小田仁二郎コーナー充実(宮内文化史展) [小田仁二郎]
宮内公民館で開催中の「宮内文化史展」、先日山形新聞で紹介されたことで、他市町からも足を運んでいただいています。そんな中、小田仁二郎コーナーへの要望ありましたので充実を図ってきたところです。じっくりご覧ください。
・『月刊 素晴らしい山形』小田仁二郎特集(1992.8)
・私を「小説家にした」異彩 ー前衛ゆえに不遇ー 瀬戸内寂聴
・わが内なる小田仁二郎 大竹俊雄
・幻の小田仁二郎 宮内の一隅より 井上宏子
・追憶 黒江二郎
・遠い記憶 牧野房
・宮内人・小田仁二郎 はぐらめい
・父の影 金澤道子
・私を「小説家にした」異彩 ー前衛ゆえに不遇ー 瀬戸内寂聴
・わが内なる小田仁二郎 大竹俊雄
・幻の小田仁二郎 宮内の一隅より 井上宏子
・追憶 黒江二郎
・遠い記憶 牧野房
・宮内人・小田仁二郎 はぐらめい
・父の影 金澤道子
* * * * *
安藤礼二『井筒俊彦 起源の哲学』 [小田仁二郎]
安藤礼二『井筒俊彦 起源の哲学』に小田仁二郎への言及があった。
『触手』冒頭の引用の後、井筒による小田文学評価の視点、《視覚をはじめとするありとあらゆる身体感覚が一つに混交し、描写はミクロからマクロまで、過去と現在という時間の隔たりを完全に無化してしまうように、自在に往還する。井筒俊彦が文学表現の極として考えていたのは、そのような世界である。井筒が求めた、表現の根源にして、意味の根源でもある。》
* * * * *
「宮内人・小田仁二郎」評(馬場重行) [小田仁二郎]
馬場重行米沢女子短大名誉教授による評。見出しに「バラエティーに富む誌面」とある。私のに関してはこうある。
《先ごろ没した瀬戸内寂聴の、若き日の恋人だった小田仁二郎をめぐる「評論」。はぐらめいの「宮内人・小田仁二郎」も、いささか思いが先走り話題が拡散し過ぎている点は惜しまれるものの、書き手の熱心な思いが伝わってくる文章だった。「私が小学校に通っていた時期は、ちょうど仁二郎さんと寂聴さん(瀬戸内晴美)との半同棲時期に重なる」という筆者は、「私が生まれる前の異常な時代がまた巡ってきているのではないかという思いに囚われる」と記すが、まったく同感である。〈新しい戦前〉とも言われるような不穏できな臭い雰囲気が、日々の報道のあちこちにうごめくような危機感をいだかざるを得ない。》
・
小田仁二郎の現在的意義(「杜」45号より) [小田仁二郎]
コロナになってじっとしていました。イベルメクチンのおかげか、38.3度ぐらいが最高ですぐに平熱になったのですが、気力の減退がひどかった。次の行動がしたくない、ずっと今のままでじっとしていたい・・・気力を振り絞るべきところはなんとか振り絞って乗り切ってきたつもりですが、いろんなところにしわ寄せが出ています。
そんな中、昨日、初めて寄稿した「杜」45号が届きました。「宮内人・小田仁二郎」と題して書いていたものです。以前から代表の清野春樹さんから「小田仁二郎のこと書いて」と言われていた約束を、先日の市民大学講座で不十分だったところを補って果たしました。私の文は16pになりました。市販(800円+税)の同人誌なので、書店でお求めいただくことをお願いして、一部だけ転載しておきます。「五、小田文学の現在的意義」の中の「(三)、『同調圧力』に動じない精神のありよう」です。一昨日のマドモアゼル・愛さんの「メトロノームがもうすぐ止まる」https://www.youtube.com/watch?v=Emu-1ScESfEにシンクロしていました。
* * * * *
「もしかしたら、神のような人なのか」(寂聴) [小田仁二郎]
井筒俊彦が小田仁二郎を何故評価したのかについて、ちょっとわかったような気がしたので書いておきます。
「瀬戸内寂聴 58年前の手記【3】「目をそらして来た彼の妻の影像に向き合う」」にこうあった。《無意識にそこから目をそらして来た彼の妻の影像に、私は、むりやり自分の目を凝らすようにしつけはじめた。8年間、唯の一度も不平がましいことをいわず、唯の一度も私を訪ねても来ず、うらみごとの一つ云っても来ないその人……無神経なのか、生きているのか、もしかしたら、神のような人なのか……。》ここで寂聴さんは、仁二郎の奥さんを指して「神のような人なのか」と言ったのだが、私には仁二郎についても言えるように読み取れた。奥さんが「神」であるように仁二郎も「神」であるようなレベルで理解しあった夫婦関係というのもあったのだと。
その時の「神」を「一人称存在」と言い換えて理解する。実は安藤礼二が、《文学は神がかったひとが一人称を語るところから始まった》とする折口信夫と井筒俊彦のひびき合いに着目している文章を読んで仁二郎を思っていたところだった。(→井筒俊彦を読みなおすー新しい東洋哲学のために 安藤礼二+中島隆博https://genron-cafe.jp/event/20191126/)福田恆存は、小田仁二郎の作品がポルノ小説ととられかねないのを危惧して「あくまで知性の文学」と断じたが、福田が「日本で初めての完全な一人称小説」と認めた『触手』に、井筒俊彦は知性以前の、あるいは知性を超えた「神懸かり性」を読み取ったのではないか。つまり、井筒俊彦は小田文学に「文学の初源性」を認めていたのではなかったのか。ーーーここからいろいろ世界が広がるのを感じるが、とりあえず今はここまで。
* * * * *
小田仁二郎の現在的意義を探る(市民大学講座)(下) [小田仁二郎]
「小田仁二郎の現在的意義」を言うならば、小田仁二郎がドゥーギンにつながっていることが今の私にはいちばん語りたいところだった(「小田仁二郎→ドゥーギン→井筒俊彦」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-11-10-4)。ところが講座前日にそれが封印された。3月議会最終日、議会発議案「ロシアによるウクライナ侵略に断固抗議する決議」にひとり反対(「「ロシアによるウクライナ侵略に断固抗議する決議」に反対」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-03-19)して波紋を呼んだのだが、そのことの再燃を危惧してのことだった。資料からそこのところを削除することを了承し、A4両面の補遺資料を用意して臨んだ。結局ドゥーギンには触れずじまいだった。
福田恆存は、《なんら既成概念も先入観もなくはじめてこの世界にはいってきて、感覚以外のなにものも隔てずにじかに現実に接触する嬰児の、あの原初的な一人称》を回復することが小田仁二郎の企てであり、《「触手」においては完全な一人称小説がーおそらく日本ではじめて ーうちたてられた》という。《他人の存在を意識することによって、ひとははじめて自己を確認する。・・・が、じつは、三人称をうちに含まぬ一人称は存在する。ひとびとがこの場合一人称というのはたんなる自我意識にすぎぬのだ。・・・(「触手」の作者は)一人称をこの自我意識のそとに設定しようともくろんだのである。》いわゆる「自我意識」は「他者意識」と表裏をなす。そして必ず「他者と比べる」のが「自我意識」の宿命(業)といっていい。しかしそれは本来の「一人称」ではない。小田が目指したのは「自我意識」とは無縁な「原初的な一人称」だ。福田はそこに《能動性を欠いた性格の弱さを究極にまで押しつめ、そこで負を正にかえた強さであり、新しさ》を見てとり、小田が《自我意識そのものの無意味さから出発している》ことを高く評価した。
その達成を見た種村季弘は、そこに《見渡せば花も紅葉もない藤原定家の匂いたつ虚無の香り》を感じ取ったのだった。定家は「鎌倉殿の13人」と同時代人だ。ここ宮内はかつて「北条郷」と呼ばれていたが、北条時政の妾腹の子北条相模坊臨空に由来する。《相模坊ト申スハ拙寺中興清篇法印ヨリ相模坊ト名乗り申シ候右相模坊父ハ鎌倉北条遠江守平時政、母ハ沼田氏妾腹ノ子也 生得武ヲ嫌ヒ、沼田ノ家二罷在り歳十三二シテ清誉憎正ノ御弟子ト成リ、僧名ヲ臨空ト申ス 後年師二暇ヲ乞ヒ、佐野何某ト申ス者一人道連レ諸山巡拝シ、羽州羽黒山二来り数日山篭ノ後、何連レノ故御領内宮内二来リテ年行事ノ寺跡ヲ継ギ、是ヨリ相模坊ト名乗り三十三郷ノ霞支配仕り罷在り候処、北条ノ子ナル事ヲ知り時ノ人口々二北条相模坊ト唱へ、夫ヨリ自然ト三十三村ノ郷名ト相成り自今北条郷ト唱ヒ申シ候》(南善院由緒書)「生得武ヲ嫌ヒ」出家した。「鎌倉殿の13人」の殺し合いを見るにつけ北条相模坊を思う。定家も同じ時代の空気を吸っていた。そして「触手」は戦時下において構想されていた。
さて、うまく伝わったかどうか心許ないのだが、私の意図したのは「自我意識」と「ゼニカネ感覚」をつなげることだった。「自我意識」は「ゼニカネ感覚」に見合っている。貨幣経済の進展とともに「自我意識」は幅をを利かすようになった。福田恆存をどう紹介しようかとあれこれ探して見つけたのが、小林よしのりにとっての福田観だった。(すぐに『修身論』を注文したのだがまだ届いていない。)私の意図とぴったりではないかもしれないが、《人間は生産を通じてでなければ付合えない。消費は人を孤独に陥れる》の言葉、大事な言葉に思えて入れておいた。この言葉の背景に「ゼニカネ」がまつわりついていることは確かだ。『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事 』を思った。
「ゼニカネ感覚」が似合わないのが小田仁二郎だった。その分、奥さんがどれだけ苦労したことか。先日吟行の後の懇親会で、仁二郎の母たかさんの実家である杵屋本店の大女将マーさん(90歳)と隣り合わせて話したのだが、杵屋本店にとって瀬戸内晴美なる女は悪女以外のなにものでもなかったとか。金沢道子さんと寂聴さんがわだかまりなく同席した仁二郎文学碑の除幕式にも、杵屋本店からの参列は一切なかったという。(ただし、文学碑を建立した南陽文化懇話会会長は、駅前杵屋支店の菅野俊男さんだった。俊男さんは婿養子で奥さんが仁二郎の従兄妹。↓は「週刊置賜」に連載された講演録)
《「他者と比べる」のが「自我意識」の宿命》と書いたが、その延長上にあるのが「ヘゲモニズム」。川喜田二郎は「常に他より上を目指してやまない覇権主義」と言い換えた。その「自我意識」とは別次元の「一人称世界」を切り拓いたのが小田仁二郎だった。ぶち壊しぶち壊しして、そこにたどりつくことが往路とすると、現実世界で生きて行くにはそこに立ち停まるわけにはいかない。環路がある。「にせあぽりや」は、往路であるとともに環路でもある。そのとき再び、あの宮内の生々しい情景が甦る。私の中では、ここからドゥーギンに繋がってゆくのだが、それはまた別に書く。
仁二郎の母の「自我至上の生き方うたがひ街を歩く生あたたかき風の吹く夕べ」をむすびとした。たかさんが感じ、仁二郎に引き継がれた宮内の空気を思いつつ。
* * * * *
小田仁二郎の現在的意義を探る(市民大学講座)(上) [小田仁二郎]
昨日市民大学講座を終えてきました。どこまで伝わったかはわからないので、語りたかったこと、語り終えてわかったこと、気づいたことなど、ひっくるめて整理しておきます。
・
小田仁二郎にとって「触手」が中心に抱えていた課題のひとつの集大成、小田仁二郎の世界の広がりの中でひときわそびえ立つ頂点だったのだと思う。ぎりぎりのところまで行き着いた果ての「触手」の世界。そしてそこに至るまでのプロセスとしての「にせあぽりや」。
・
「にせあぽりや」のとりわけ難解な最終章「宗次郎のノート」、そこで登場する、その匂いまでも伝わってくるような「一枚の貝殻」、その貝殻に小田にとっての「自我」観が凝縮されていることに気づく。《私は、泥のなかから、一枚の貝殻を掘り出した。あわびの貝のようでもあり、帆立貝の殻でもあるようだ。貝の内面には、泥が、かたくこびりつき、なんともしれぬかすかなにおいが、鼻をついた。私には、そのにおいが、泥から発するものか、貝殻からたちのぼるものなのか、わからないのである。泥の厚みは、ほとんど一寸にも達し、鉄の如きかたさをなしていた。私は、鋭利な刃物で、泥を削りおとしていった。泥がうすくなるにつれ、においが、しだいに、鋭く強度をまし、鼻の感覚を、しびれさすようであった。やがて、泥は、あとかたもなく、とり去られたけれど、においのみが鼻をさしつらぬき、貝殻の内面は、いっこうに光りかがやかなかった。私は、試みに、刃もので、貝の一部を鋭角にきりとった。いちぢに吐気をもよおす臭気が、両眼をうってき、それとほとんどいっしょに、貝殻は、音たてて、粉みじんにこわれたのである。みれば、貝殻は、その内部がどろどろに腐蝕し、わずかに、こびりついた泥で、形をたもっているにすぎなかった。・・・それは泥にかためられ、ようやく形だけ保っている、一枚の貝殻の姿である。重さもなく、軽さもない機関車とは、不可思議な思考の重さであった。思想は、重さであり、重さは、行為である。行為のないところに重さはなく、重さのないところに、流動の思想はない。流動のない思想は、内部の腐蝕せる貝殻でしかないのである。流動のない思想は、この腐蝕せる貝殻を、生あるものと誤信し、これに重さの行為を要求する。貝殻は空中高くなげあげられ、または水中深く沈められるが、そこに発現するのは、腐敗の臭気にすぎない。あるいは、貝殻を、祭壇のおくふかく祭りこめ、これに不可能の祈りをささげる。堂内は、息がつまり、いつか貝殻は、祭壇の奥で、どろどろにとけているのだけれど、祈りをささげるものは、誰一人、これを知らないのである。》
・
自我が空無と化した世界が「触手」の世界とすると、それに至るまでの世界が「にせあぽりや」の世界、そこにあった《吐気をもよおす臭気》とともにあった貝殻としての自我、しかしその自我云々以前の「生きられた世界」がたしかに在ったのだ。小田文学にとってそれは幼少期の宮内の記憶だった(↓「にせあぽりや」に描かれた宮内)。たとえば春先の雪割りの様子、これほど生き生きと描かれた宮内を知らない。《冬も、いよいよ、おわりちかくなります。いままで、きよらかな、もちのような雪のはだも、だんだん、あばたずらのように、きたなくなるのです。やねからおろした雪が、六七尺も、おかのようにたかく、かたくこおっているおもてどおりの道などには、ごごの日にとけて、馬ふんをうかべていた水たまりが、できるようになりました。・・・》今から60年以上前の情景が昨日のように眼前する。あるいは、初雪の情景、《・・・にわの大きな松のえだには、かさをさしたように雪がたまり、そのさきのほうは、いまにもゆきがすべりおちそうに、たれているのです。いたべいぎわの、こうやまきなどは、おちのこった雪がまだらにつき、しらがまじりの、ざんばらがみです。にわの西がわの便所のやねも、もんのまえのうちの、わらやねも、まっしろにおちつき、わらやねのけむだしからは、うす青いけむりが、しずかにたちのぼります。・・・》小田家の佇まいから道路を挟んだ片平豆腐屋の茅葺屋根が懐かしくまざまざと思い浮かぶ。小田の自我以前の記憶にしっかり刻み込まれていた宮内の情景、それこそが小田にとっては「ほんとうに実在するもの」だった。
終章で、それらのすべてが御破算にされる。《私は、茫然と四つ辻にたち、身にせまりくる寂滅にふるえおののき、眼のすみで、あたりをみまわした。四つ辻の、家という家は、屋根がおち、柱はおれ、くもり空に、その骨をさらしているのだ。くずれのこる倉の白壁は、風雨にくろずみ、四つ辻におこる、ひそかな竜巻にも、もうもうたる煙りをまきあげた。けれど、その砂塵をとおし、くずれおちる白壁にも、おちかたむく屋根にも、瀕死の人の手のような家の骨にも、私の記憶は、戦慄をおぼえてくるのである。戦慄は、私のうちからそとへ、四つ辻いっぱいにひろがり、煙りをまく白壁に、灰黒色のそらにつきだす家の骨に、つきささっていった。これこそ、私がめざし、飛翔してきた町の、廃墟であった。》そうしてあらためて始まるのが「触手」の世界だったのだ。
* * * * *
小田仁二郎→ドゥーギン→井筒俊彦 [小田仁二郎]
ドゥーギンの「第四の政治理論の構築に向けて」をワクワクしながら読んでいて、ふと思い立って「第四の政治理論」で検索したら、思いの外の出会いがありました。実はあさって市民大学講座で「小田仁二郎の現在的意義」と題して語ることになっているのですが、資料原稿提出間際になって、「現代的意義」として挙げねばらないと思ったのが「プーチンの思想的背景としてのアレクサンドル・ドゥーギン」。そんなわけで検索を思い立ったのですが、井筒俊彦とつながって驚きました。小田仁二郎と井筒俊彦のつながりは、いちばん知って欲しいところですので。→「井筒俊彦夫妻と小田仁二郎・瀬戸内寂聴さんとの交流」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-08-26
* * * * *
寂聴さんの『場所』 [小田仁二郎]
今朝の山新の一面「談話室」、ノーベル文学賞のアニー・エルノー関連で、寂聴さんの『場所』が取り上げられている。あらためて仁二郎との「場所」を描いた「塔ノ沢」を開いた。
《はじめて裸を見せ合ったばかりだとういのに、この沈黙のもたらす言いようのない平安は何なのだろうと、私は心の芯まで湯のあたたかさにほとびてゆくようだった。》(180p)「ほとびてゆく」の言葉に、仁二郎と寂聴さんの間の空気感がこめられている。「潤びてゆく」と書くことを今知った。
11月12日に市民大学講座で小田仁二郎について話さねばならない。それまでに『にせあぽりや』復刻を果たすはずだったのに、もう間に合わない。たまたま昨日そのことを書いた手紙を見つけたところだった。
* * * * *