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小田仁二郎の現在的意義を探る(市民大学講座)(上) [小田仁二郎]

昨日市民大学講座を終えてきました。どこまで伝わったかはわからないので、語りたかったこと、語り終えてわかったこと、気づいたことなど、ひっくるめて整理しておきます。
小田仁二郎にとって「触手」が中心に抱えていた課題のひとつの集大成、小田仁二郎の世界の広がりの中でひときわそびえ立つ頂点だったのだと思う。ぎりぎりのところまで行き着いた果ての「触手」の世界。そしてそこに至るまでのプロセスとしての「にせあぽりや」。
「にせあぽりや」のとりわけ難解な最終章「宗次郎のノート」、そこで登場する、その匂いまでも伝わってくるような「一枚の貝殻」、その貝殻に小田にとっての「自我」観が凝縮されていることに気づく。《私は、泥のなかから、一枚の貝殻を掘り出した。あわびの貝のようでもあり、帆立貝の殻でもあるようだ。貝の内面には、泥が、かたくこびりつき、なんともしれぬかすかなにおいが、鼻をついた。私には、そのにおいが、泥から発するものか、貝殻からたちのぼるものなのか、わからないのである。泥の厚みは、ほとんど一寸にも達し、鉄の如きかたさをなしていた。私は、鋭利な刃物で、泥を削りおとしていった。泥がうすくなるにつれ、においが、しだいに、鋭く強度をまし、鼻の感覚を、しびれさすようであった。やがて、泥は、あとかたもなく、とり去られたけれど、においのみが鼻をさしつらぬき、貝殻の内面は、いっこうに光りかがやかなかった。私は、試みに、刃もので、貝の一部を鋭角にきりとった。いちぢに吐気をもよおす臭気が、両眼をうってき、それとほとんどいっしょに、貝殻は、音たてて、粉みじんにこわれたのである。みれば、貝殻は、その内部がどろどろに腐蝕し、わずかに、こびりついた泥で、形をたもっているにすぎなかった。・・・それは泥にかためられ、ようやく形だけ保っている、一枚の貝殻の姿である。重さもなく、軽さもない機関車とは、不可思議な思考の重さであった。思想は、重さであり、重さは、行為である。行為のないところに重さはなく、重さのないところに、流動の思想はない。流動のない思想は、内部の腐蝕せる貝殻でしかないのである。流動のない思想は、この腐蝕せる貝殻を、生あるものと誤信し、これに重さの行為を要求する。貝殻は空中高くなげあげられ、または水中深く沈められるが、そこに発現するのは、腐敗の臭気にすぎない。あるいは、貝殻を、祭壇のおくふかく祭りこめ、これに不可能の祈りをささげる。堂内は、息がつまり、いつか貝殻は、祭壇の奥で、どろどろにとけているのだけれど、祈りをささげるものは、誰一人、これを知らないのである。》
自我が空無と化した世界が「触手」の世界とすると、それに至るまでの世界が「にせあぽりや」の世界、そこにあった吐気をもよおす臭気》とともにあった貝殻としての自我、しかしその自我云々以前の「生きられた世界」がたしかに在ったのだ。小田文学にとってそれは幼少期の宮内の記憶だった(↓「にせあぽりや」に描かれた宮内)。たとえば春先の雪割りの様子、これほど生き生きと描かれた宮内を知らない。《冬も、いよいよ、おわりちかくなります。いままで、きよらかな、もちのような雪のはだも、だんだん、あばたずらのように、きたなくなるのです。やねからおろした雪が、六七尺も、おかのようにたかく、かたくこおっているおもてどおりの道などには、ごごの日にとけて、馬ふんをうかべていた水たまりが、できるようになりました。・・・》今から60年以上前の情景が昨日のように眼前する。あるいは、初雪の情景、《・・・にわの大きな松のえだには、かさをさしたように雪がたまり、そのさきのほうは、いまにもゆきがすべりおちそうに、たれているのです。いたべいぎわの、こうやまきなどは、おちのこった雪がまだらにつき、しらがまじりの、ざんばらがみです。にわの西がわの便所のやねも、もんのまえのうちの、わらやねも、まっしろにおちつき、わらやねのけむだしからは、うす青いけむりが、しずかにたちのぼります。・・・》小田家の佇まいから道路を挟んだ片平豆腐屋の茅葺屋根が懐かしくまざまざと思い浮かぶ。小田の自我以前の記憶にしっかり刻み込まれていた宮内の情景、それこそが小田にとっては「ほんとうに実在するもの」だった。
仁二郎生家 門.jpghttps://oshosina.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_e75/oshosina/E4BB81E4BA8CE9838EE7949FE5AEB6E69DB1E581B4-f1571.jpg
終章で、それらのすべてが御破算にされる。《私は、茫然と四つ辻にたち、身にせまりくる寂滅にふるえおののき、眼のすみで、あたりをみまわした。四つ辻の、家という家は、屋根がおち、柱はおれ、くもり空に、その骨をさらしているのだ。くずれのこる倉の白壁は、風雨にくろずみ、四つ辻におこる、ひそかな竜巻にも、もうもうたる煙りをまきあげた。けれど、その砂塵をとおし、くずれおちる白壁にも、おちかたむく屋根にも、瀕死の人の手のような家の骨にも、私の記憶は、戦慄をおぼえてくるのである。戦慄は、私のうちからそとへ、四つ辻いっぱいにひろがり、煙りをまく白壁に、灰黒色のそらにつきだす家の骨に、つきささっていった。これこそ、私がめざし、飛翔してきた町の、廃墟であった。》そうしてあらためて始まるのが「触手」の世界だったのだ。
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小田仁二郎の現在的意義を探る

 

故瀬戸内寂聴氏は「その一冊(『触手』)が、将来私も死に、あるいは遺族も死んで何十年か経った時に、日本だけではなく世界の文学として取り上げられ、翻訳され、日本の歴史の一つの文学の流れの中である峯だとして見直される時が必ず来ると私は予言いたします」と語った。この「予言」の背景を明らかにしながら、作品を題材に、小田仁二郎の現在的意義について考える。

 

 はじめに

 

金澤道子さんへの手紙 

前略

 初めてお手紙差し上げます。宮内の者です。昭和22年生れ、小田家からまっすぐ東に行き広い通りを右に曲がって100メートルほどのところで代々染物屋をやっています。小田家の前を通って小学校に通いました。おばあちゃんのお姿ははっきりと記憶にあります。明治24年生れの祖母も親しくしていたかもしれません。洗張りをやっていたのでお客様としてのおつきあいもあったのかもしれません。息子さんが小説家になっているとの話は子供心にも知っておりました。

 米沢の高校を出て岡山の大学に行き、以来10年ほど外で暮らしてから家に戻って染物の仕事をしているのですが、数年前から南陽市民大学の運営委員になったことから講師を務めることになり、このほど「小田仁二郎と宮内」という題で語らせていただきました。

 平成3年の除幕式での寂聴さんの講演は「週刊置賜」がていねいにテープを起こしてくれていて読むことができます。その冒頭、井筒俊彦氏との関わりが語られています。「井筒さんが褒めてくれた時ほど仁二郎のうれしそうな顔を見たことがなかった」と。井筒俊彦はとんでもない学者らしい、その人と小田仁二郎がどう関わるのか、そんなことから井筒俊彦をかじるようになってすこしずつ小田仁二郎ワールドへの視界が開けてきたように思います。現段階での私なりに理解したところをお送りしてみますのでお読みいただけたらうれしいです。

 さて、それにつけても「にせあぽりや」を特に宮内の人に読んでほしいのですが、「触手」はいろんな形で公刊されていますが、「にせあぽりや」を読むには真善美社版か「ふるさと文学館 第七巻」だけ。しかもなんとしたことか(なんらかの意図があってのこととも思えませんが)、「ふるさと文学館」の方は「にせあぽりや」のいちばん大事な最後の一節がまるっきり抜け落ちています。そんなことから、これから「小田仁二郎文学研究会」のような形をつくってゆくとして、まずはとにかく「にせあぽりや」が手軽に読めるようにしなければならない。コピーなんかよりいっそデータ化してしまったらどうか。そう思い立ったら矢も楯もたまらずとっかかってしまいました。OCRで全文読みとるところまで終りました。文字化けを直してきちんとしたデータにするのにはもう少し時間がかかると思いますが、目処は立ちました。

 そんなわけで、今後どう進めればいいか(著作権所有者でもあられるであろう)娘さんにご相談をということでお手紙差し上げる次第です。ご住所は、お父さんの従妹である菅野とし子さんの御子息昭彦さんからお聞きしました。昭彦さんとはごく親しくさせていただいています。(弟の敬三君は同級生です。)

 「触手」と「にせあぽりや」はセットの作品であることが理解できました。福田恆存の「読者のために」も入れていずれ文庫本の形で大手出版から公刊されるべきです。わたしがやりたいのはそれまでのつなぎです。とりあえずは宮内の人たちに「にせあぽりや」を知って欲しい。初雪や雪割りの描写は宮内で育った者にとってぞくぞくするほど感覚的にわかります。通りのようすやおくまんさまや小学校の校庭の描写もほんとうにうれしくなります。こういう形で宮内が見事に表現されていることを知ることで、宮内に関わる人間がどれだけふるさとへの思いを深くすることができることか。これまで見過ごされていたのがほんとうにもったいないことだと思いました。

 今後の私の希望を申し述べますと、

  1. 「にせあぽりや」を頒布価格300円ぐらいを目処に、5001000部印刷します。当面の印刷費用は私が負担します。金澤さんにはご希望の分だけ(100200部)無料でお送りします。とりわけ『触手』の公刊に向けてご活用いただけたらと思います。こちらでは宮内を中心に頒布します。

  2. 「小田仁二郎文学研究会」を南陽市で立ち上げます。会員になっていただける数人の顔が思い浮かびます。金澤さんにはぜひ顧問になっていただきたい。「にせあぽりや」の発行も研究会の名で行えたらと思っています。

  3. 私どもの出来る範囲になりますが、南陽市行政当局や地元マスコミ等にも働きかけて小田文学への関心が高まるような動きをつくりますので、中央からも動きが出てほしいです。

 福田恆存、髙橋和巳、種村季弘、そして井筒俊彦という錚々たる方々の評価を見るにつけ、小田文学がほんとうに世間に受け入れられるようになるのはこれからだと思います。私ごときがこういう思いになれたこと自体、時代がようやく小田仁二郎の世界に追いつきつつあることの証であると思っています。宮内がこうした人物を生み出していたことを誇りに思います。小田文学のあちこちに宮内的感覚が息づいていることを実感できるのです。まずここからです。多くの人とこの感覚を共有できればと思っています。どうか応援して下さい。よろしくお願い申し上げます。

 

    平成262014)年1124

 

  1. 寂聴さんにとっての小田仁二郎

 小田仁二郎と瀬戸内晴美。二人の出会いは昭和26年(1951)、小田41歳、瀬戸内29歳の時だった。瀬戸内は代表作『場所』(2001)の「塔ノ沢」にこう書いた。《はじめて裸を見せ合ったばかりだというのに、この沈黙のもたらす言いようのない平安は何なのだろうと、私は心の芯まで湯のあたたかさにほとびてゆくようだった。》(ほとびる;潤びる)

 小田が定期的に瀬戸内に通う半同棲の日々が8年あまりつづく。その後、前の若い男が絡んでなしくずしの別れにいたる。その経験を題材にしたのが瀬戸内の出世作『夏の終り』1962)。小田は慎吾の名で登場する。
 《慎吾の留守に一人でした経験のすべてを、慎吾の顔を見るなり息せききって告げ、一つのこらず話してしまうと、はじめてそれらの経験がじぶんの中に定着するのを感じた。無口で非社交的で、経済力のない、世間の目から見れば頼りない男の典型のような慎吾に、知子は全身の鍵をあずけたようなもたれかただった。》
 『夏の終り』は昭和381963)年、女流文学賞を受賞する。その受賞式での小田との邂逅が、自伝小説『いずこより』(1974)に描かれている。
 《受賞式の席上、私は場所柄もがまん出来ず、挨拶の途中で、涙につきあげられて絶句した。この貧しい作品にこめられた小田仁二郎との十年にわたる歳月の想い出が私の立っている足をすくいそうになった。私は彼から、小説を書くことを教えられ、認められるチャンスを与えられ、励まされた。何よりも私は彼との生活によって、文学の質の高さとか低さというものを言葉ではなく、皮膚から教えこまれた。女として充実した美しい恋の日々を与えられた。》
 瀬戸内は、ホールにいる客の中に、来賓として招かれていた小田を探し出す。
 《壁ぎわで笑っているなつかしい顔があった。「ありがとうございました」私は人が見ていることも忘れて深いお辞儀をしていた。「よかった、ほんとによかった」低い私にしか聞きとれない彼の声を私は吸い込むように聞いた。私は泣いていた。》

 

  1. 寂聴さんの予言

 平成319911028日、小田仁二郎の同級生達の発案に南陽市文化懇話会が呼応して、生家のすぐ近く、宮内公民館の一角に文学碑が建立なった。碑には、寂聴さんによって一文字一文字拾い集めて綴られた「触手」冒頭の一節が刻まれている。新たな文学世界の展開という小田文学を象徴する一文といえる。
 除幕式の日の講演で寂聴さんはこう語った。《その一冊(『触手』)が、将来私も死に、あるいは遺族も死んで何十年かたった時に、日本だけではなく世界の文学として取り上げられ、翻訳され、日本の歴史の一つの文学の流れの中で、ある峯だとして見直される時が必ず来ると私は予言いたします。》その理由について、《井筒俊彦さんが小田仁二郎の『触手』の文章を『これは言語学的にすばらしいものだ。』というふうにおっしゃいました。・・・それを聞いて小田仁二郎は、私が一緒におりました歳月の中でいちばんうれしそうな顔をしたのをおぼえております。》
 井筒俊彦1914-1993)は「20世紀の日本が生み落とすことができた最大かつ最高の思想家」(安藤礼二)と言われる。世界中の言語に通じ、最も深みでの東西思想共通理解を目指す。8年前の生誕100年を機に全集13巻が刊行され、評価は年ごとに高まる。『コーラン』訳も業績のひとつ。
 その井筒と小田の交流について、後に寂聴さんが記した文章がある。
 《(1956年頃、小田と一緒のとき)私の下宿に突然未知の女性が訪れた。上品な物静かな人は井筒豊子と名乗り、「Z」の同人になりたいと言う。華奢で消え入りそうな風情なのに、言葉ははきはきして、相手の目を真直見て、「主人の井筒俊彦が、小田さんの『觸手』を拝見して、私に小説の御指導をしていただけと申します。」と言葉をつづける。めったにものに動じない無表情な小田仁二郎が驚愕したように背筋を正し、「井筒俊彦さん・・・・・あの言語学の天才の・・・・・」豊子さんはそれを承認した微笑をたたえて、わずかに顎をひいた。その時から私たちと井筒夫妻との有縁の時間が始った。》(『井筒俊彦全集』第4巻月報 2014

※参考

* 1954年(40歳) - 慶應義塾大学文学部教授。
* 1959年(45歳) - ロックフェラー財団研究員。
* 1961年(47歳) - カナダ・マギル大学客員教授。
* 1962年(48歳) - 慶應義塾大学言語文化研究所教授。
* 1967年(53歳) - スイス・エラノス会議会員。
* 1969年(55歳) - カナダ・マギル大学イスラーム研究所正教授。
* 1975年(61歳)~1979年(65歳) - イラン王立研究所教授。
* パリ国際哲学研究院正会員。
* 1981年(67歳) - 慶應義塾大学名誉教授。

交遊は井筒の海外生活で途絶えた。


  1. 「にせあぽりや」の世界

寂聴さんによる回顧

《生家が山形県宮内の開業医の家であったということもよく話に出た。彼の死後、本気で集めて見て、思っていた以上に書いたものが多く集められたが、若い書きはじめの頃に、「にせあぽりあ」の原型のような形の、幼児時代を書いたものが多いのに改めて、彼の文学の根を見せられたと思った。「魚ー五歳」(昭和5年「早稲田文学」)をはじめて読み、私はその中に出て来る情景を、彼の口から、とぎれ、とぎれに、けれども残すくまなく、すでに聞かされていたことに気づかされるのだった。・・・極端なほど無口だと人にも思われ、私も危く思いこみかけていた彼から、私はずいぶん多くの話を聞いていたことに気づいた。/そのひとつひとつを取りだし並べてみる時、私が聞かされたのは、ほとんどというより、すべてが、彼の幼児の思い出話であったことに思い当るのであった。/中学時代、大学時代、そして社会に出てからの話は、めったに聞かされていなかった。》(瀬戸内晴美「小田仁二郎の世界(一)」『JIN 創刊号』昭55

 

「にせあぽりや」に描かれた宮内

《冬も、いよいよ、おわりちかくなります。いままで、きよらかな、もちのような雪のはだも、だんだん、あばたずらのように、きたなくなるのです。やねからおろした雪が、六七尺も、おかのようにたかく、かたくこおっているおもてどおりの道などには、ごごの日にとけて、馬ふんをうかべていた水たまりが、できるようになりました。いっこうへったと思えない、いわのような雪みちさえ、こどもたちの知らないまに、すこしずつ、うすくなっているのです。そして、ぽつぽつとあせがでるほど、あったかい日に、雪わりがはじまります。

 シャベルなんかの、ははたちません。けれど大人たちは、ツルハシ、オノ、マサカリなどをもちだし、みちの雪をたたきわります。わたいれのきものに、タツケをはいて、いっぱいにふくれたこどもたちは、雪べらをもって、大人たちのそばによっていくのです。いしきり山の、やわらかい石をわるときのような音をたて、雪が、ぎざぎざのかどをたててわれますと、そのしたから、いまうまれたばかりの、あざやかにぬれたいろで、土があらわれてくるのでした。あるところの土は、くろく、やわらかくぬれています。あるところの土は、こじゃりがまじり、さらさらとぬれています。ほうっとあまいにおいが、顔にかかるのですけれど、こどもたちは、めをぎらぎらかがやかせ、だまって、うまれたばかりの土をふんでみます。ふわりと、やわらかいかんじで、土が、あしのうらにさわるのです。わった雪は、そばのながれにながします。たかいほうのまちから、ながれていく、石のような雪は、だぶりだぶりと、ひくいほうのまちへ、くだっていきますけれど、そのうち、したのまちのかどでつかえ、つみかさなり、いま顔をだしたばかりの、あまい土のうえに、ながれが、もくもくあふれだすのです。こどもたちは、雪べらをもってはしっていき、つかえた雪を、おしながそうとするのですけれど、こどもたちが、なん人よってもできませんでした。

 二日も三日も、雪わりがつづきます。北のほうの、かげになっている、小さなみちには、まだ、おかのように、雪がつもっています。けれど、おもてどおりは、こどもたちのいうように、ぽんぽんかわきました。こどもたちは、はなおのところに、こぶのついているわらぞうりをはき、おもてどおりを、とびまわります。》(雪割りの想起)

《じんりきしゃは、ほろをはずしたまま、はしりだしました。・・・うちのよこをでると左にまがり、おくまんさまからの、だらだらのしき石みちをくだります。車のうえからみる、通りは、いつもとちがい、やねがひくく、おみせなどはずっとめのしたです。にかいの窓さえ、手をのばせば、すぐにもとどきそうであります。朝のしめりをおびたしき石みちが、ひろびろみおろされ、おみせのまえをはいているひとが、車のとおりすぎるのを、ながめあげます。とりいが、朝やけのそらをついて、たっています。おゆやのはとが、五つ六つ、とりいのてっぺんにならび、やわらかい毛を、日にきらきらさせ、のどをならしていました。ねむの木のはは、まだ、かげのなかでめをさましません。とりいのひろばをすぎると、しき石みちはおしまいになり、十文字の辻を、またまっすぐ南にくだります。大戸をおろしたままのごふくや、みせの戸を半ぶんあけてあるさかなや、ひくいやねを、おしつぶそうにしている工場のくらの白かべ、それもこれもみな、いきおいよくうしろにすぎ、もう町はずれの通りです。せまいみちには、すっぱだかのこどもが、はしりまわり、うすぎたないしらがのおじいさんが、うちのまえのほそいながれにしゃがみ、口をすすいでいます。しゃふが、かけごえかけ、はしります。うちとうちのあいだから、青々としたたんぼが、きらりとのぞきます。》(はじめての旅についての想起)

そのあさ、がっこうへいくとき、石だたみの大どおりにでると、まっすぐむこうの、おくまんさまの大いちょうのはが、すっかりちってしまったのが、みえるのであります。きのうまで、きいろい、いちょうのはが、まだだいぶあったのに、いまは、ごつごつしたふといみきと、ほそいえだが、あみのように、はれた青ぞらに、さむざむとひろがっているのです。えだのあみのてっぺんのほうが、あさ日をうけ、まだのこっているはが、きらりとうすきんいろにかがやくのです。私はいちょうのところに、いってみたくなるのでした。大いちょうを、あおぎながめながら、石だたみの、ゆるいさかをのぼります。やくばのまえあたりまでくると、もうくびがいたくなり、あおいでなどいられなく、いちょうのねもとに、きいろいはが、うずたかくつもっているのが、みえてきます。私はとうとうはしりだし、はあはあいきがきれるのもかまわず、かけのぼりました。私たちが、七八人も手をつながなければ、かかえられないほどふといみきを、ぐるりと、三四間ものはばでとりかこみ、いちょうのねかたには、まだしもでぬれている扇がたのはが、四五寸もつもり、まるで海のようなのです。そのきいろいはの、海のなかから、ところどころ、くろい波みたいに、まがりくねったねっこが、もりあがっています。どきどきするむねをおさえ、たっているうち、私は、きいろい海のなかへ、まっさかさまに、とびこみ、およぎたくなります。

 私は、となりのユキコたちと、このきいろい海で、まいにち、およぎまわったのでした。はらばいになると、いちょうのはの海は、ふとんのように、ふくふくあつぼったく、そのずっとしたのほうで、かたいつちのでこぼこや、石ころなどが、かんじられるのです。私たちは、はらばいのまま、およぐように手あしをうごかし、あたまをもぐらしたり、ごろごろころがったりするのです。うみのそこの、みえない土のでこぼこや、石ころが、かたくもりあがり、はらやせなかにあたり、はては、波のようにうねるねっこに、あたまをぶっつけます。きいろい波のしぶきが、顔いちめんにかかります。私は犬ころみたいに、わらのにおいのするユキコと、くみあい、もつれ、しぶきのなかで、こえもでないほどむせるのです。いつかユキコのすそがみだれ、すらりとしたほそいあしが、それだけが、べつのにひきの魚のように、波のあいだから、白くはねあがるのです。ちったばかりの、いちょうのはの、鮮明なうすきんいろの、こがたの扇、大いちょうのねかたには、いちょうのはのにおいが、たちこめられています。けれどそれも、いつかしら、しもにやぶれ、ほこりにまみれ、うすぐろく、においもなくなっていくのでありました。私にしても、きいろい海にとびこみたいといって、いまさら、いちょうのはに、もぐってはあそべないのです。私はもういちど、あきのすんだ青ぞらをつき、ぎぜん(巍然)とそびえたっている、大いちょうのこずえをあおぎ、がっこうへいきました。ことしのあきも、これでおしまい。あとはゆきにうずもれるのをまつだけです。

 いつか、びしょびしょと、つめたい雨が、ふりつづきます。たまに一日か半日、はれることがあっても、そらにはうすい青ぞらさえのぞかず、いんうつな、はいいろのおもいくもが、いくだんにもなってたれこめ、からだは、しんのほうまで、ひえびえしてくるのです。こんやあたり雪になるかもしれない、などとおじいさんが、はなしている夕ぐれ、みぞれがふりだし、くらくなるころは、もうぼたんゆきになるのでした。げんかんにでてのぞいてみると、そこしれないほどふかく、くらいそらの、どっかとちゅうから、ちらちら白いものが、うきだすようにあらわれ、いつまでもきりなくおちてきます。それは天のしろい虫のむれみたいです。じっとみつめているうちには、眼もあいていられなく、めまいがします。夕ごはんのあとは、こたつにもぐるのですけれど、せなかに、さむさがしみとおってくるのです。ぼたんゆきのまくで、ふりこめられるうちのなかは、耳のなかが、じんじん音たててなるほど、めいるような寂莫が、ふかくなり、あまどのかみに、雪のふれる、かるい音がします。

 つぎのあさは、しめったゆきが、二寸ばかりつもっています。にわの大きな松のえだには、かさをさしたように雪がたまり、そのさきのほうは、いまにもゆきがすべりおちそうに、たれているのです。いたべいぎわの、こうやまきなどは、おちのこった雪がまだらにつき、しらがまじりの、ざんばらがみです。にわの西がわの便所のやねも、もんのまえのうちの、わらやねも、まっしろにおちつき、わらやねのけむだしからは、うす青いけむりが、しずかにたちのぼります。やねのうえに、青ぞらが、すこしのぞきかけ、今日は、あたたかいてんきになるのがわかります。一時間めが、まだおわらないうち、もう日がさし、まどからみえる、はたけの雪に、きらきらてりかえし、めがいたくなるほどでありました。こんなあたたかい、よいてんきが、しばらくのあいだ、つづくのであります。

 そのまに、やりのこしているにわの松や、もみじに、ゆきがこいがかけられ、うちのまわりも、いたでかこい、たかいまどは、よしずだれでふさぎます。うちのなかは、てんきのよい日でもうすぐらく、さむざむとしてきます。そのうち、よいてんきもおしまいになり、そらが、はいいろにひくくくもると、ほほにつきささる風がふき、じめんが、でこぼこのままこおってくるのです。・・・》(初雪の想起)

 

終章(クライマックス)

《ふたたび、私は、トビをよび、その背にのり、ひとつの小さい町へ、北の山にかこまれた盆地の、片すみに蟠踞する町へ、旅だった。トビの背に、いくたびか、日がくれ、夜があけたけれど、月のかげはささず、雲霧は、しだいに、濃く寒冷となり、やがて、トビの羽毛が凍結し、ぞくりと束になってぬけはじめた。トビは、ひと声もなかず、すでに赤裸となり、飛翔する力さえ失った。高度は下り、羽ばたきもしなくなったが、どこにも、求める町のかげはなく、灰黒色の寒雲が、とびすぎるだけである。ついに、トビは、力つき、廃墟の如く静まりかえる町の、四つ辻におりるとともに、息たえてしまった。私は、茫然と四つ辻にたち、身にせまりくる寂滅にふるえおののき、眼のすみで、あたりをみまわした。四つ辻の、家という家は、屋根がおち、柱はおれ、くもり空に、その骨をさらしているのだ。くずれのこる倉の白壁は、風雨にくろずみ、四つ辻におこる、ひそかな竜巻にも、もうもうたる煙りをまきあげた。けれど、その砂塵をとおし、くずれおちる白壁にも、おちかたむく屋根にも、瀕死の人の手のような家の骨にも、私の記憶は、戦慄をおぼえてくるのである。戦慄は、私のうちからそとへ、四つ辻いっぱいにひろがり、煙りをまく白壁に、灰黒色のそらにつきだす家の骨に、つきささっていった。これこそ、私がめざし、飛翔してきた町の、廃墟であった。私は、四つ辻にたち、北をむいた。四つ辻の、ひそかな竜巻もおち、あたりの静寂が、死の重さで、私を圧しつぶす。ただ私の眼のそこには、つまさきあがりの通りのはて、その梢に寒雲をつき、葉のおちつくした銀杏の大樹が、凝然とそびえたっているのである。町は廃墟となり銀杏の大樹に変じた。私の町は一樹の銀杏と化したのである。猛然と竜巻が砂塵をまきおこし、銀杏も廃墟も一瞬にしてその底に壊滅した。

《それから私は、北むきの暗いまどの部屋にたちもどり、闇のなかに坐りつづけた。・・・その夜ふけ、私は北むきの部屋を闇にのこし、網の目のように都会にはりめぐらされる線路のうえに、自分の胸をおいた。重さもなく、軽さもない巨大な機関車が、私の胸のうえをよぎったせつな、鮮やかな紅の血潮がほとばしり、その血は、暗黒のなかにひかりかがやくばかり、そこに、私の姿をえがきだした。私の血潮でえがかれた私が、指のさきから、きらめく血をしたたらせながら、私の屍には一瞥もくれず、茫々たる闇のなかに、すたすた歩みさるのである。屍は水となって線路のうえに溶けた。

 にせあぽりや――。》


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