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故斉藤喜一頭取神葬祭 [弔辞]

遺影.jpg頭取の神葬祭、無事、立派に斎行できました。左は遺影の元画像です。この杖を持ったこの装束での旅立ちです。2017県写真展で県知事賞受賞のカメラマン須藤佐重さん(山形市)が2018年に撮ってくれていました。(県知事賞の写真のモデルは獅子冠事務所の川合嘉雄さんでした。→「祝!県知事賞「出番前」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-03-03

以下、弔辞です。

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  「とにかく生ぎででだげけろな」と言っていたのも、いつかこの時が来ることの覚悟はあってのことでした。享年89歳、いつの間にかすーっといなくなる、「フェードアウト」という言葉が似合う大往生でした。
 最初の大動脈解離は9年前、平成27年でした。2回目は3年前、令和3年でした。1回目は8・2、2回目は9・1で、ともに助かる可能性はわずかでした。間には鼠蹊ヘルニアで救急車で運ばれることもありました。しかしそのたびに病を乗り越え、車を止められてからは、電動自転車でどこまでも行っていました。周りはハラハラさせられていましたが、無事で通しきりました。身体を動かすことで病気前より丈夫になったようでした。最近は自力で神社の石段を昇り降りできるようにもなっていました。神さま、お獅子さまのご加護を思わずにはおれませんでした。逝くべき時まで自力で生き切りました。
 最近は髭も伸び放題でした。しかし、棺(ひつぎ)に納められて戻った姿は見違えるようでした。その翌日、火葬の前はさらに男前に磨きがかかり、神々しくさえ見えました。肉体のくびきから放たれて、頭取本来の精神の自由を思う存分満喫しているかのようでした。
 頭取の自由奔放な思考につきあうのは大変でした。ただフーフー言いながらのなんとかついていって実を結んだのが「白鷹山に『伝国の辞』碑をつくる会」でした。長くなりますがあらためてふりかえってみます。
 「『伝国の辞』の碑を白鷹山にぜひ」という頭取の投書が山形新聞に載ったのは平成20年、16年前のことでした。だいたいそれっきりになるのが普通なのに、思いがけなくこの投書に作谷沢の樋口和男山辺町議が共鳴、頭取との交流が始まり輪が広がりだしました。小滝地区をはじめとする白鷹山山麓の方々も巻き込み、平成24年に「白鷹山に「伝国の辞」碑をつくる会」が結成されました。米沢上杉神社大乗寺健宮司のお声がけもあって米沢も動き出し、予定を超える金額が集まり、平成26年の「高い山」の日を期して、「伝国の辞」碑とともに、碑建立の趣旨を伝える副碑もできることになりました。
 さらにそれからが頭取の真骨頂でした。ちょうどケネディ大統領が凶弾に斃れて50周年の日、除幕式にキャロライン・ケネディ駐日大使に参列してもらおうという手紙を出したのです。するとその直後、キャロライン大使就任後最初のスピーチで、父ケネディ大統領が鷹山公を尊敬していたことを語られ、大きく報道されたのです。真偽が定かでなかった話にお墨付きをもらったということで、山形県中沸き立ちました。それから大使館との交流が始まり、副碑にはケネディ大統領の言葉とキャロラインさんからのメッセージが刻まれて碑は完成、平成26年5月13日除幕の日を迎えました。キャロライン さんのご列席は叶いませんでしたが、心のこもったお祝いの言葉が届きました。
 さらにそれで終わりではありませんでした。その年の9月、米沢の鷹山公のおまつりにキャロラインさんが家族で来てくれたのです。その時なんと、除幕式の記念として送った手拭いが家族みんなの首にかけられていました。キャロラインさんと頭取が直接会うことはありませんでしたが、キャロラインさんからの何よりのメッセージでした。
 頭取の思いはどこまでもつづきます。なんとかキャロラインさんに白鷹山の碑を見ていただきたい。その願いを最後まで捨てることはありませんでした。その思いから村山市出身のアメリカ大使館女性職員と知り合い、そこから南陽市とカリブ海の島国バルバドスとの交流が生まれました。(「バルバドスからの手紙」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-05-17/「バルバドスとの交流へ向けての第一歩https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-07-18
 さらに一昨年の9月には、かねて念願の花見弘平とジョン・F・ケネディの友情秘話を紹介する「”昨日の敵は今日の友”」と題するパネルを白鷹山虚空蔵尊に据え付けました。頭取は自力で山頂まで登り切り、山形新聞に大きく紹介されました。(「”昨日の敵は今日の友”(花見弘平とケネディ)」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-09-15
 「伝国の辞」碑建立の余韻はこれからもまだまだつづきそうです。頭取にとってはおそらく、こっちの世界もあっちの世界も地続きです。あっちの世界からどんな思いを伝えてくるか、耳を澄ましておきたいと思います。
 それにつけてもいちばんは獅子冠事務所のことです。みんな「これからどうする」と心配してくれます。「とにかく今は無事頭取を送り出すこと。あとはそれから」と言い続けてきました。事は見事に運んで今に至っています。頭取のおはたらきを感じます。これまでも「おまつりは神さまの段取りについてゆくだけ」と思って務めてきました。頭取もこれからは神さまのひとりになりました。どうか獅子冠事務所を、そしておくまんさまのお祭りをお導きお守りください。こっちの世界でやらねばならないことをみんなでがんばってやってゆきます。その思いをお伝えして、弔詞とさせていただきます。
 ほんとうにありがとうございました。

  

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故鈴木信一さんへ(元獅子冠事務所総取締役) [弔辞]

鈴木信一さん葬儀.jpgまさに”好漢”でした。

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      弔  辞 

 故鈴木信一さんの御霊前に謹んで弔意を捧げます。
 公立置賜総合病院の外科の待合室で会ったのが十月三十一日でした。二年ぶりでした。奥さんの引く車椅子で、だいぶ痩せてはいましたが、満面の笑顔とはずんだ声は、重い病いを感じさせない、元気な頃そのままでした。私も手術の日ダチが悪く家内に連れられての診察で、「お互い元気でな」と手を握り合って別れました。それから二ヶ月足らず、そのうち顔見にと思っているうちの訃報でした。
 昭和五十九年に亡くなった親父さんに代わって獅子冠事務所に入ったということで、代々の通称「あひるや」のまま、三十代半ばから七十まで三十五年に及ぶ獅子冠事務所歴でした。十年近く遅れて私が入った頃は、貫禄からして押しも押されぬ中堅的存在でした。
 獅子冠事務所にとって、おくまんさまのお祭りはかなり激しいお祭りです。しっかりお精進をして神様の力をお借りしなければなりません。箱バヨイでも御神輿でも、獅子冠事務所と若い衆の間で激しいせめぎ合いが繰り広げられます。そうしたせめぎ合いをのり越えて納まるべきところに納まるのです。宮内熊野に探る「祭り」の意味 (8)https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-12-21-4
 獅子冠事務所の中にあって、口数は少なくても、見るべきところをしっかり見、押さえるべきところをしっかり押さえる揺るがぬ存在として、存在感を示してこられました。
 十年前須貝さんに代わって総取締役を引き継ぎ船山さんに引き継ぐまで、頭取とともに獅子冠事務所を率いられました。若い頃からその風貌はまさに絵になる姿で、獅子冠事務所の看板的存在でした。総取締役として一層その風格に磨きがかかっており、退任が惜しまれたものでした。
 獅子冠事務所も高齢化が進み、新たに入ってくれる人もなく、これからどうなるか心配な状態ですが、八十七歳の頭取を先頭に、われわれ残った者、これまで通りのお祭りをつづけてゆくためにがんばるつもりでおります。
 これまでの獅子冠事務所へのご功績に感謝を捧げつつ、獅子冠事務所がこれからも存分にその役割を果たし、お祭りが無事斎行されてゆくことを、しっかり見守っていただきたく、獅子冠事務所一同心よりお願い申し上げ弔詞とさせていただきます。
 衷心より御冥福をお祈り申し上げます。

   令和五年十二月三十日           
           

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故 青木精志君へ [弔辞]

青木精志君遺影.jpg昨日(6日)の午後、「5日に亡くなった」との報が入り、宇津木理事長と弔問した。葬儀に参列することにして、弔辞を読むことになった。コロナ以来弔辞を読むこともなくなっていて久しぶりだった。朝書くことにして9時過ぎに床に入ったら、1時ちょっと前に目覚めてあれこれ考え出し、あと結局眠れなかった。訃報が本当にショックだった理由も含め、心のままに書くことにした。

私の前に、エヌデーソフトの相棒佐藤廣志くんの弔辞だった。日東電子時代の苦労と東証2部上場の時の喜びを語った。遺影は上場の時の記念写真ということだった。いい顔だ。青木くんが廣志くんに「二人は全く性格がちがうからかえっていい」と語ったそうだ。その言葉が力になったと語ったのが心に残った。外目にも役割分担が明確だった。喪主挨拶は長女志麻ちゃんだった。娘としての思いの丈を語り尽くしたいい挨拶だった。家庭的にも幸せだったと思う。青木くん結婚当時については私はまだ帰っていないので全く知らないが、弔詞で「奥さんを射止めた」と言った。きっとそうだったのだと思う。

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牧野房先生 [弔辞]

牧野房先生を偲ぶ 1.jpeg牧野房先生を偲ぶ 2 1.jpg
牧野房先生葬儀1.jpg牧野先生3.jpg
まだまだ元気でおられるとばかり思っていたのに、おとといの新聞での訃報はショックだった。「宮内人 小田仁二郎」をいちばん読んでほしい先生だった。宮内小の150周年記念誌が落ち着いたらうかがおうと、ずっと思っていた。記念誌の方では、先生が編集された『南陽市のうた』にひとかたならずお世話になっている。そのことの報告もしなければならなかった。先生とは同級の八戸にいる叔母の「毎日ラジオ体操やってるよ」という元気な声を最近電話で聞いたばかりだったので、牧野先生もてっきりそのつもりだった。昭和3年のお生まれだから94歳、脳梗塞とのことだが、大往生と言っていい。しかし私の中では、妹の担任としてはじめて知った60数年前からずっと変わらない、いつもお若い姿形だった。私の市民大学講座にはしばしばおいでいただいたのもうれしかったし、励みになった。最後にお会いしたのも2年ぐらい前、何か書いたものをお持ちしたように思えるが、それがなんだったか今思い出せない。150周年記念誌の牧野先生の項を没年を書き加えて転載しておきます。多くのご著書が手元にあるので、亡くなられてかえって身近かになったような気もする。
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鈴木岳啾さん(宮内岳鷹会) [弔辞]

故鈴木利秋さん.jpg平岳謙先生が90歳でちょっと体調を崩されてから、会員の鈴木岳啾さんと橋本櫻岳さんが1ヶ月交代で先生を務めてこられた。岳啾さんは南陽宮内岳鷹会発足当時からのオリジナルメンバーで、詩吟に取り組む本気度は並でなかった。先日の吟行で吟ずる歌のいくつかは岳啾さんが節付けした。私が吟ずる斎藤茂吉の「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ・・・」もそのひとつで、微妙な節回しが難しい。しかしそれには岳啾さんなりのこだわりがあったようで、なんとかこなす中でその思いが伝わってきたようにも思えた。体調の悪化で岳啾さんの吟行参加は叶わなかった。そうこうしているうちの訃報だった。定番の「亡き人を(内柴御風)」のほかに、岳啾さん節調の「陸奥を・・・」を全員で吟じた。遺影を見つめて吟じていると、ついこの前までの岳啾さんがその声とともに眼前してこみあげるものがあった。いい送りをすることができた気がする。

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北垣俊一先生にお別れする会 [弔辞]

北垣先生葬儀の肖像.jpg昨日、山形学院高校での「北垣俊一先生とお別れする会」に参列してきた。暖かいものがジーンとにじんでくるような、なんともいえない、いい会だった。1時間半ぐらい、学院生のハンドベル演奏とともにあった礼拝の後の4人の挨拶、次第に北垣先生の生前の姿がほうふつとしてきたところで、最後は、いいご夫婦であったことがよくわかる、心に響く奥様の挨拶で締められた。

北垣先生葬儀看板.jpg北垣先生葬儀会場.jpg北垣先生葬儀 式次第.jpg北垣先生葬儀 履歴のコピー.jpg

宮内幼稚園時代から十数年にわたって、南陽学園の理事を務めていただいた。山形からつい最近まで車でおいでいただいた。「もう私も年だから」と言われるのを引き止めて、結局亡くなられるまで務めていただいた。北垣先生が出席されるのと出席されないのとでは、気持ちがまるでちがった。緊張感とともに安心感があった。最後は北垣先生の判断を仰ぐこともしばしばだった。どんなに助けられたかしれない。

明らかにサヨク感覚のお考えをお持ちだった。先生は先生で、私のウヨク感覚をよく理解しておられたと思う。それでもそのことで事荒立つことはなかった。私の書いたものをよく読んでいただいた。それが私には大きな励みになっていた。

いろんな方の訃報に接するが、北垣先生の突然の訃報は最近にないショックだった。86歳なのだから、大往生と言っていいのに、癌を患っておられるともお聞きしていたのに、まだまだお元気でおられるような気がしていたのだった。これからは、私の心の中に生きていただくことになる。

よく聞き取れないところも多いが、奥様のご挨拶をかみしめてみたい。

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梅津伊兵衛さんのこと [弔辞]

梅津伊兵衛さん.jpeg梅津伊兵衛さん訃報山新.jpeg昨日梅津伊兵衛さんの訃報を知った。その後「お知らせ」が届いた。いま、西尾幹二先生講演会後の懇親会で「新しい歴史教科書をつくる会」山形県支部の梅津会長が挨拶する写真を見つけた。平成11年11月21日、山形の国際ホテルが会場だった。分厚い『国民の歴史』(10/1発売)がベストセラー街道驀進中の開催で、会場は満席だった。西尾先生講演会.jpegわれわれの運動最高潮の時だった。(運動前半の経緯については→「追悼 菅 弘先生 (元山形県高教組委員長)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2013-10-11。思えば、16年続くこのブログ、私にとっての「つくる会」運動の顛末を記すことがそもそもの動機だった。→「日本人にとって共通意思は可能か」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-03-12

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叔母の死 [弔辞]

女学校時代.jpg見合い写真.jpg「ほんとうに世話になったし心にかけてもらった」と、物心ついた時から思い続けてきた東京に住む叔母が88歳で一昨日(19日)亡くなった。これまでのがんばりからして盛大な葬儀になるはずだった。しかし、コロナ騒ぎが落ち着いたらあらためてとのことで、10人ぐらいのごく内輪の家族葬、私の参列も叶わない。

コロナ危機後の新しい時代、不要なものがどんどん切り捨てられるにちがいない。葬儀のあり方もまったく変わる。そう思いつつ19日、毎月この日の月例祭延期を竹さんに伝えて、叔母への思いを書きつづり送った。

そしたら昨日(20日)、「コロナの影響で「葬儀」はどのように変わるのか」の記事に出会った。https://toyokeizai.net/articles/-/344663
《新型コロナウイルスの影響で、それ以前から縮小化・簡素化が進んでいた葬儀が、ますます小さく簡易なものになろうとしている。》《2000年頃から都市部を中心に、限られた近親者だけで行う家族葬や、火葬場で簡単な読経を行うだけの直葬(火葬式)が急増。その背景には、核家族化や少子高齢化、地縁の崩壊など、さまざまな社会的変化や要因が絡み合っている。しかし、実はそのどれよりも「伝統的な葬儀に、現代人が価値を見いだせなくなった」ということが大きいかもしれない。》で始まるこの記事、「お別れ会」についての言及の後、《このコロナ禍で、働き方や価値観など、さまざまなものが大きく変化するだろう。しかしグリーフ(悲しみ)は、変わらず存在し続ける。これまで当たり前だったことが当たり前ではなくなっても、「自分にとって本当に必要なものは何か」という基準で物事を判断し、自分らしく儀式を執り行うことで、悲しみと折り合いをつける工夫をしてほしい。》で締めくくられていた。

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菅井敬一郎先生への弔辞 [弔辞]

菅井先生 米澤日報.jpg選挙の前に「行かねば」と思い、結局行けなくて、終わった今こそ「行かねば」と思っていた矢先の訃報だった。まったくの家族葬でということで、式場には家族の分だけの椅子しかなく、ご焼香のみさせていただいてきた。用意した弔辞は御霊前に捧げていただいた。息子さんとの話も、千葉に住む娘さんも来られていることなので接近は避けての会話だった。消え入るようにして旅立たれた風だった。ずっと気になりつづけていた菅井先生との突然の別れだった。享年88歳。(右は「米沢日報」2013.10.11)

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