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秋月三名君フォーラムin米沢2022 [上杉鷹山]

22日、2時から5時40分まで3時間40分のフォーラムだったが、鷹山公について新たな視点から考えることができる中身の濃いフォーラムだった。3市町の持ち回りで今回が6回目、4年前の記事がある。→「「秋月種茂→上杉鷹山→黒田長舒」が思わせてくれたこと」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-10-29 
基調講演「上杉鷹山の藩政改革と金主たち~米沢の借金・再生史」元野村総研取締役・元大阪経済大教授:加藤国雄氏。同名の本が出版されてまもなく、「天声人語」に紹介されている。いわく、「借金残高と税収を比べれば、鷹山が格闘した借金地獄より、いまの日本の財政の方が3倍深刻です」と加藤さん。今年度の国債残高は1千兆円。税収の15倍を超える。鷹山が背負った借財は歳入の5倍だったから、苦しさは3倍というわけだ。/折しも新年度の国の予算案が今週、衆院を通過した。歳出は10年連続で増え続け、過去最大に。抱え込んだ借金残高を国内総生産(GDP)比でみると、日本の債務比率は先進国で最悪の水準という。》借金と税収の比率を見ると、今の日本の方が鷹山公の苦しみの3倍という。「国債=借金」、家計脳で雁字搦めの天声人語子。この感覚が日本を暗くしていることに気づかねばならないというのに、洗脳工作に鷹山公がかりだされてしまっている。
加藤氏によると、米沢藩は1601年時点で60万両(600億円)の囲い込み金(軍資金)があって、1600年代の財政赤字はその金で補うことができた。1700年代にその金が底をついてそれからは借金で賄うことになる。鷹山公の時代には借金は20万両(200億円)にまで膨らんでいた。「財政窮乏化概略史」の図表が貴重だ。
財政窮乏化概略史.jpg
ここから脱け出すのに何がなされたか。金主に頼み込んでの借金棒引き(債権放棄)。まずそこから始まる。竹俣当綱主導の第1期改革の要がこれだった。これまで全くと言っていいほど注目されなかったが、目からウロコだった。
減債に応じた金主たち.jpg
このフォーラム、まだいろいろ書きたいことあります。以下は、興譲館同窓会HPから加藤氏に関する記事。
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白鷹山に「花見弘平とケネディ大統領の友情秘話」パネル [上杉鷹山]

花見弘平とケネディ170x80ok.jpg

今朝の山形新聞に、「”昨日の敵は今日の友”(花見弘平とケネディ)」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-09-15 の記事が掲載されました。ちょうど昨日、「どうしてもしめ縄を張りたい」という斉藤喜一さんの強い願いに、息子も一緒に行って念願を叶えてきたところでした。偶然にも山頂で、斉藤会長等の登頂挑戦記事を読んで思い立たれたという米沢の後藤源元山形県議会議長(昭和14年生)とお会いしたということでした。石段整備の会長の川井栄助さんも一緒でした。鷹山公も喜んでおられての偶然のような気がしました。帰途、白鷹の大蔵寺さまに報告して喜んでいただいてきたそうです。

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”昨日の敵は今日の友”(花見弘平とケネディ) [上杉鷹山]

虚空蔵尊 ケネディ看板2022.9.14.jpg伝国の辞碑2022.9.14.jpgあと一息1663147674373.jpg虚空蔵尊1663145891819.jpg白鷹山山頂2022.9.14.jpg

白鷹山に「伝国の辞」碑をつくる会及び南陽鷹の会の斉藤喜一会長がかねて念願の花見弘平とジョン・F・ケネディの友情秘話を紹介する看板が完成し、白鷹山虚空蔵尊に据え付けてきました。読書家の斉藤さんが 『ケネディを沈めた男』(星亮一 潮書房光人社 平成26年)を読んでこの秘話を知り、その後花見弘平氏の奥さんとも手紙で交流して、『ケネディの艇を沈めた男 夫・弘平との60年』(花見和子 平成16年)を入手、キャロライン・ケネディさんと縁ある白鷹山にぜひこの秘話を紹介する看板を設置したい、と花見和子さんの同意も得てこのたび実現にこぎつけたものです。白鷹山石段完成お礼 .jpg平成30年から始まった白鷹山登山道(石段)整備事業が今年6月完成したばかり、その完成を記念する設置となりました。930段の石段を86歳の斉藤さん、無事登り切りました。白鷹山登頂最高齢記録かもしれません。

昨日見つけたのですが、アメリカ大使館のサイトにこの秘話が詳しく紹介してありました。
・ケネディ下院議員にあてた花見元艦長の手紙https://amview.japan.usembassy.gov/hanami-to-jfk/
・「きのうの敵は今日の友」― ケネディ大統領と日本人艦長の友情秘話
https://amview.japan.usembassy.gov/jfk-japanese-captain/

【追記9.21】

9.21山新 1のコピー.jpg

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「北条郷郷村出役北村孫四郎に見る鷹山公改革の現場」(市民大学資料) [上杉鷹山]

11月20日、市民大学で「北条郷郷村出役北村孫四郎に見る鷹山公改革の現場」というテーマで語ってきました。用意した資料をアップしておきます。
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北条郷郷村出役北村孫四郎に見る鷹山公改革の現場
上杉鷹山公 信済 モノクロv2 小サイズ.jpg上杉鷹山公(1751-1822)をよく知る

目賀多信済(めかた・のぶずみ) による肖像画

 米沢藩御用絵師。17861847(天明6-弘化4)年。出羽国米沢生まれ。小納戸役の矢嶋欽右衛門長寄の三男であったが、目賀多信與の養子となり、雲川と号す。ほかに雲林、幽石、適意斎などとも号した。1801(享和元)年信與の隠居に伴い16歳で家督を継ぐ。のちに第11代藩主上杉斉定(1788-1839)の絵事勤仕として仕えた。1819(文政2)年、鍛冶橋狩野家七代の狩野探信守道に入門し、修業を積む。山水、人物、竜虎、花鳥のいずれにも優れ、目賀多家の門人である下條桂谷は「墨色やや濃しと雖も、谷文晁に匹敵すべき大家なり」と激賞、南・北目賀多家を通じ最も傑出した名人と伝わる。弟子に若井牛山、百束幽谷らがいる。62歳没。米沢の信光寺に眠る。主な作品:《山水図屏風》《布袋図》など。(https://artscape.jp/study/artachive/10143321_1982.html

はじめに

莅戸善政建言書案 (安永3年(1774313日 上杉博物館蔵)

 藩主となって7年目、24歳の上杉鷹山に向け、小姓頭の莅戸善政が記した意見書の下書。

これまでの政治は家臣を頼ってぱかりだったが、鷹山自身身が政治に心を注ぐこと。

家臣や諸役人が尽力しても、君主(鷹山)が努力しなければ、「砂山を上り、虚空をつかんで天に昇ろう」とするようなものだ。

日常、「あらぬ無駄口話、軽口はずみ」に時間を過ごし、自分の意見がない。

学問の意味が分からないのか、ただ本を面白いと読み流すだけで、政治に応用していない。

服装や仕草が江戸風ともいうべきか、俗にいう色男、伊達男、あるいは「女郎」のようなので、威儀を正すよう注意すること。

 

存寄(ぞんじより)】

 高鍋藩が17世紀末ごろから顕著に見える施策で、家中士に積極的に藩政に対して献言(意見の具申)、献策を  させる「下意上聞」の体制。

 江戸麻布のお屋敷邸で、幼ない鷹山公の御養育係をしていた三好善大夫重道は、鷹山公の養子縁組に際し贈った『はなむけの書』も存寄の一環と言える。《身分の上下を問わず、わが身に天より受けた明徳を曇らせないように御修業なさることを専らにお考え下さい。その理由は、身分賤しい者でも、自分が心を清く明るくもち、善い行いをしない時は、小さな家でも治まりません。まして身分の高い御方は、御自分が曇りのない鏡のような御心でないと、下々の善悪を見分けることができません。・・・善人が遠ざかり悪人が近づくようになりましては、自然と君主でも悪に移ります。それが小さいことであれば身を失いますし、大きいことであれば家を亡ばし国民に難儀が及びます。従いまして、絶対に御修業が大切でございます。・・・善と悪ほ両立いたしません。善に進めば悪が退き、悪が行われれば善が消えるものでございます・従いまして仮初にも悪事に傾かれることなく、善い事にお進みなされることが大切でございます。》(『米沢風土記』https://ameblo.jp/yonezu011/entry-11272051141.html)鷹山公は、この書を生涯座右の銘とし処世の鑑として大切にした。

 

 平成252013)年、「白鷹山に『伝国の辞』碑をつくる会」発会総会での遠藤英先生のお話がいつも頭にありました。鷹山公を美化してヒーローにしてはいけない。あの人は天才なんだ、神様みたいな人なんだと言っちゃうと、われわれは真似ができなくなってしまう。鷹山公は、今の高校生ぐらいで殿様になった。それから名君と呼ばれるようになるまで、どれだけの失敗と苦労があったことか。鷹山公をひとりの人間として追っかけてゆくと、失敗したり、あれこれ工夫したり、みんなで知恵を出し合ったりという実際いろんなことがある。それが全部われわれに役に立つ。われわれと同じようなその辺りの人ががんばったんだということで、われわれの手本になる。すばらしい人で、目標にすべき人ではあるんですけど、あまり棚の上に載せてしまわないで、丁寧に見ていただいて真似をしていきたいなと思うのです》

 

鷹山公の改革(小関悠一郎『上杉鷹山ー「富国安民」の政治』岩波新書による)

上杉藩人口変化.jpg

←図録『上杉鷹山の生涯〜藩政改革と家臣団』(上杉博物館2021)より
・宝暦元年(1551)鷹山公誕生
・宝暦10年(1760)上杉家世子に。北条郷青苧騒動
・宝暦13年(1763)竹俣当綱により森平右衛門誅殺
・明和4年(1767)鷹山公藩主就任。明和・安永の改革(竹俣当綱)
・明和6年(1769)鷹山公、米沢に初入部
・安永2年(1771)大旱魃(鍋田念仏踊発祥)
・安永4年(1773)七家騒動
・安永6年(1775)漆・桑・楮、各100万本植生着手
・安永7年(1776)興譲館再興
・天明2年(1782)竹俣当綱隠居
・天明3年(1783)飢饉始まる。莅戸善政隠居
・天明4年(1784)鷹山公隠居。「伝国の辞」を治広に
・天明7年(1787)郷村出役廃止
・寛政2年(1790)藁科立遠「管見談」
・寛政3年(1791)莅戸善政中老になり寛政の改革始まる
・寛政4年(1792)郷村出役復活
・寛政6年(1794)黒井堰完成
・享和元年(1801)「伍什組合」始まる
・享和2年(1802)「かてもの」刊行
・享和3年(1803)莅戸善政死去。莅戸政以による「第三の改革」
・享和4年(1804)北村孫四郎、北条郷郷村出役に就任
・享和5年(1805)「北条郷農家寒造之弁」


 

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磯田さんもまちがえた「ならぬは人のなさぬなりけり」 [上杉鷹山]

英雄たちの選択 3択.jpg昨夜のNHKBS放映「英雄たちの選択 上杉鷹山」、十分見応えがありました。3月10日(水)朝8時から再放送あります。

どうしても七家騒動で成敗された方が悪人視されがちですが、決してそうではない、彼らなりの命がけの決意あってのことだったことをあらためて理解せねばと思ったところでした。だれもが命がけにならねばならない切羽詰まった時代だったのです。みんな追い込まれてのぎりぎりの決断です。

英雄たちの選択 磯田.jpg鷹山公ファンを自認する磯田道史氏ですが、最後にミスってしまいました。「なぬは人のなさぬなりけり」を「なぬは人のなさぬなりけり」と言ってしまったのです。画面にはちゃんと正しく書いてありました。再放送では修正して欲しいです。実は私もずっとそう思い込んでいた時期がたしかにあったのです。私だけでなかったと思わされたことがありました。もうだいぶ昔(30年以上前)、米沢市の観光課か観光協会だったかが、「なぬは人のなさぬなりけり」のポスターを作ってしまったのです。その時ハッと気づいた人も多かったはずです。磯田氏でさえ間違ったということは、そう思い込ませた事情が何かあったのかもしれません。磯田さんが鷹山公ファンであればこその間違いなのかもしれないのです。当時のこと検索で探してみましたが今のところわかりません。ポスター刷り直しの当事者の話も聞いてみたいです。磯田氏でさえ間違えあのだから、この際名乗り出て堂々と話題にして欲しい。

キャロライン・ケネディ大使が、着任当時の講演で「なせばなる」に言及しています。→https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2013-12-06-1

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今日放映!「心の壁を打ち破れ!上杉鷹山 財政再建への鍵」 [上杉鷹山]

英雄51A  青年鷹山公線画.jpgたちの選択「心の壁を打ち破れ! 上杉鷹山 財政再建への鍵」
[NHKBSプレミアム] 2021年03月03日 午後8:00 ~ 午後9:00 (60分)
出演者【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】萱野稔人,飯田泰之,小関悠一郎
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Acorn(どんぐり/英懇)」に寄せた「安藤礼二『列島祝祭論』を読む」についての要約文を書くようにとの依頼があり、どう書こうかと考えていたら鷹山公につながった。それで今朝書いたのが以下の文。

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『上杉鷹山 』(小関悠一郎)を読む(6)まとめ [上杉鷹山]

51A  青年鷹山公線画.jpg15日の振興審議会、たまたまこの本(『上杉鷹山』)をバッグに入れて行ったら、隣の席が著者のお父さん小関文典教育委員(元山大英文科教授)でした。思わず取り出して「息子さん、いい本出したね。」3月3日(水)のNHKBS午後8時からの「英雄たちの選択」、鷹山公がテーマで悠一郎氏が出演との耳より情報を得ることができました。お父さんにも「そのうちアマゾンにレビュー書くから」と言ってきたところでした。

振興審議会は、これまで審議してきた第6次南陽市総合計画基本計画(案)の確認が主なテーマでした。終了後市長も同席して全員が発言する機会が与えられました。NDソフトの佐藤会長が「わが社はもう半分以上がテレワーク、新幹線で東京から2時間というアドバンテージを活かせ。たとえば赤湯駅近くに貸しオフィスを用意して東京からのビジネスマンを呼び込むとか」と提案していました。大友JC会長は、「地元に根ざした人材育成によって地域に土台を」と語っていました。私も基本計画に目を通して「南陽らしさ」が希薄なことが不満でした。「私は南陽市民憲章がきらいだ。中途半端な形での合併だったので最大公約数的な市民憲章ににしかならなかった。われわれは南陽市レベルでなくて、置賜レベルで考えた方が地域らしさが出せる。置賜という視点がなかったのが残念。」そして鷹山公へ。「200年前、鷹山公の治世を学ぶために全国から多くの人がこの地を訪れた。そういう時代があったことを誇りに思っていい。置賜にはその土台がある。」そして「小関委員の息子さんが鷹山公についてのいい本を出した。この本のすごいところは、これまでの、外から養子に入った鷹山公が偉かったという思い込みをぶちやぶって、必死の思いで鷹山公を『明君』に仕立て上げねばならない地元の人材があったことを鮮明にしたことだ。第一の改革では竹俣当綱、第二の改革では莅戸善政、第三の改革ではその息子の政以、そしてその下にはそれを支える人たちがいた。幕府への領地返上まで考えねばならないほど窮していた藩政をなんとか立て直さねばならないという切羽詰まった地元の人たちの思いあっての明君鷹山公だったのだことが、この本で明らかになった。市長はじめぜひ読んでほしい。」こんな内容を発言しました。

以下、アマゾンにレビューするつもりでまとめてみます。

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『上杉鷹山 』(小関悠一郎)を読む(5)「法を取る者多し」 [上杉鷹山]

東北の幕末維新m_E69DB1E58C97E381AEE5B995E69CABE7B6ADE696B0.jpg米沢藩士甘糟継成は「寛政以来、御治声高く、諸藩より来て、法を取る者(学びに来る者)多し」と『鷹山公遺跡録』(1862)に記した。

《「近来、三代打ち続き国政よろしき段、将軍家の御聴に達し御賞‥‥日本国中の規模成るべし」(『奥羽政談評判秘録』天保年間)と言われたように、鷹山とその後の米沢藩主が賞されたことで、米沢藩の「国政」は、全国諸藩の「規模」(模範)だと見なされるようになっていた。》(223p)《幕末期に政治を論じるほどの人々にとって、米沢藩政は政治論議の際の基準となっていった。》(225p)という。かの横井小楠(1809-1869)をしてこう言わしめた。《「鷹山公に比類仕り候人は真似て見当たり申さず、先ず此の公は和漢独歩と存じ奉り候」》(225p)。さらに明治になって伊藤博文(1841-1909)曰く、《「我が日本封建時代、名君の誉を馳する者四人、紀州南龍公、備前新太郎少将、肥後霊感公及び上杉鷹山公是なり。‥‥天樹院公の明賢‥‥加へて天下の五名君と称す可し」》(226p)。著者は言う、《上杉鷹山・米沢藩を取り上げて行われた人々の議論は、近代日本の政治文化ーー理念や君主像・人間像・政治論の文法や質ーーを、近世の側から準備していく役割の一端を担うことになったように思われるのである。》(227p)さらに《近代日本における政治理念や君主像・人間像のあり方につながる議論の醸成を促したところに上杉鷹山という「明君」の登場と米沢藩の改革が持った一つの意義があると言えるだろう。それは、幕末維新期にかけての動きが高く評価されてきた西南諸藩に対して、米沢藩の改革が持った歴史的意味でもあった。》(229p)要するに、《「富国安民」の理想を、現実政治の上でも体現したのが上杉鷹山の改革なのだ。》(232p)この著の最後、問題を投げかけて閉じる。《鷹山が掲げた「富国」(経済)と国民の生活、さらに言えば平和と軍事は、現代に至るまで一貫して議論の焦点であり続けている。「富国」の政治課題化の始点に位置して、「富国安民」を追求した上杉鷹山の改革は、近代日本が採用した「富国強兵」の国家理想とは一線を画すものとして、現代の私たちに多くの問いを投げかけているのである。》(234p)

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『上杉鷹山 』(小関悠一郎)を読む(4)第三の改革② [上杉鷹山]

寝入り端の地震でした。もっと夜中かと思って目覚めたら11時過ぎたばかりでした。この辺、震度5弱の報道でしたがその後4に訂正されたようです。0時過ぎの段階では南陽市に被害確認はないそうです。(白岩市長のFB→https://www.facebook.com/takao.shiraiwa/posts/2075569539252444仕事場の筒状の紙や布が倒れていましたが、ゼンマイの柱時計は無事動いています。福島で見られた発光現象、私も直後のニュースで見ました。https://twitter.com/JC1oAxgs4D6D3kc/status/1360632657034452992
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第三の改革①のつづきです。
莅戸家の墓.jpg《寛政の改革では、・・・農民の経済的安定を第一とした領民支配緩和策を次々と打ち出していた。・・・ところが、民心には、年貢が納められなくとも何とかなるという風潮に染まってしまっている。もちろん経済的弱者(「貧民」)の場合は年貢免除も仕方がないように思えるが、それを許してしまえば、一人から村全体へ、一村から他村へと免除要求が広がっていくことになる。年貢未納は決して許さないという姿勢で取立に臨む方が、かえって民のためにもいいのではないか‥‥。》(194p)この課題に政以はどう応えたか。《領内の民は、一人として「御国民」でない者はいない。以後も長く「御国民」であり続ける者に対して、わずか一年の年貢の収量を増やそうと、翌年からの貧困を顧みずに無理やり取り立てて納入させるのは、「小利大損」である。そればかりか、「民の父母」として子である領民を愛すべき人君の仁心に背くものである。「天」は、民の利益となりくらしがよくなるようにと国主邦君を立てられたのである。どうして「民利」を奪い掠め取ることがあっていいだろうか。(『子愛篇』)(169p)鷹山公の「伝国の辞」の基調をなす、「民は国の本」という「民本」の思想である。では、それを領民に周知浸透させるにはどうするか。「中間に処する農官の処置は甚だ難しき事」である。《農民が「力田」に向かうように仕向けることこそ、民政の最重要課題なのだ。農官による指導により、農民の「風俗」を労働集約的なものに移し変えることで、米を中心とする農業生産額をあげようではないか。(『冬田農談』)(171p)そのためには上からの強制ではなく、農民自身の中からインセンティブを生まねばならぬ。《「富国安民」を実現しようとすれば、「稼ぎ働かねばならぬように鼓舞扇動」し。「計略を以て識らず識らず我と我が身を稼ぎ働かしめるの術」が必要というのが、莅戸政以の改革構想の基本であった。》(172p)
この構想がどう具体化されていったか、その貴重な記録が、わが北条郷郷村出役北村孫四郎の「日記」と『北条郷農家寒造之弁』である。

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『上杉鷹山 』(小関悠一郎)を読む(3)第三の改革① [上杉鷹山]

第三の改革をリードするのは、莅戸善政の嫡子莅戸政以(1760-1816)。父善政の死後、奉行等の職をそっくり引き継いだ政以は、文化二年(1805)の藩政意見書でこう述べる。《安逸に流れやすい風潮を一変し、民の習俗を勤勉なものに移行させることは、「治国安民」実現の基礎であり、時勢の急務である。‥‥道楽・不稼ぎを何よりも恥ずかしいことだと思うような習俗に移行させたいものである。》(159p)この方向は藩民意識の大転回を意味する。《こうして広がりはじめた通俗道徳は、家の存続という願いを込めた民衆の大きな努力を引き出す一方で、個々の家の経済的浮沈の原因を、領主の政策ではなく、道徳的な自己確立の成否(個々人の善行や怠惰など)に求める自己責任論的な社会意識を生み出していくことにもなる。》(160p)もう藩の改革は軌道に乗った証左とも言える。米沢藩の場合、第一の改革、第二の改革の成果あればこそ、意識はひとりひとりの生き様に向けられる。自己意識の目覚め、近代への準備が整いつつあるということか。きっと、この流れの中から「置賜発アジア主義」も生まれたのだ。

米沢藩の人口推移.jpg「北条郷農家寒造之弁」(『日本農書全集』第18巻)の解題に、元禄5年(1692)から文久3年(1865)の米沢藩の人口推移表があった。元禄5年(1692)を100とすると寛政5年(1793)が75、100年間で1/4の人口減少。江戸期の人口推移.jpg全国的にはどうだったかの統計グラフ→がある。全国的には亨保7年以降の10年間に4ポイント増加しているのに、米沢藩は逆に4ポイント減少。この頃の米沢藩の状況、4代綱憲の実父吉良義央が殺害される赤穂事件が元禄15年(1703)、2年後綱憲隠退して長男吉憲が5代18年、吉憲は在任18年で享保7年(1722年)に死去、長男の宗憲が第6代、宗憲も享保19年(1734年)に死去、第7代を弟の宗房が継ぐが、これも延享3年(1746年)に死去と、病弱な藩主が相次ぎ10年そこそこの短期間での入れ替わり。《第8代は宗房の弟の重定が継ぐ。重定は先代までのように病弱ではなかったが暗愚で、藩政を省みず遊興にふけって借財だけを増やした。このため、米沢藩の財政は危機的状況に陥り、重定は幕府へ領地を返上しようと真剣に考えるほどであった。》ウィキペディア)竹俣当綱らによる森平右衛門誅殺の宝暦13年(1763)まで15ポイント減、その後10年の間にようやく上昇に転ずる。9代鷹山公相続の明和4年(1767)頃は上昇に転じている。天明の飢饉による米沢藩の減少率は全国に比して、たしかに小さい。寛政5年(1763)を底にその後は順調に上昇、天保の飢饉では全国的には減少した時も、米沢藩は増えている。改革の成果で飢饉を克服した。幕末の文久年間には、ほぼ元禄赤穂事件(1703)の頃に追いついている。

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