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「時間はゆったり流れていた」昔の食生活 [わが家史]

この頃何につけ「昔は豊かだった」と思うことが多い。とりわけ思う食生活。

8人家族だった。決して豊かな家ではなかったが、ずっと引き継がれてきた伝統が生きていた。いつの頃からか台所で食べるようになってしまったが、祖父母のいる時代は、一つの部屋に食膳を用意し、それぞれ決まった席に食器、箸を並べるのが子供の役割だった。料理は祖母の役割だった。食材は主に近くの店(まるみやさん)から求めたが、野菜を積んだリアカーを引いてくるおばちゃん(島貫さん)がいた。御用聞きにまわる魚屋のおにいちゃん(さぶちゃん)がいた。一週間に一度くらい、仙台で仕入れた海産物を運んでくるおじちゃん(扇やさん)もいた。板垣退助の百円札とジャラジャラ金の入った祖母の財布が目に浮かぶ。みな長生きの叔母たちは口を揃えて「ばばちゃのおかげ」と言う。どこでどう変わってしまったのだろう。どんどん「餌」に近づいているような気がしてならない。せめて朝飯だけでも、と祖母の作った味噌汁を思いうかべて作っている。

鈴木宣弘氏の衝撃的題名に惹かれて読んだのが昨年の11月だった。(『世界で最初に飢えるのは日本』(鈴木宣弘)を読む(付・一般質問通告書)https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-11-22-1)鈴木著の趣旨に沿った日経記事が出た。もう過去の「豊かな食生活」など望むべくもないのだろうか。時間はゆったり流れていた・・・そう思うのは、年のせいだけだろうか。

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解読・善行寺過去帳① 「磨積円」 [わが家史]

善行寺過去帳.jpg女大関 若緑の縁で上山城郷土資料館の学芸員長南伸治さんと知り合った。古文書解読講座の講師をしておられると聞いて、かねて気になっていた米沢の善行寺過去帳の解読をお願いしていたら、思っていたよりずっと早くその結果が届いた。

その中に「磨積円」という丸薬のことが書いてあった。柳原中納言という公家から僧侶になった身で暮らしに窮していた時、夢のお告げで万能薬の処方を知り、そのことで寺の立て直しができたというのだ。そういえば以前薬をつくっていたという話を聞いたような気がする。今も何か残っているものはないのだろうか。そして善行寺を訪ねた。薬研と秘伝書が大切に保存されていた。戦争未亡人の先代坊守からはいろんな話を聞いていたはずだが、これは見せてもらったことはない。先代坊守が求めた『一子相伝 漢方秘法  研究と実験録』(松木峰泉 四国高松 民間薬草普及会 昭和22年発行 昭和45年再々々版)も秘伝書とともにあった。

善行寺 薬研.jpg善行寺 薬研説明書.jpg善行寺 秘伝書.jpg

「磨積円」で検索したら、著者: 服部敏良『日本医学史研究余話』の77p「『言継卿記』の医学的考察」の「言継の医療」の章に《言継がいかなる動機で医療に興味を持ったかは明らかではない。しかし『言継卿記』を見ると、しばしば家伝の秘薬と記し、また、大永7年(1527)5月4日には父言綱とともに百草を採りに出かけたり、同年6月7日には磨積円の調合を行ったりしている。》との記述があった。そこでウィキペディアで『言継卿記』を見て驚いた。その著者山科言継(1507-1579)と上泉信綱(1508-1577)との交友にリンクしたのだ。しかも信綱言継処方の薬の愛用者であった。『言継卿記』に見える上泉信綱http://www7b.biglobe.ne.jp/~longivy/note/li0017.htm 
上泉信綱といえば剣聖と讃えられる剣豪で、柳生家につながる新陰流の祖。その孫泰綱についてウイキペディア慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い直前に上杉景勝が軍備強化の一環で仕官を求められたとき、それに応じて上杉氏の家臣となり、直江兼続の配下となった。そして最上氏との戦いである長谷堂城の戦いで、最上氏の武将・志村光安と戦ったが、敗れて戦死した。主水塚という合戦後村人たちが泰綱や戦死者を埋葬供養した塚が長谷堂城跡付近に残っている。/泰綱の娘の元へ志駄義秀の子が養子として入婿し、300石で跡を継ぎ上泉秀富と名乗った。以降子孫は米沢藩士として続く。海軍中将上泉徳弥は子孫にあたる。》我が先祖高岡大隅も上泉組に在って長谷堂の戦いで討死。(慶長5年長谷堂合戦で討死した先祖供養祭https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-10-13善行寺過去帳に、志駄義秀の子義繁の名が記され善行寺草創の頃大いにお世話になったと伝えられる。山科言継→上泉信綱・・・→上泉家→善行寺、この流れが見えてきた。今後どう展開するか。ちなみに、米沢に残る上泉家は雲井龍雄生家の隣。善行寺は宮島誠一郎、宮島大八の生家の隣。また、志駄義秀はキリシタン側で尽力した藩の重臣としてつい先日取り上げたところだった。→『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』(4)地元史とキリシタン②https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-11-01

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「年代記」を書いた人 [わが家史]

奥さんとキャンピングカーで来てくれたこともある学生時代の友人から、「年代記」翻刻版、完成のコメント欄に、「年代記を書いたのは何代前の先祖ですか?」との質問があったので(私が作った)系図を引っ張り出してみた。

「年代記」を書き始めたのが文政13年(1830)。この時生存する歴代当主は、栄次郎58歳(1835没)、丹弥32歳(1874没)、栄蔵2歳(1870没)、この3人。栄次郎は先代の父栄七を早く亡くし、16歳で家督を継いでいる。丹弥は向かいの山崎與左衛門から栄次郎の長女に婿に入るも、その長女は文政10年(1827)に24歳で亡くなったため四女キリを後添えとする。キリは安政4年(1857)46歳で没とあるから、長女が亡くなった時16歳。次女、三女はもう嫁いでいたのだろう。文政13年には丹弥はまだ若く、書き始めたのは栄次郎と考えてあらためて「年代記」を繙くと、天保6年4月まで年ごとの記述がつづく。栄次郎が亡くなるのはその翌月の5月20日、63歳だった。その後は丹弥による記載か。丹弥は「精神最モ活発ニテ強記博識ノ人也」(「髙岡氏累伝記」)とのことで、雑学的記述も多い。年ごとの記述の再開は天保15年(1844)から明治40年(1907)10月まで。栄次郎の孫で丹弥の子栄四郎(号 吉信)か。栄四郎没が明治40年10月26日、74歳だった。亡くなる直前まで書き続けたことになる。ただ、明治3年(1870)に42歳で亡くなった栄四郎の兄栄蔵がおり、丹弥の次の代。栄蔵には4人の子供がいて長男次助の長女が私の祖母キリ。丹弥を婿に迎えた栄次郎の四女キリの名にあやかっての命名と聞いたことがある。宝珠院釋尼妙朗大姉の戒名からして明るい人柄だったのだろうか。栄蔵と栄四郎兄弟二つの流れが、私の祖父信太郎と祖母キリが一緒になることで合流した。

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「年代記」翻刻版、完成 [わが家史]

年代記翻刻版表紙.jpg年代記表紙.jpgわが家に伝わる「年代記」が東北芸術大学・古文書調査会によって翻刻され、B5判110ページの立派な冊子となって、昨日(25日)届けていただいた。出来上がってきて、ほんとうに驚きと感激だ。来年の年賀状、没後150年の雲井龍雄で24日の夜に発注完了していたのだが、急遽この「年代記」にすることにして差し替えた。

粡町は何度も火災に遭っている。しかしわが家には二つの蔵があって、消失を免れた物が少し残っている。「少し」というのは、昭和の初め、家から出た縁者の保証で土地も物もかなり手放し、以来祖父の代、ぎりぎりで生き抜いてきた。その「少し」の中のひとつが「年代記」だった。そもそも金に替えれるものでもない。

東日本大震災の8年前、東北芸工大の竹原万雄(かずお)という日本史を研究する若い先生が訪ねて来られた。たしか南陽市出身の小関悠一郎先生と一緒だった。「東日本大震災で多くの貴重な古文書を失った。なんとか古文書を散逸、消失から守りたい」とのことだった。南陽市史史料編纂室の須崎寛治先生からの紹介のはずだ。その時お見せしたのが「年代記」だった。

私からすれば「雑多な記録」だった。その時々の「あったこと」「知ったこと」なんでも詰め込んだもので、考えてみるとこの「移ろうままに」もそんなものなわけで、私に流れる先祖の血を思わされるが、受け取りようによってはたしかに貴重な面もあったのだということが、竹原先生の解説、その翻刻の内容を読んであらためて思わされているところです。いずれネットでアクセスできる様にしたいと思います。この8年間、何回も通って来られてここまで仕上げられた竹原先生にほんとうに感謝です。まさかここまでこうなるとは思ってもいませんでした。

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