足立守先生へのお別れの言葉 [弔辞]
西尾幹二先生を憶う [弔辞]
11月1日、西尾幹二先生逝去の報。→https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=2881
畏敬をもって接していた西尾先生でしたが、真っ先に思い起こしたのが、先生を思いっきり怒らせてしまったことでした。記録を辿ると、平成15年(2003)5月30日。当時「新しい歴史教科書をつくる会」の山形県支部事務局長で評議員の任にあり、本部での会合の後の懇親の席で西尾先生と言葉を交わす機会がありました。私は最終の電車に間に合うように中座することになったのですが、席を立つ際、西尾先生に副島隆彦氏との対談を提案したことが先生の逆鱗に触れたのです。「君はあんな人間を信用しているのか」と声を荒げられ、「彼は私の周りでは信用がない」と一蹴(いっしゅう)されたのです。私は驚いて返す言葉もなくそそくさとその場を離れたことを記憶しています。西尾先生から見て副島氏はどんな存在だったのか、その後折にふれ考えさせられたことでした。「インターネット日録」での西尾先生とのやりとりがあった後、こんなふうに書いていました。《「原理的思考」と「関係的思考」という言葉が思い浮かんだ。原理的思考といえば私にとってはまず第一に吉本隆明であり、その極北には宮沢賢治がいる。副島隆彦氏はその流れにあると思う。かつて西尾先生に副島氏との対談を願って一蹴されたことがある。「自分のまわりでは信用がない」というものだった。西尾先生は、「藤岡先生と八木前会長との関係を等距離におきたい」と言われた。西尾先生は、その思考において、原理よりも関係が優先するタイプなのだと思う。まずは学者の世界に生きておられるのだ。》(「原理的思考と関係的思考」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-03-19)
それにしてもいちばんの思い出は、『国民の歴史』がベストセラーになって日本中の話題になっていた最中の平成11年(1999)11月に山形市で開催した講演会です。会場は満席でした。終了後の懇親会も盛大でした。山形におけるつくる会の運動の絶頂期でした。関連記事あげておきます。
・「学者と政治家、あるいは学問と政治―つくる会の失敗」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-04-19-1
・「追悼 菅 弘先生 (元山形県高教組委員長)」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-07-17
・「梅津伊兵衛さんのこと」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-07-17
思えば、西尾先生の『国民の歴史』がベストセラーになったことで、「新しい歴史教科書をつくる会」が世間に広く認知されるようになりました。それまで天皇のことをありがたく語っただけで極右視されるような風潮(https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-05-05-1)も次第にまともになりました。『国民の歴史』ブームが起こる前と後では大きく変わったのです。「新しい歴史教科書」採択云々は別にして、西尾先生の功績です。『国民の歴史』の大著は隅から隅まで西尾先生の頭で消化し尽くされて書かれたことで、定式に当てはめて考えるイデオロギー的思考を超越しているのです。そのことで時代を変えたのです。
今朝(3日)宮崎正弘氏の「訃報を受けて」を読みました。《氏は論争が大好きで、また相手構わず激論を挑む。現場で見たのは岡崎久彦氏への面罵、そして小泉首相を「狂人宰相」と名付け、また安倍晋三首相をまるで評価しない人だった。・・・氏はまた読者、ファンをあつめて西尾塾とでもいうべき「坦々塾」を主催され、二回ほど講師に呼ばれて喋った。・・・次々と走馬燈のように思い出が尽きない。西尾幹二氏は不出生の論客にして思想家だった。 合掌》
そういえば、西尾先生と私のやりとり、西尾先生からの返事待ちのままです。《「日本人としての共通の意識ずくり」の具体的な内容としてあなたがイメージされていることを解りやすくおしえてください。これからのわたしの活動の参考になります。よろしく。/西尾幹二》に対して《私もここ数日いろんなご意見に接しながら自分の体験を反芻しているうち、つくる会に関わる以前、私にとって教科書問題とはなんだったのかと考えるようになっていました。そうしてあらためて浮んできたのが「日本人としての共通意思」という言葉でした。そもそも公教育とはそのことを醸成することが大きな目的であるべきはずです。ところが「個」を原理とする戦後教育においてはこの視点がすっぽり抜け落ちている。この原理こそ問題にしなければならないのではというのが私にはずっと問題でした。》ということで私の歩みをふりかえって書き連ねたのでしたが、《これに対しての西尾先生からのお答えはまだない。やはり噛み合わないのかもしれない。》ということで、先に記した《「原理的思考」と「関係的思考」という言葉云々》の文章につながったのでした。→「原理的思考と関係的思考」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-03-19
西尾先生も副島氏も同じ物事を同じように見ているような気がして対談を提案したのでしたが、西尾先生にとっては超え難いギャップがあったのかもしれません。そのギャップは、ネットでのやりとりが途絶えたままになっている私とのギャップに通じるのかもしれません。その意味するところはなんなのか。『国民の歴史』は完読しましたが、読みかけになってしまっている先生の著をあらためて繙くことでわかるのかもしれないと、先生亡き今思わされているところです。よろしくお導きの程お願い申し上げます。
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故斉藤喜一頭取神葬祭 [弔辞]
最初の大動脈解離は9年前、平成27年でした。2回目は3年前、令和3年でした。1回目は8・2、2回目は9・1で、ともに助かる可能性はわずかでした。間には鼠蹊ヘルニアで救急車で運ばれることもありました。しかしそのたびに病を乗り越え、車を止められてからは、電動自転車でどこまでも行っていました。周りはハラハラさせられていましたが、無事で通しきりました。身体を動かすことで病気前より丈夫になったようでした。最近は自力で神社の石段を昇り降りできるようにもなっていました。神さま、お獅子さまのご加護を思わずにはおれませんでした。逝くべき時まで自力で生き切りました。
最近は髭も伸び放題でした。しかし、棺(ひつぎ)に納められて戻った姿は見違えるようでした。その翌日、火葬の前はさらに男前に磨きがかかり、神々しくさえ見えました。肉体のくびきから放たれて、頭取本来の精神の自由を思う存分満喫しているかのようでした。
頭取の自由奔放な思考につきあうのは大変でした。ただフーフー言いながらのなんとかついていって実を結んだのが「白鷹山に『伝国の辞』碑をつくる会」でした。長くなりますがあらためてふりかえってみます。
「『伝国の辞』の碑を白鷹山にぜひ」という頭取の投書が山形新聞に載ったのは平成20年、16年前のことでした。だいたいそれっきりになるのが普通なのに、思いがけなくこの投書に作谷沢の樋口和男山辺町議が共鳴、頭取との交流が始まり輪が広がりだしました。小滝地区をはじめとする白鷹山山麓の方々も巻き込み、平成24年に「白鷹山に「伝国の辞」碑をつくる会」が結成されました。米沢上杉神社大乗寺健宮司のお声がけもあって米沢も動き出し、予定を超える金額が集まり、平成26年の「高い山」の日を期して、「伝国の辞」碑とともに、碑建立の趣旨を伝える副碑もできることになりました。
さらにそれからが頭取の真骨頂でした。ちょうどケネディ大統領が凶弾に斃れて50周年の日、除幕式にキャロライン・ケネディ駐日大使に参列してもらおうという手紙を出したのです。するとその直後、キャロライン大使就任後最初のスピーチで、父ケネディ大統領が鷹山公を尊敬していたことを語られ、大きく報道されたのです。真偽が定かでなかった話にお墨付きをもらったということで、山形県中沸き立ちました。それから大使館との交流が始まり、副碑にはケネディ大統領の言葉とキャロラインさんからのメッセージが刻まれて碑は完成、平成26年5月13日除幕の日を迎えました。キャロライン さんのご列席は叶いませんでしたが、心のこもったお祝いの言葉が届きました。
さらにそれで終わりではありませんでした。その年の9月、米沢の鷹山公のおまつりにキャロラインさんが家族で来てくれたのです。その時なんと、除幕式の記念として送った手拭いが家族みんなの首にかけられていました。キャロラインさんと頭取が直接会うことはありませんでしたが、キャロラインさんからの何よりのメッセージでした。
頭取の思いはどこまでもつづきます。なんとかキャロラインさんに白鷹山の碑を見ていただきたい。その願いを最後まで捨てることはありませんでした。その思いから村山市出身のアメリカ大使館女性職員と知り合い、そこから南陽市とカリブ海の島国バルバドスとの交流が生まれました。(「バルバドスからの手紙」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-05-17/「バルバドスとの交流へ向けての第一歩」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-07-18)
さらに一昨年の9月には、かねて念願の花見弘平とジョン・F・ケネディの友情秘話を紹介する「”昨日の敵は今日の友”」と題するパネルを白鷹山虚空蔵尊に据え付けました。頭取は自力で山頂まで登り切り、山形新聞に大きく紹介されました。(「”昨日の敵は今日の友”(花見弘平とケネディ)」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-09-15)
「伝国の辞」碑建立の余韻はこれからもまだまだつづきそうです。頭取にとってはおそらく、こっちの世界もあっちの世界も地続きです。あっちの世界からどんな思いを伝えてくるか、耳を澄ましておきたいと思います。
それにつけてもいちばんは獅子冠事務所のことです。みんな「これからどうする」と心配してくれます。「とにかく今は無事頭取を送り出すこと。あとはそれから」と言い続けてきました。事は見事に運んで今に至っています。頭取のおはたらきを感じます。これまでも「おまつりは神さまの段取りについてゆくだけ」と思って務めてきました。頭取もこれからは神さまのひとりになりました。どうか獅子冠事務所を、そしておくまんさまのお祭りをお導きお守りください。こっちの世界でやらねばならないことをみんなでがんばってやってゆきます。その思いをお伝えして、弔詞とさせていただきます。
ほんとうにありがとうございました。
故鈴木信一さんへ(元獅子冠事務所総取締役) [弔辞]
故鈴木信一さんの御霊前に謹んで弔意を捧げます。
公立置賜総合病院の外科の待合室で会ったのが十月三十一日でした。二年ぶりでした。奥さんの引く車椅子で、だいぶ痩せてはいましたが、満面の笑顔とはずんだ声は、重い病いを感じさせない、元気な頃そのままでした。私も手術の日ダチが悪く家内に連れられての診察で、「お互い元気でな」と手を握り合って別れました。それから二ヶ月足らず、そのうち顔見にと思っているうちの訃報でした。
昭和五十九年に亡くなった親父さんに代わって獅子冠事務所に入ったということで、代々の通称「あひるや」のまま、三十代半ばから七十まで三十五年に及ぶ獅子冠事務所歴でした。十年近く遅れて私が入った頃は、貫禄からして押しも押されぬ中堅的存在でした。
獅子冠事務所にとって、おくまんさまのお祭りはかなり激しいお祭りです。しっかりお精進をして神様の力をお借りしなければなりません。箱バヨイでも御神輿でも、獅子冠事務所と若い衆の間で激しいせめぎ合いが繰り広げられます。そうしたせめぎ合いをのり越えて納まるべきところに納まるのです。(「宮内熊野に探る「祭り」の意味 (8)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-12-21-4)
獅子冠事務所の中にあって、口数は少なくても、見るべきところをしっかり見、押さえるべきところをしっかり押さえる揺るがぬ存在として、存在感を示してこられました。
十年前須貝さんに代わって総取締役を引き継ぎ船山さんに引き継ぐまで、頭取とともに獅子冠事務所を率いられました。若い頃からその風貌はまさに絵になる姿で、獅子冠事務所の看板的存在でした。総取締役として一層その風格に磨きがかかっており、退任が惜しまれたものでした。
獅子冠事務所も高齢化が進み、新たに入ってくれる人もなく、これからどうなるか心配な状態ですが、八十七歳の頭取を先頭に、われわれ残った者、これまで通りのお祭りをつづけてゆくためにがんばるつもりでおります。
これまでの獅子冠事務所へのご功績に感謝を捧げつつ、獅子冠事務所がこれからも存分にその役割を果たし、お祭りが無事斎行されてゆくことを、しっかり見守っていただきたく、獅子冠事務所一同心よりお願い申し上げ弔詞とさせていただきます。
衷心より御冥福をお祈り申し上げます。
令和五年十二月三十日