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ズタズタになってしまった日本をどう立て直すか⑵ [日本の独立]

《徳田さんが元気だったら、今何をやるだろうかを思います。戦争に敗けて80年、ズタズタになってしまった日本をどう立て直すか、そうわれわれに問いかけているような気がしてなりません。置賜に病院はできなかったけれども、「獅子の会」は今も息づいています。置賜から日本を変え、世界を変える。本気でそう意気込んでいます。》と昨日書いた。「戦争に敗けて80年、ズタズタになってしまった日本」と書いたことについて、とりあえず私自身の歴史をふりかえってみたい

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昭和22(1947)年の生まれ。戦争の記憶がまだ生々しい中で育った。B29の来襲の恐ろしさを聞いた記憶もある。釜石の艦砲射撃の轟音がここまで響いたというのはほんとうだったのだろうか。叔母は勤労動員で風船爆弾をつくったという。祖母の弟の一人息子が戦死した。母が慕っていた母の叔父がガダルカナルで戦死した。小学校の頃、隣に越してきた粕川さんは息子を特攻で亡くしていた。(「軍神 粕川少尉」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2013-04-06金属供出の話も記憶に残る。祖父の「戦争に敗けてかえってよかった」の言葉に、戦時下の祖父の苦衷を思って切なくなる。(資料「あとがき」に代えて」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-08-13
小学校から大学まで教育環境は、いわゆる「戦後民主教育」下にあった。高校3年で大井魁先生https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-02-23の日本史を習ったがそこからはみ出しかけていたのかもしれない。大井先生が中央公論に「日本国ナショナリズムの形成」を書いて教育界に反響を巻き起こしたのは私が高校1年の時だった。
大学で寮に入った。周りはみんな民青だった。上昇志向に違和感を感じて距離を置いた。3回生の時ストライキが始まった。バリケードができた。高橋和巳から吉本隆明への移行期だった。ノンポリで通した。スト権解除なしの講義再開に意地を張って6年間大学に在籍した。おまけの2年間がほんとうに私には有意義な2年間だった。当時年間授業料は12,000円。贅沢しなければアルバイトで自活できたので、案外無理なく留年がゆるされた時代だった。
3年の教員生活を経てから仙台で染物の仕事をおぼえ、家業に就いた。消防団にはいって、大学までの自分は何をやってきたのかと愕然とさせられた。商工会青年部でがんばった。清成忠男先生らの提唱する「地域主義」が新鮮に思えた。https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-03-11 昭和56年、徳田さんと出会い「獅子の会」ができる。神道天行居の修斎会にはじめて参加したのが昭和60年。
その時の感想を神道天行居機関紙「古道」こう書いていた。《「生きているうちだけが人生じやあない。」こんな言葉が仲間同士の会話の中でごく自然な事として語られるようになっているこの頃の私たち、死んだら終わり、神様なんているものか、いわんや天皇が神様だなんてとんでもない、そんな戦後の風潮を当り前の事として生れ育ってきた私たちの周囲にも何か大きな変化が起ころうとしています。例えば、これまでほとんど気に留めることもなく見過ごしてしまっていたお社やほこらや石碑などへの関心が、私たちの周囲の若い世代の間にも確実に高まりつつあります。そんなところにも、かつて人間が体験してきた神々との交流の歴史を読み取ろうとする機運の到来を感じとることができるような気がするのです。このことをあらためて思うにつけても、私たちの周り到る所にある、神々の世界を垣間見るよすがの数々を端なくも見逃して来てしまっていた我身の迂闊さを思わずにはいられません。》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-06-16
「戦後民主教育」をアメリカによる占領下の「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」として考えるようになったのは平成8(1996)年、ビジョンの会(日本政策研究センター)と出会ってからだ。その年の12月議会従軍慰安婦問題で火がついた。(追悼 菅 弘先生 (元山形県高教組委員長)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2013-10-11 /「慰安婦問題」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2007-06-28平成11年から「新しい歴史教科書をつくる会」の運動に関わることになる。この運動に距離を感じるようになったのは平成13(2001)年の9.11がきっかけだった。
《かつて「新しい歴史教科書をつくる会」の運動に本気で取組んだことがありました。私にとってその運動の目指すところは、戦後の不毛な左右対立を乗りこえたところに「日本人の共通意思」を見出すことでした。しかし、つくる会の運動自体、「日本人の共通意思づくり」どころか、反対に本来日本人に備わった保守感覚をずたずたにする方向に向けた運動になってしまっていたことに気づかされ運動から離れました http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2006-03-12。とはいえ「日本人の共通意思づくり」をあきらめたわけではありません。何よりそのためには「言論の自由」が保障されていなければなりません。72位という順位に唖然としました。外からの評価に、まずもって謙虚であるべきです。逃げるしか能のない高市総務相 http://www.asyura2.com/16/senkyo204/msg/721.html は、長谷川三千子先生の気概に学ぶべきです http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2014-02-25。》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2016-04-23-1
日本政策研究センター所長の伊藤哲夫所長批判も書いていた。→伊藤哲夫氏への異和(『日本会議の研究』を読んで)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2016-05-29
しばらくつづいた「新しい歴史教科書をつくる会」山形県支部の「正気煥発掲示板」がなくなった手持ち無沙汰からこのブログ「移ろうままに」を始めたのは2005年、徳田毅くんが衆議院議員に初当選した時だった。→「ともかくのスタートです」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2005-09-17
(つづく)

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