病院で見た満月(フラワームーン) [日記、雑感]
公立置賜総合病院から三友堂病院のリハビリ科に転院したのが4月4日だったから、ここに来てもう50日が過ぎた。7月下旬が退院目安ということで、あと2カ月。先は長いようだが、毎日毎日淡々と過ぎてゆく。朝飯を食べたと思ったらもう晩飯になっている。間にリハビリの時間が入るので退屈する時間はない。置賜総合病院のWiFiは朝8時から夜9時までだったがここは24時間OKなので快適だ。松川(最上川上流)から吾妻連峰、兜山、斜平山(なでらやま)を一望できる一面ガラス張りの場所があり、朝飯後そこでひとときを過ごすのが日課だ。昨日(23日)は満月だったので夕刻から5、6人集ってにぎやかだった。5月の満月はフラワームーンというそうだ。雲間に見え隠れするお月さまにそれぞれカメラを向けつつ、そこで起きた笑い声をききながら、「いい時間をすごしている」と心底思った。童心を思い起こしていた。In Deepの最新記事を読みながらなぜか昨晩のことを書き留めておきたくなった。
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秋葉山が燃えた [日記、雑感]
東北バビロンという人が秋葉山の火事を発生間もなくから記録してくれているのを今朝見つけた。貴重な記録でありがたい。
18.山形県南陽市宮内の山火事 2024年5月4日 15:48~17:46 の状況経過
19.山形県南陽市宮内の山火事 追報 2024年5月5日 15:41~16:14の状況。
20.山形県南陽市宮内の山火事 追々報 2024年5月6日 13:11~18:53の状況
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5月4日の午後3時ごろたまたま宮内に電話した先が「秋葉山から煙が上がっているでお父さん外に出ている」というので火事の発生を知った。午後4時ごろ家内から山の中腹から煙もうもうの写真、LINEで。「山火事、風があるので心配。」の第一報。仙台に出かけていた消防団の息子にも連絡が行って急きょ戻ったようだった。午後7時ごろ「いま、赤く見える。風強い」の報と写真。さらに「なんか、こわいです」。赤い炎が大きく上がった写真。消火活動は明日の朝まで休止の状態。雨をよぶという雲竜の掛け図を床の間にかけて拝むように伝える。現場から戻った息子によると、チェンソーでパイプを切っていたらその火の粉が飛んで燃え広がったらしい。
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5日、早朝より消火活動。息子も6時前に出て行ったらしい。自衛隊にも要請してヘリ5機で消火に当たったということなのでもう大丈夫と思った。この日は双松公園琴平神社の祭典日。 宮内の東部地区に相次ぐ火災を断ち切るために明治30年四国讃岐の金毘羅様から御分霊をいただいておまつりしたものだ。https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-05-24 さらに秋葉山の由来は山頂に火伏せの神さま秋葉神社が祀られていることによる。(尾崎重誉の臣板垣作右衛門による勧請)夕刻には鎮火したに違いないと思いこんで遠方からの心配メールにもそう返信した。念のためと思って家に連絡したらまだ火の手が見えるとのこと。写真を送ってもらって驚いた。北の方に火の手は伸びていた。息子もまだ戻っていない。
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ごぶさたしました [日記、雑感]
3月1日、頭取を無事送り出すことができた日、10時過ぎ就寝。しばらく寝入って午前1時頃めざめると、身体がいつもと違う。あれこれ動かしてみるが軟体動物になったようで、こんがらかってコントロールがまるで効かない。どうなってるのかわからないまま、30分近く布団の中でもがいた末、家内に声をかけた。息子も起こして救急車の手配、公立置賜総合病院へ。脳梗塞で右下肢の麻痺だった。右手にも若干影響があるが、さいわい意識は明瞭だった。
「選挙はムリ」の判断は早かったと思う。その時点で「定員2名オーバー」の情報があり、「私が抜けても選挙になる」との判断もあった。しかしその後、情報にあったK君の出馬は無いことが判明、無投票が大勢となる中、何とか擁立をさぐる動きがあった。私も秘蔵のふたりに声をかけた。いずれも叶わなかった。
首都圏在住の長女夫婦が見舞いに来たのが1週間経った3月9日の土曜日だった。私は全く考えていなかった、長男説得を言い出した。「代わりに息子を」とは何人かに言われたが、本人ははなから拒否しており、私も議員世襲をこのましくは思っていなかった。そんなわけで、これからは本業の染物での可能性をさぐるべくはらを決めていた。しかし、長女夫婦のことばを聞いて、成行きに任せてみることにした。息子がチラシ、選挙公報に書いた文章を転載しておきます。
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倍賞千恵子と小六さん [日記、雑感]
昨日の秋まつり、今朝の梨郷朝市 [日記、雑感]
11月25日、熊野大社秋まつり。新嘗祭にあたります。北野猛先先代宮司の『熊野大社年中行事』に《十一月二十三日に国祭日として全国一斉に行なわれた。春の祈年祭に対し神恩感謝の心をささげる報賽のための祭りである。・・・この案内状には、あらかじめ氏子会長から神酒や神饌品や直会用の煮染やモチ米を寄進するように書き添えてある。特に神社のお祭りには従来男子のみが参列し、お祭りは男子のみの祭りの感のあったことを遺憾として、女子の参加を呼びかけているので、今日では相当数の御婦人が参加されるようになった。》とあります。昭和38年の著です。(https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-12-21-3)
斎主祝詞。斎主は北野淑人禰宜が務めました。
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昨日の大銀杏。雪を待つばかりです。
【追記 12.2】12.1朝の大銀杏と神社。11.30初雪でした。
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”ふるさと南陽のつどい”に行ってきました [日記、雑感]
4年ぶり本格開催の”ふるさと南陽のつどい”に行ってきました。ホテルニューオータニ鶴の間が会場で、今回が第35回ということです。出席者約250名。地区長連協会長として参加した6年前2017年以来の参加です。その時は約320名でした。→「ふるさと南陽のつどい」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-09-20 こう書いていました。《この集いも今年で31回目、20年ぐらい前にも何回か参加したが、どうもあの頃の熱気が薄れてしまって感じるのはどうしてだろう。セレモニーの挨拶も通りいっぺんになっている。宮内、赤湯出身の参加者が少ないのもその反映か。何かエネルギーを呼び込まないと、単なる消化事業になってしまう。県内各地の集いの中で南陽の集いはいちばん盛大ということなので、このままではもったいないと思ったことでした。》
今回いろんな方と話したけれどもみんな70歳以上、若い人の参加が少ない分、こういう催しもだんだん小さくなっていくのでしょうか。参加している人はみんな楽しそうなのに、その楽しさが若い世代につながってゆかない。高校の同窓会宮内支部のこともいま頭にあり、いろいろ考えさせられています。そういえば今回の集い、会長、実行委員長、司会・・・女性のパワーが際立っていました。
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米沢興譲館高校同窓会 [日記、雑感]
令和5年米沢興譲館同窓会に宮内支部長の立場で出席してきました。左の写真同じテーブル、左から斎藤榮助米沢支部長、横山彰人東京支部長、中川勉関西支部長、田林皓一宮城支部長。中川、田林君は同級生です。中川君とは卒業以来はじめて。同じクラスになったこともなかったけれども、支部長会議の時から2次会まで、共通の話題も多く親しくいろいろ話したのに、高校時代の顔がどうしても浮かばない。むこうはこっちを思い出してくれたようだが、こっちは悶々としたまま別れた。実は、昨日の記事(https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2023-09-16-2)と坪内氏の文章、同じ同級生の木村武雄の息子政信君にもし会えればとコピーして持って行っていたのだが、なんと中川君の実家が木村武雄宅の真向かい(免許町)で政信君とは兄弟のようにして育ったとのこと。今日(17日)政信君と会うことになっているとのことで、そのコピーを託したのだが、それでも昔の顔が出てこない。それが米沢から宮内に向かう帰りの車の中で忽然とその顔が浮かんできた! 中川君、これを読んでたらごめん、高校時代のプクッとしたかわいらしい童顔を思い浮かべながら書いてます。
「70代でも妊娠します」→水のせいだった! [日記、雑感]
中村篤史クリニックNOTE「70代でも妊娠します」の記事に驚いた。厚生労働省の人口動態統計資料の中の、明治32年から最新の2012年までの「月別にみた出生率(人口千対)」のグラフが出ている。厚労省の説明に《平成元年以前の月別出生率の動向をみると、第2次世界大戦前は、出生月による差が大きく、平成元年以降の傾向とは異なり、1~3月に高く6月に低い傾向のまま推移していた。戦後から昭和39年までは、戦前と同様に1~3月が高く6月が低かったが、出生月による差は少なくなってきた。昭和45年以降では、出生月による出生率の差は、ほとんどない状態である。(図3)》とある。https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/syussyo-4 /syussyo1-2.html
私は昭和22年生まれだが、同級生に早生まれが多いのはなぜだろうと思っていた。水のせいであったことを中村先生の記事で納得した。昔はみんな井戸水を使っていた、ということだ。あらためて「自然が大事」。
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「先義後利」 [日記、雑感]
コロナのためなんの活動もしていなかった双松まちづくり推進協議会の久方ぶりの事業、山形銀行南陽市店三坂英彦支店長の講演会に行ってきました。三坂氏とは先日南陽市振興審議会で同席しています。「はじめて置賜に赴任しました。南陽市の印象は龍上海のラーメンと熊野神社ぐらい」との率直な物言いが印象的で、期待していた講演会でした。テーマは「南陽市の地方再生について考える」。30分ぐらいの話で、そのあとの懇親会も盛り上がり、期待通りの講演会でした。
昭和50年生まれの48歳、寒河江支店に始まり、仙台南光台支店、そのあと(財)山形県産業技術振興機構等に4年間出向後、酒田、新庄、鶴岡支店、融資部副部長を経て今年南陽市店長にという経歴。山形銀行女子バスケチームの部長さんでもあるようです。
実際に南陽に来ての印象について、《熊野神社だけでなく、赤湯温泉、果樹園、県内有数のワイナリー、烏帽子山の千本桜、歴史を物語る宮内地区の古民家、稲荷森古墳、南陽スカイパーク(十分一山)からのパラグライダー、そこから見える白竜湖や置賜地域一望など観光資源が豊富な街。/ぶどうを筆頭とする果樹やお米などの農産物、畜産業や酪農業、龍上海を代表したラーメン店など、食の豊かさ》。そして、《いい街なのに、県内の人はあまりよく分かっていないのでは?[→]?PR、情報発信をもっと必要なのでは・・・》 おもしろかったのが、新庄はモツラーメンと雪ぐらいで何もない、酒田は自分の商売をどうするかで頭がいっぱい、鶴岡と南陽は、海があるかないかの違いだけで、ともにまちづくりに関心があるということで似ている、という指摘。そんなこんなで酒飲みの席も盛り上がったのでした。