故 青木精志君へ [弔辞]

私の前に、エヌデーソフトの相棒佐藤廣志くんの弔辞だった。日東電子時代の苦労と東証2部上場の時の喜びを語った。遺影は上場の時の記念写真ということだった。いい顔だ。青木くんが廣志くんに「二人は全く性格がちがうからかえっていい」と語ったそうだ。その言葉が力になったと語ったのが心に残った。外目にも役割分担が明確だった。喪主挨拶は長女志麻ちゃんだった。娘としての思いの丈を語り尽くしたいい挨拶だった。家庭的にも幸せだったと思う。青木くん結婚当時については私はまだ帰っていないので全く知らないが、弔詞で「奥さんを射止めた」と言った。きっとそうだったのだと思う。
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牧野房先生 [弔辞]
まだまだ元気でおられるとばかり思っていたのに、おとといの新聞での訃報はショックだった。「宮内人 小田仁二郎」をいちばん読んでほしい先生だった。宮内小の150周年記念誌が落ち着いたらうかがおうと、ずっと思っていた。記念誌の方では、先生が編集された『南陽市のうた』にひとかたならずお世話になっている。そのことの報告もしなければならなかった。先生とは同級の八戸にいる叔母の「毎日ラジオ体操やってるよ」という元気な声を最近電話で聞いたばかりだったので、牧野先生もてっきりそのつもりだった。昭和3年のお生まれだから94歳、脳梗塞とのことだが、大往生と言っていい。しかし私の中では、妹の担任としてはじめて知った60数年前からずっと変わらない、いつもお若い姿形だった。私の市民大学講座にはしばしばおいでいただいたのもうれしかったし、励みになった。最後にお会いしたのも2年ぐらい前、何か書いたものをお持ちしたように思えるが、それがなんだったか今思い出せない。150周年記念誌の牧野先生の項を没年を書き加えて転載しておきます。多くのご著書が手元にあるので、亡くなられてかえって身近かになったような気もする。
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鈴木岳啾さん(宮内岳鷹会) [弔辞]

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北垣俊一先生にお別れする会 [弔辞]

宮内幼稚園時代から十数年にわたって、南陽学園の理事を務めていただいた。山形からつい最近まで車でおいでいただいた。「もう私も年だから」と言われるのを引き止めて、結局亡くなられるまで務めていただいた。北垣先生が出席されるのと出席されないのとでは、気持ちがまるでちがった。緊張感とともに安心感があった。最後は北垣先生の判断を仰ぐこともしばしばだった。どんなに助けられたかしれない。
明らかにサヨク感覚のお考えをお持ちだった。先生は先生で、私のウヨク感覚をよく理解しておられたと思う。それでもそのことで事荒立つことはなかった。私の書いたものをよく読んでいただいた。それが私には大きな励みになっていた。
いろんな方の訃報に接するが、北垣先生の突然の訃報は最近にないショックだった。86歳なのだから、大往生と言っていいのに、癌を患っておられるともお聞きしていたのに、まだまだお元気でおられるような気がしていたのだった。これからは、私の心の中に生きていただくことになる。
よく聞き取れないところも多いが、奥様のご挨拶をかみしめてみたい。
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梅津伊兵衛さんのこと [弔辞]



叔母の死 [弔辞]


コロナ危機後の新しい時代、不要なものがどんどん切り捨てられるにちがいない。葬儀のあり方もまったく変わる。そう思いつつ19日、毎月この日の月例祭延期を竹さんに伝えて、叔母への思いを書きつづり送った。
そしたら昨日(20日)、「コロナの影響で「葬儀」はどのように変わるのか」の記事に出会った。https://toyokeizai.net/articles/-/344663
《新型コロナウイルスの影響で、それ以前から縮小化・簡素化が進んでいた葬儀が、ますます小さく簡易なものになろうとしている。》《2000年頃から都市部を中心に、限られた近親者だけで行う家族葬や、火葬場で簡単な読経を行うだけの直葬(火葬式)が急増。その背景には、核家族化や少子高齢化、地縁の崩壊など、さまざまな社会的変化や要因が絡み合っている。しかし、実はそのどれよりも「伝統的な葬儀に、現代人が価値を見いだせなくなった」ということが大きいかもしれない。》で始まるこの記事、「お別れ会」についての言及の後、《このコロナ禍で、働き方や価値観など、さまざまなものが大きく変化するだろう。しかしグリーフ(悲しみ)は、変わらず存在し続ける。これまで当たり前だったことが当たり前ではなくなっても、「自分にとって本当に必要なものは何か」という基準で物事を判断し、自分らしく儀式を執り行うことで、悲しみと折り合いをつける工夫をしてほしい。》で締めくくられていた。
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