『源氏物語』解明(副島隆彦) [源氏物語]
副島隆彦「今日のぼやき」会員版 源氏物語は藤原道長の人生そのものだ・続(第1回・全2回)。
《当時の天皇たちのスキャンダルの真実の話を冊子に書かれて、貴族たち恐らく2000人ぐらいの一番上の連中たちの中で女御、女たちが回し読みして死ぬほど楽しんだんですね。男たちもどれどれと言ってそれを読んだんですね。そのことを道長が嫌がらなかったというところが、異常なまでに道長が大物なんです。》「死ぬほど楽しんだ」がわかるように思いました。現実が『源氏物語』として対象化されたことで、現実がドラマティックになる。そのことでみんな興奮(ワクワクドキドキ)しながら現実を生きる。「文化的豊かさ」とはこういうことなのかもしれないとふと思い、思いがけないことに、「新しい公民館ができたら宮内がどう変わるか」の問題にリンクしました。
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藤壺宮と冷泉帝は誰か?:《光源氏、すなわち光の君(ひかるのきみ)である藤原道長(ふじわらのみちなが、966-1028年、62歳で死)が14歳、満なら13歳で、姉である藤原詮子(ふじわらのせんし、962-1002年、40歳で死)とセックスをして、一条天皇(980-1011年、31歳で死)が生まれたということです。》《藤原道長が14歳のときに、自分の実のお姉さんの藤原詮子(ふじわらのせんし、961-1002年、41歳で死)と交わってつくった子供が⑤一条天皇である。一条天皇は西暦で980年に生まれています。このとき道長が14歳で、お姉さんは19歳です。お姉さんの藤原詮子が円融天皇の奥様、すなわち女御(にょうご)、中宮(ちゅうぐう)、そして皇后になるんですが、中宮なんですね。だから天皇の奥様と交わって不義密通で産んだ子供が一条天皇ということになります。この巨大な真実は破壊的衝撃力を持っている訳で、日本の国文学の大学教授たち以外は知りません、今も知りません。絶対表に出しません。/このことを中心に全てを語っていきます。これが源氏物語の中の光の君とその藤原詮子は東三条(ひがしさんじょう)の院といわれて、梅壺更衣(うめつぼこうい)と当時の人たちから呼ばれていた。ところがこれが源氏物語の中では藤壺更衣(ふじつぼこうい)と出てきます。あるいは藤壺の宮とも言います。》《一条は生まれて6年、7歳のとき皇位に就くんです。そして1011年まで21年間天皇です。一条天皇は自分が実の父親が道長であるということを知っていたはずなんです。気づいていたけども周りが教えないんです。そして一条天皇が怒り狂って宸筆といいますが、天皇自らが汚い字で「偽臣乱国(ぎしんらんこく)」と書いた。藤原の一族が天皇をないがしろにして国を乱していると、怒り狂った宸筆が残っているんです。これを嘘だと言う人たちがいるけどそんなことはないんです。》《このことを谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう、1886-1965年、79歳で死)は書くなと言われた。言ったのは、山田孝雄(やまだよしお、1875-1958年、83歳で死)という東北帝国大学の国文学の教授、これは悪いやつで、皇国史観で八紘一宇の戦争勢力、右翼の大学教授で翼賛体制に入ったから戦後になって名前を落としました。谷崎は人と喧嘩しない人でしたから、分かりましたと言って体制に従ったんです。だけど新々訳の谷崎の本を読んでいると、匂いのところで私はいろんなことを感じるんです。》
桐壺更衣と桐壺帝は誰か?:《源氏という言葉は天皇の子供に与えられた名字です。ということは、光源氏はどうしても天皇の子じゃなければおかしいと、30年間、私はずっと疑い続けていたんです。ついに発見しました。真実の藤原道長の母親は藤原芳子(ふじわらのほうし、?-967年)といいます。ヨシコとも読めますが草かんむりに芳香の芳です。この藤原芳子が藤原は当たり前だからみんな藤原氏ですから、高級貴族たちはべたべた全部くっついている。/芳子が女御、つまり愛人の形で宮廷に入った。その相手が①の村上天皇(926-967年、42歳で死 在位:946-967年)なんです。この人が深く芳子を愛したんです。そしてこの村上天皇がこの芳子には特別に宣耀殿(せんようでん)という建物を建ててあげるんです。だから宣耀殿女御(せんようでんにょうご)と言われます。これを探し当てるのにどれぐらい大変な苦労を私がしたか。》《実はこの宣耀殿女御芳子(せんようでんにょうごほうし)が、源氏物語第1巻目の最大のテーマである桐壺の更衣なんです。これは中学校高校でも習うんです。誰ひとり理解しないんです。理解しないままほったらかす。桐壺帝がみんな名前は知っている。村上天皇です。そしてこの2人が同じ年に死にます。967年です。その前の年に道長が生まれているんです。そしてもっとはっきりした事実は、村上天皇の正妻、奥様の中宮は安子(あんし)といいまして、中宮というのは皇后と一緒です。安子(あんし)と書くんだけど、この人が宣耀殿女御芳子に激しく嫉妬して、かわらけの土器を投げつけたという記録が『大鏡』という歴史書の中に残っているんです。真実だと思う。》
光源氏は誰か?:《この芳子は長男坊を産んでいます。長男坊を産んで10年後に次男坊を産んでいます。それが965年なんです。そして966年、そのときの三男坊であるところの道長が生まれているんです。そしてその次の年にはもう死んでいるんです、天皇と芳子は、両方ともに。それが村上天皇も40ちょっとで死んでいるから別に異常な死に方じゃありません。芳子も35歳ぐらいで死んだでしょう。》《道長は、その自分の出生の秘密を今から話しますが、それから自分のお姉さんである藤原詮子とセックスをして、生まれたのが、ちょうど1000年ぐらいのときの886年からの天皇であった一条天皇です。まさしく当時の天皇たちのスキャンダルの真実の話を冊子に書かれて、貴族たち恐らく2000人ぐらいの一番上の連中たちの中で女御、女たちが回し読みして死ぬほど楽しんだんですね。男たちもどれどれと言ってそれを読んだんですね。そのことを道長が嫌がらなかったというところが、異常なまでに道長が大物なんです。》
ほんとうの作者:《本当に源氏物語という冊子を順番に書いていったのは、この紫式部のかつ清少納言の実のお父さんである藤原為時(ふじわらのためとき、949-1029年頃、80歳で死)です。/この為時が大変な才能のある、しかし絶対表に出てこようとしなかった文学者なんです。この為時が全部書いたんです。じゃないと中国古典の教養とか漢文が読めてさらさらときれいな文が書けるというのは男でしかできません。女はばかだからできません、そういうのは書けといったって。それが歴史の真実です。》
◎道長系図
◎芳子系図
◎藤原為時(紫式部の父)系図
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