宮内小創立150周年記念誌完成 [地元の歴史]


ご希望の方は、佐野書店からお求めいただけます。A4判フルカラー160頁1500円(送料500円)です。下記チラシご覧ください。
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一般質問(3)「鎌倉殿の13人」と南陽市 [地元の歴史]

・宮内熊野に探る「祭り」の意味https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2013-11-09
・小田仁二郎と宮内https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-10-26-1
・宮内、賑わいの記憶https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-11-14
・『南陽の菊まつり』百年https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-09-10
・製糸業隆盛の遺産-漆山多勢家を中心に-https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-08-26
・吉野石膏 須藤永次伝https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-08-24-1
・宮内に流れる名家大江氏の血脈https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-11-15
・北条郷郷村出役北村孫四郎に見る鷹山公改革の現場https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-11-23
(今年は「小田仁二郎の現在的意義を探る」と題して11月12日予定)
・小田仁二郎と宮内https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-10-26-1
・宮内、賑わいの記憶https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-11-14
・『南陽の菊まつり』百年https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-09-10
・製糸業隆盛の遺産-漆山多勢家を中心に-https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-08-26
・吉野石膏 須藤永次伝https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-08-24-1
・宮内に流れる名家大江氏の血脈https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-11-15
・北条郷郷村出役北村孫四郎に見る鷹山公改革の現場https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-11-23
(今年は「小田仁二郎の現在的意義を探る」と題して11月12日予定)
5年ぐらい前、寒河江のMさんの来訪で、置賜の寒河江家の源流が寒河江の大江家であることを知り、粡町で身近な「大江商事」さんがまさにその流れであることに驚き、「宮内よもやま歴史絵巻」で紹介した後、一昨年「宮内に流れる名家大江氏の血脈」と題して語った。ちょうどその折「鎌倉殿の13人」と題して大河ドラマになることを知った。今年の4月、いつものようにふらり立ち寄ったMさんと話していて、「鎌倉殿の13人」関連で一般質問で取り上げたいと思った。その時は観光関連でと思ったのだが、市民に知ってもらうことが先決と考えて市民大学に関連づけることにした。(寒河江の動きは山形新聞に掲載→「街中に「鎌倉殿」の大江広元 寒河江市内、ポスターなどお目見え2022/5/11 https://www.yamagata-np.jp/news/202205/11/kj_2022051100244.php)これがきっかけで何か動きが出てくればうれしい。
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「着目!池黒皇大神社」(芸文なんよう) [地元の歴史]
池黒皇大神社に関心が向いた出発点は、なんといっても清野春樹さんの『山形歴史探訪4 平清水・宮内・赤湯・上郷・長井の秘密』です。(→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-01-04)それに龍口神社、熊野大社の「龍穴」性(https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-10-18)と、「飛騨の匠」による宥明長南社を絡めました。
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着目!池黒皇大神社
はじめに
北に丘陵(玄武)、南に沃野(朱雀)、西に街道(白虎)、東に清流吉野川(青龍)、宮内は四神相応の地である。街道とは矢ノ目街道を指す。矢ノ目街道は、京から江戸、日光、会津を経て大峠を越え、米沢からこの地に至る街道の北端であり、池黒皇大神社はその終着点に位置する。『山形県神社誌』に 《桓武天皇の延暦年中坂上田村麻呂東征の際、屯軍の地として城砦を築き、社を建立、祀り創められたので、古来坂上神明と称する。》とある。坂上田村麻呂が置賜に足を踏み入れた文書記録はないが、長井の総宮神社、久保の桜、米沢の成島八幡など、置賜に伝えは多い。池黒皇大神社が「坂之上神明」とも言われてきたのは、高台に位置する故のみではなく、実際田村麻呂駐屯の証か。この古社に注目してみたい。
はじめに
北に丘陵(玄武)、南に沃野(朱雀)、西に街道(白虎)、東に清流吉野川(青龍)、宮内は四神相応の地である。街道とは矢ノ目街道を指す。矢ノ目街道は、京から江戸、日光、会津を経て大峠を越え、米沢からこの地に至る街道の北端であり、池黒皇大神社はその終着点に位置する。『山形県神社誌』に 《桓武天皇の延暦年中坂上田村麻呂東征の際、屯軍の地として城砦を築き、社を建立、祀り創められたので、古来坂上神明と称する。》とある。坂上田村麻呂が置賜に足を踏み入れた文書記録はないが、長井の総宮神社、久保の桜、米沢の成島八幡など、置賜に伝えは多い。池黒皇大神社が「坂之上神明」とも言われてきたのは、高台に位置する故のみではなく、実際田村麻呂駐屯の証か。この古社に注目してみたい。
水心子正秀のすごさ [地元の歴史]


水心子正秀については、2020年の市民大学で、山形考古学会会長の佐藤庄一さんがいい講義をしてくれ、それに触発されて記事にした。→「新々刀の巨匠 水心子正秀(南陽市民大学講座)」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-08-30-2
水心子正秀を「すごい」と思ったのは、苦労して身につけた技術を惜しげも無く弟子たちに伝えたことで、日本刀のすぐれた伝統が今に伝わることになったということだった。このことについては、2020年の12月議会の一般質問で、第6次南陽市総合計画基本構想に絡めて、「 オレがオレが」が本来なのではないという、南陽の風土の底流感覚を象徴する人物として、小田仁二郎、須藤永次とともに正秀を取り上げた。→「一般質問してきました」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-12-10
一般質問報告(3)北町遺跡と池黒皇大神社 [地元の歴史]
明るい話題に転じます。
2、南陽市における遺跡・文化財保護について
歴史への関心はアイデンティティ自己確認の基盤となります。南陽という場所がどういう歴史を重ねてきた土地なのか、そのことへの関心が未来への道筋を教えてくれます。その観点から質問します。
⑴北町遺跡について
北町遺跡については2年前の夏、1万2千年前縄文草創期の地層からマグロの骨が発見されたということで大きな話題になりました。大谷地にある低湿地遺跡であるため、普通なら腐ってしまう遺物が残っており、まさに縄文時代のタイムカプセルということでその後の調査研究の進展が期待されているところであります。次の3点についてお聞かせいただきたい。
①現段階での評価は。
②今後どう進めてゆくか。
③その場所は調査が終われば埋め戻され、知る人は多く有りません。今後市民への周知啓蒙をどう考えているか。
⑵池黒皇大神社「応徳3(1086)年棟札」について
「北に丘陵、南に沃野」、縄文の大昔からまことに住みよい南陽の場所でありました。今から55年前、当時の安孫子山形県知事から示された時には唐突に思えた「南陽」という名でしたが、今になってみれば見事にありがたい命名だったと感謝したいです。その南陽にあって宮内は、「北に丘陵、南に沃野」に加えて「東に清流吉野川、西に街道」という、古来都の条件とされる四神相応の条件を備えています。街道とは矢の目街道で遠く大和、京都から北を目指して江戸、日光、会津そして大峠を越えて置賜に至った突き当たり、そしてそこに祀られた神社が池黒皇大神社です。その由緒によれば、桓武天皇の延暦年中というので西暦800年の前後、坂上田村麻呂が温情をもって臨んだ奥州支配を目指す東征の際、兵を置いて城砦を築き、社を建立、祀り創められたので、古来坂の上のお神明さまと称されてきました。その皇大神社に保存されてきた棟札には、「応徳3(1086)年」と記されており、県内で最古とされ、南陽市の文化財に指定されています。ところが最近、米沢の歴史研究家清野春樹氏の著書で日本最古の棟札であることが指摘されています。公に日本で最古の棟札は岩手県中尊寺の保安三年(1122)とあり、それより36年も遡るというのです。さらにこの棟札で注目すべきなのは、建立に関わった者として、韓志和と三条宗近の名を読み取ることができることです。韓志和は平安京建設を統率した飛騨の匠であり、三条宗近は、その制作物がことごとく重要文化財級の刀鍛冶の名工です。ともに伝説的な二人です。なにゆえにこの地の棟札に二人の名が記されているのか。この棟札をめぐるロマンは限りなく広がります。市として今後何ができるか。ぜひその価値を明らかにしていただきたいと考えます。
以上、よろしく御答弁のほど、お願い申し上げます。
2、南陽市における遺跡・文化財保護について
歴史への関心はアイデンティティ自己確認の基盤となります。南陽という場所がどういう歴史を重ねてきた土地なのか、そのことへの関心が未来への道筋を教えてくれます。その観点から質問します。

北町遺跡については2年前の夏、1万2千年前縄文草創期の地層からマグロの骨が発見されたということで大きな話題になりました。大谷地にある低湿地遺跡であるため、普通なら腐ってしまう遺物が残っており、まさに縄文時代のタイムカプセルということでその後の調査研究の進展が期待されているところであります。次の3点についてお聞かせいただきたい。
①現段階での評価は。
②今後どう進めてゆくか。
③その場所は調査が終われば埋め戻され、知る人は多く有りません。今後市民への周知啓蒙をどう考えているか。

「北に丘陵、南に沃野」、縄文の大昔からまことに住みよい南陽の場所でありました。今から55年前、当時の安孫子山形県知事から示された時には唐突に思えた「南陽」という名でしたが、今になってみれば見事にありがたい命名だったと感謝したいです。その南陽にあって宮内は、「北に丘陵、南に沃野」に加えて「東に清流吉野川、西に街道」という、古来都の条件とされる四神相応の条件を備えています。街道とは矢の目街道で遠く大和、京都から北を目指して江戸、日光、会津そして大峠を越えて置賜に至った突き当たり、そしてそこに祀られた神社が池黒皇大神社です。その由緒によれば、桓武天皇の延暦年中というので西暦800年の前後、坂上田村麻呂が温情をもって臨んだ奥州支配を目指す東征の際、兵を置いて城砦を築き、社を建立、祀り創められたので、古来坂の上のお神明さまと称されてきました。その皇大神社に保存されてきた棟札には、「応徳3(1086)年」と記されており、県内で最古とされ、南陽市の文化財に指定されています。ところが最近、米沢の歴史研究家清野春樹氏の著書で日本最古の棟札であることが指摘されています。公に日本で最古の棟札は岩手県中尊寺の保安三年(1122)とあり、それより36年も遡るというのです。さらにこの棟札で注目すべきなのは、建立に関わった者として、韓志和と三条宗近の名を読み取ることができることです。韓志和は平安京建設を統率した飛騨の匠であり、三条宗近は、その制作物がことごとく重要文化財級の刀鍛冶の名工です。ともに伝説的な二人です。なにゆえにこの地の棟札に二人の名が記されているのか。この棟札をめぐるロマンは限りなく広がります。市として今後何ができるか。ぜひその価値を明らかにしていただきたいと考えます。
以上、よろしく御答弁のほど、お願い申し上げます。
宮内まち歩き研修会 [地元の歴史]


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「宮内の歴史」から [地元の歴史]
昨日、地元の高齢者地域サロンで「宮内の歴史」について1時間語らせていただきました。「宮内の歴史」という指定なのでどこをどう切り取るかということで、「宮内の歴史から」にしました。江戸時代に入ったところで時間になったので、あとは次回ということになりました。以下、用意した資料です。
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宮内に流れる名家大江氏の血脈(南陽市民大学講座)(完) [地元の歴史]
◎おわりに
大江氏:文治5年(1189)〜天授6年(1380) 191年間
伊達氏:天授6年(1380)〜天正19年(1591) 211年間
蒲生氏:天正19年(1591)〜慶長3年(1598) 7年間
上杉氏:慶長3年(1598)〜
名だたる日本の名家の血(文化遺伝子、ミーム)が流れ込む置賜のすごさをあらためて思わされます
大江氏:文治5年(1189)〜天授6年(1380) 191年間
伊達氏:天授6年(1380)〜天正19年(1591) 211年間
蒲生氏:天正19年(1591)〜慶長3年(1598) 7年間
上杉氏:慶長3年(1598)〜
名だたる日本の名家の血(文化遺伝子、ミーム)が流れ込む置賜のすごさをあらためて思わされます
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この資料をつくりながら、最後にこのことをどうしても言わなければならないと思いました。
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宮内に流れる名家大江氏の血脈(南陽市民大学講座)(4) [地元の歴史]
宮内に流れる名家大江氏の血脈(南陽市民大学講座)(3) [地元の歴史]
大江広元には6人の息子がいますが、そのうちの3人についてです。このほかの三男宗元は「那波氏」、五男忠成は「海東氏」を名乗り、六男重清は寒河江慈恩寺の別当職になったと伝えられます。
◎大江親広(ちかひろ ?−1242)
広元の長男。母は多田仁綱(のりつな ?−1234)の娘。妻は北条義時の娘竹殿。
建久3年(1192)寒河江庄の地頭となるも、幕府の重鎮で鎌倉の地を離れることができないので、広元の妻の父(親広の外祖父)多田仁綱に任せる。父が幕府の実力者であったことから実朝に寺社奉行として重用され、北条氏からも執権義時の娘婿として厚い信任を受ける。承久元年(1219)実朝暗殺の際近習として側におり、翌日出家。その後京都守護として京へ。承久3年(1221)の承久の乱では後鳥羽天皇の官軍側に与して、親兄弟の幕府軍と戦う。
〇承久の乱
朝廷が戦いに挑んで敗れた唯一の戦い。後鳥羽上皇が実朝暗殺で混乱する鎌倉幕府を討つべく義時討伐の宣旨。迎え撃つ幕府は、大江広元建言の積極攻撃策によって勝利。北条政子による御家人団結の大演説の逸話が残る。以後、建武の新政(1333〜1336)の一時期を挟んで明治維新まで武士の時代が650年間続く。
上皇軍惨敗の後は行方をくらましたが、祖父の多田仁綱が代官を務める出羽国寒河江荘に隠棲。嘉禄元年(1225)父広元に逝去すると、息子佐房に使いを送り阿弥陀如来の尊像を彫刻させ、胎内に広元の遺骨を納めて出羽国寒河江荘吉川(西川町)の阿弥陀堂に安置した。貞永元年(1232)、北条泰時による「貞永式目」発布によって、親広正式に無罪となる。仁治2年(1241)に親広が亡くなると、自身も阿弥陀堂の傍らに葬られたという。

建久3年(1192)寒河江庄の地頭となるも、幕府の重鎮で鎌倉の地を離れることができないので、広元の妻の父(親広の外祖父)多田仁綱に任せる。父が幕府の実力者であったことから実朝に寺社奉行として重用され、北条氏からも執権義時の娘婿として厚い信任を受ける。承久元年(1219)実朝暗殺の際近習として側におり、翌日出家。その後京都守護として京へ。承久3年(1221)の承久の乱では後鳥羽天皇の官軍側に与して、親兄弟の幕府軍と戦う。
〇承久の乱
朝廷が戦いに挑んで敗れた唯一の戦い。後鳥羽上皇が実朝暗殺で混乱する鎌倉幕府を討つべく義時討伐の宣旨。迎え撃つ幕府は、大江広元建言の積極攻撃策によって勝利。北条政子による御家人団結の大演説の逸話が残る。以後、建武の新政(1333〜1336)の一時期を挟んで明治維新まで武士の時代が650年間続く。
