かって邁進する互いの奮闘をたえず称え、それによって、私たちがはかない存在であるという現実を認め合うことを意味する。最高に幸せな瞬間とはつねに、最も大きな共感を覚える瞬間にほかならなことを、ほんのわずかでも疑う者がいるだろうか?》464-469p
*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog