「小田仁二郎特別展」73名芳名簿記載に感謝 [小田仁二郎]


一人娘の金沢道子さんから承諾を得ている『にせあぽりや』の復刻をはやく実現したいと思います。下準備として、5年ぐらいになる家内との声を出して読む読書(https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-06-07)、『源氏物語』を中断して「にせあぽりや」を読み終え、いま「触手」を読んでいます。以前一通りは読んでいるのですが、声を出して読むことで味わいが違います。ただし、「触手」は夫婦だから一緒に読めるので、親子や友達同士で読める本ではありません。なので「触手」の復刻は、私は考えていません。
「にせあぽりや」に描かれる宮内の情景はほんとうに生々しく感じられます。宮内生まれの私の義弟がそうですが、大学から東京に出て以来宮内に戻って暮らしたことがないのに、宮内の昔ながらの方言をわれわれ以上によく話せます。「宮内文化史資料」に貴重な多くの文章を寄せている三須良助氏もそうです。関東圏でサラリーマン生活しながら子供の頃を思い起こして書かれたものがかなりの分量あります。その一部、宮内の七夕についての文章を読み取ったことがあります→https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2013-12-10-1 全部ガリ版刷りです。 いずれ全文を復刻したい。小田仁二郎も故郷にはほとんど帰ることはなかったらしいです。それがかえって昔のままの記憶が生々しく表現できることになったのだと思われます。
もうひとつ、「触手」を読みながら思いおこしているのが、吉本隆明の「固有時との対話」です。自己の立脚点を見つけ出すことの意味です。「にせあぽりや」と「触手」に感じる落差を思いながら、そのへん見極めることができればと思っています。漠然としていますが、とりあえずそう言っておきます。小田仁二郎にいま蘇ってもらわねばならない意味につながるはずです。世の中全体コロナ禍に翻弄されっぱなしの今だからこそ、戦時中の苦悶を通して生み出された「にせあぽりあ」であり「触手」であったことを思わねばなりません。今に重なります。
コメント 0