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長井謙治准教授「ここまでわかった北町遺跡の暮らしと環境」 [地元の歴史]

永井先生を紹介する角田補佐.jpg南陽市民大学講座、長井謙治愛知学院大学准教授「ここまでわかった北町遺跡の暮らしと環境ー最新の学術発掘調査の成果ー」を聴いてきた。東北芸工大に来る前は、理屈っぽいので「理論の長井」と言われていたそうだ。それが山形に来て日向洞窟遺跡や北町遺跡に出会ったことで、今は「発掘の長井」と言われるようになったとのこと。角田補佐との出会いの意義を語られた。写真は長野先生を紹介する角田補佐。

北町遺跡の意義については、以前書いたことがある。→「北町遺跡がすごい!「縄文のタイムカプセル」」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-09-21 おおざっぱに理解していたことを今回専門的にかなりつっこんで講義していただいた。聴いただけでは素通りなので報告書の完成を待ちたい。前山形考古学会長で市民大学運営委員長の佐藤庄一君が山形大学の学生だった昭和43年、たまたま子どもたちが石蹴りして遊んでいた石が石器であることに気づいたことが北町遺跡発見につながった、という質問タイムでの話も貴重だった。

年縞博物館.jpg「年縞」という言葉をはじめて聞いた。地層の年輪と言っていい。それが福井県の湖から見つかった。福井県の鳥浜貝塚(若狭三方縄文博物館http://historia.justhpbs.jp/jyoumonkan.htmlに近い水月湖。→「「世界標準のものさし」を生んだ奇跡 水月湖の地形と年縞博物館」https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver150/

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宮内小創立150周年記念誌完成 [地元の歴史]

150周年記念誌表紙.jpg令和4年度中に発刊予定が、年度を越してしまいましたが、このほど宮内小創立150周年記念誌がようやく完成しました。2日間にわたる記念事業協賛会役員と今年のPTA役員によるカバーかけ作業が昨夜完了し、各地区への配布体制が整いました。数日中には宮内、金山地区の全家庭2500戸に届けられることと思います。

記念誌カバーかけ.jpg編集委員長の任を受けて2年、ふりかえればいろんなことがありましたが、宮内の地のエネルギーを身に受けての仕事でした。昨日は、その集大成のようなエネルギーの結集で、3日間かかるかもしれないと思っていた作業を2日で終えることができました。導かれるままにここまできた、という気がしてなりません。「あとがき」にこう記しています。《宮内地区、金山地区の全家庭にお届けすることになっています。各地区の役員、隣組長さんにもご協力いただきます。多くの方々の手を経ていまお手元に届いていることと思います。一度に全部に目を通すことは叶わなくとも、手元に置いていただいてなんども開いていただけることを願っています。そして、宮内小学校を柱にした宮内の歴史について語り合っていただけたらうれしいです。そういう記念誌になることを目指して取り組んできました。/ もう亡くなっておられる先輩・同輩・後輩の方々もふくめ、後押しして下さった全ての方々への深い敬意と感謝の念をこめつつ、これから育ちゆく宮内小学校の子どもたちの力になってくれることを心から願って、「あとがき」とします。》

ご希望の方は、佐野書店からお求めいただけます。A4判フルカラー160頁1500円(送料500円)です。下記チラシご覧ください。

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一般質問(2)「鎌倉殿の13人」と南陽市 [地元の歴史]

何曜市民大学講座チラシ2021.jpg南陽市民大学講座に運営委員として関わるようになって10年以上になる。いつのままにか講師の役割も好んで引き受けるようになった。謝礼として1万円の図書券だが、それどころではなくありがたい。これまでを振り返ってみると、いずれも思い出深く、私にとってかけがえのない財産だ。

・宮内熊野に探る「祭り」の意味https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2013-11-09
・小田仁二郎と宮内https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-10-26-1
・宮内、賑わいの記憶https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-11-14
・『南陽の菊まつり』百年https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-09-10
・製糸業隆盛の遺産-漆山多勢家を中心に-https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-08-26
・吉野石膏 須藤永次伝https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-08-24-1
・宮内に流れる名家大江氏の血脈https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-11-15
・北条郷郷村出役北村孫四郎に見る鷹山公改革の現場https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-11-23
(今年は「小田仁二郎の現在的意義を探る」と題して11月12日予定)

5年ぐらい前、寒河江のMさんの来訪で、置賜の寒河江家の源流が寒河江の大江家であることを知り、粡町で身近な「大江商事」さんがまさにその流れであることに驚き、「宮内よもやま歴史絵巻」で紹介した後、一昨年「宮内に流れる名家大江氏の血脈」と題して語った。ちょうどその折「鎌倉殿の13人」と題して大河ドラマになることを知った。今年の4月、いつものようにふらり立ち寄ったMさんと話していて、「鎌倉殿の13人」関連で一般質問で取り上げたいと思った。その時は観光関連でと思ったのだが、市民に知ってもらうことが先決と考えて市民大学に関連づけることにした。(寒河江の動きは山形新聞に掲載→「街中に「鎌倉殿」の大江広元 寒河江市内、ポスターなどお目見え2022/5/11 https://www.yamagata-np.jp/news/202205/11/kj_2022051100244.phpこれがきっかけで何か動きが出てくればうれしい。

議会報170一般質問.jpg

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「着目!池黒皇大神社」(芸文なんよう) [地元の歴史]

芸文なんよう23号 2022.2.jpg昨年秋、「『芸文なんよう』に何か書いて」と頼まれて、それではと、宮内まち歩き研修会などで当時いちばん頭にあった池黒皇大神社のことを書いたのが昨日出てきました。m_E5B1B1E5BDA2E6ADB4E58FB2E68EA2E8A8AA4.jpg

池黒皇大神社に関心が向いた出発点は、なんといっても清野春樹さんの『山形歴史探訪4 平清水・宮内・赤湯・上郷・長井の秘密』です。(→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-01-04それに龍口神社、熊野大社の「龍穴」性https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-10-18と、「飛騨の匠」による宥明長南社を絡めました。

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着目!池黒皇大神社          

はじめに
 北に丘陵(玄武)、南に沃野(朱雀)、西に街道(白虎)、東に清流吉野川(青龍)、宮内は四神相応の地である。街道とは矢ノ目街道を指す。矢ノ目街道は、京から江戸、日光、会津を経て大峠を越え、米沢からこの地に至る街道の北端であり、池黒皇大神社はその終着点に位置する。『山形県神社誌』に 《桓武天皇の延暦年中坂上田村麻呂東征の際、屯軍の地として城砦を築き、社を建立、祀り創められたので、古来坂上神明と称する。》とある。坂上田村麻呂が置賜に足を踏み入れた文書記録はないが、長井の総宮神社、久保の桜、米沢の成島八幡など、置賜に伝えは多い。池黒皇大神社が「坂之上神明」とも言われてきたのは、高台に位置する故のみではなく、実際田村麻呂駐屯の証か。この古社に注目してみたい。

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水心子正秀のすごさ [地元の歴史]

正英.jpeg正英 1.jpeg山形新聞「ふるさとの文化財」に水心子正秀(1750-1825)の刀。《徳川家が統治した江戸時代は平和な世が続き、日本刀は美術的な装飾が施された刀が主流となっていた。しかし正秀と多くの門人は鎌倉や南北朝時代の作刀法をよみがえらせようと復古論を唱え、刀剣史に残る新々刀(復古刀)の時代を築き上げた。》とある。

水心子正秀については、2020年の市民大学で、山形考古学会会長の佐藤庄一さんがいい講義をしてくれ、それに触発されて記事にした。→「新々刀の巨匠 水心子正秀(南陽市民大学講座)」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-08-30-2

水心子正秀を「すごい」と思ったのは、苦労して身につけた技術を惜しげも無く弟子たちに伝えたことで、日本刀のすぐれた伝統が今に伝わることになったということだった。このことについては、2020年の12月議会の一般質問で、第6次南陽市総合計画基本構想に絡めて、「 オレがオレが」が本来なのではないという、南陽の風土の底流感覚を象徴する人物として、小田仁二郎、須藤永次とともに正秀を取り上げた。→一般質問してきました」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-12-10 

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一般質問報告(3)北町遺跡と池黒皇大神社 [地元の歴史]

取上坂から白竜湖S.jpg

明るい話題に転じます。

2、南陽市における遺跡・文化財保護について 
歴史への関心はアイデンティティ自己確認の基盤となります。南陽という場所がどういう歴史を重ねてきた土地なのか、そのことへの関心が未来への道筋を教えてくれます。その観点から質問します。

⑴北町遺跡について
北町遺跡については2年前の夏、1万2千年前縄文草創期の地層からマグロの骨が発見されたということで大きな話題になりました。(1万年以上前の縄文時代から山の民と海の民は交流していたhttps://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12505037671.html)大谷地にある低湿地遺跡であるため、普通なら腐ってしまう遺物が残っており、まさに縄文時代のタイムカプセルということでその後の調査研究の進展が期待されているところであります。次の3点についてお聞かせいただきたい。
①現段階での評価は。
②今後どう進めてゆくか。
③その場所は調査が終われば埋め戻され、知る人は多く有りません。今後市民への周知啓蒙をどう考えているか。

応徳3年棟札.jpg⑵池黒皇大神社「応徳3(1086)年棟札」について
「北に丘陵、南に沃野」、縄文の大昔からまことに住みよい南陽の場所でありました。今から55年前、当時の安孫子山形県知事から示された時には唐突に思えた「南陽」という名でしたが、今になってみれば見事にありがたい命名だったと感謝したいです。その南陽にあって宮内は、「北に丘陵、南に沃野」に加えて「東に清流吉野川、西に街道」という、古来都の条件とされる四神相応の条件を備えています。街道とは矢の目街道で遠く大和、京都から北を目指して江戸、日光、会津そして大峠を越えて置賜に至った突き当たり、そしてそこに祀られた神社が池黒皇大神社です。その由緒によれば、桓武天皇の延暦年中というので西暦800年の前後、坂上田村麻呂が温情をもって臨んだ奥州支配を目指す東征の際、兵を置いて城砦を築き、社を建立、祀り創められたので、古来坂の上のお神明さまと称されてきました。その皇大神社に保存されてきた棟札には、「応徳3(1086)年」と記されており、県内で最古とされ、南陽市の文化財に指定されています。ところが最近、米沢の歴史研究家清野春樹氏の著書で日本最古の棟札であることが指摘されています。公に日本で最古の棟札は岩手県中尊寺の保安三年(1122)とあり、それより36年も遡るというのです。さらにこの棟札で注目すべきなのは、建立に関わった者として、韓志和と三条宗近の名を読み取ることができることです。韓志和は平安京建設を統率した飛騨の匠であり、三条宗近は、その制作物がことごとく重要文化財級の刀鍛冶の名工です。ともに伝説的な二人です。なにゆえにこの地の棟札に二人の名が記されているのか。この棟札をめぐるロマンは限りなく広がります。市として今後何ができるか。ぜひその価値を明らかにしていただきたいと考えます。
 以上、よろしく御答弁のほど、お願い申し上げます。

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宮内まち歩き研修会 [地元の歴史]

まち歩き研修(山新2021.10.3).jpeg1週間前の日曜日(26日)、南陽えくぼの里案内人ふるさと南陽に学ぶ観光塾ということで宮内まち歩き研修会に講師として参加していいひと時を過ごすことができました。今朝の山新に載ってますので、当日用に作成した資料をアップしておきます。ほとんど宮内以外の方々なので、驚きかつ皇大神社2021.9.26.jpg喜んでいただきました。多勢丸中邸はもとより、池黒皇大神社も感激でした。当日用事があったはずの米山宮司が都合をつけて待っていてくださったのも実にありがたかった。退職されて宮司に専念されるようで、今後の皇大神社に注目です。→「日本最古の棟札(池黒皇大神社)」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-01-04 水園では須藤永次のすごさについて語らせていただきました。4時間で7キロの行程でした。

宮内まち歩き1.10.3).jpeg

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「宮内の歴史」から [地元の歴史]

昨日、地元の高齢者地域サロンで「宮内の歴史」について1時間語らせていただきました。「宮内の歴史」という指定なのでどこをどう切り取るかということで、「宮内の歴史から」にしました。江戸時代に入ったところで時間になったので、あとは次回ということになりました。以下、用意した資料です。

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宮内に流れる名家大江氏の血脈(南陽市民大学講座)(完) [地元の歴史]

◎おわりに
 大江氏:文治5年(1189)〜天授6年(1380) 191年間
 伊達氏:天授6年(1380)〜天正19年(1591) 211年間
 蒲生氏:天正19年(1591)〜慶長3年(1598) 7年間
 上杉氏:慶長3年(1598)〜
 
 名だたる日本の名家の血(文化遺伝子、ミーム)が流れ込む置賜のすごさをあらためて思わされます
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この資料をつくりながら、最後にこのことをどうしても言わなければならないと思いました。
34-「南陽の菊まつり」百年.独眼竜ポスター.jpg私にとって「伊達の発見」はほんとうに大きな出来事でした。地域の歴史への関心はそれによって火が点いたように思います。昭和62年のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」によって、置賜人の多くが、伊達政宗がこの地で生まれ、25歳になるまでこの地で過ごしたことをはじめて知ることになりました。それに先立つ数年前、当時校長を退職してまもない頃の小川弘先生(市民大学講座にいつも奥さんと一緒に参加され、この日もお出ででした。置賜民俗学会の副会長さんで、私も小川先生に誘われて入会しました)に、「なんで『ダデゴド』っていうか知ってるか。実は上杉が置賜に来て最初にやったのが、この土地から伊達の遺風を一掃することだったんだよ。それで伊達に関することはみんな悪いことにされて、『伊達事(ダデゴド)』(意に沿わなくて好ましくないこと)になったんだ」と教えられました。その頃私たちは、高畠町夏刈で代々酒蔵を続けてきたHさんとの交遊が始まっていました。Hさんから「上杉鷹山公が入部されて資福寺趾をご覧になり、その荒れように驚かれ『政宗公の御両親が眠る伊達百万石のかつての菩提寺がこのような有様なのが申し訳ない』ということで、私の先祖に墓守をするようにとの仰せがあった」という話を聞いており、小川先生の話は私の中で激しく反応することになりました。「置賜力」を考えるhttps://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-04-22/「新しい伊達氏の歴史エリア構築」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2013-09-04宮内熊野大社の位置の不思議https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-04-16) 置賜を見る視点が、吾妻の山裾の米沢から南に開ける高畠、南陽に移ったのです。米沢興譲中学校歌の「盆地米沢狭けれど」ではなく、宮内中学校旧校歌「南に開く国原」(結城哀草果作詞)になったのです。上杉感覚から伊達感覚へ、そのことで、暗かった置賜のイメージがガラリ明るくなりました。

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宮内に流れる名家大江氏の血脈(南陽市民大学講座)(4) [地元の歴史]

◎寒河江源兵衛(牛之助 ?−1626)
寒河江源兵衛 寛永三年.jpg 最上家の家臣(寒河江肥前の次男土佐)であったが、村山から大塚に移って伊達政宗に仕え、500石の知行を得ていた。政宗移封(1591)に際しては土佐病死、源兵衛幼少のためそのまま残り、長谷堂の戦い(1600)には上杉方で参戦。その後慶長14年(1609)から18年までかかって、添川地区の白川から大塚まで水を引く事業を担う(「大塚堀」)。『邑鑑』記載(1590年代)では2,029石の石高が、寛永15年(1638)の総検地では7,000石を超える。元和年中(1615−1624)には大塚堀から今泉村に分水、川西北部地区の開発に大きく貢献した。

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