吟行「宮内から斎藤茂吉を想う」 [詩吟]


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◎熊野大社境内 黒江太郎歌碑
宮内の歯科医黒江太郎との縁で、斎藤茂吉は宮内を二度訪れています。黒江は若い時から深く茂吉に傾倒し、茂吉の最初の歌集「赤光」の832首をすべて暗記したほどでした。黒江はまた北野猛宮司と心を合わせて熊野大社について研究し、「宮内熊野大社史」を残しています。その研究のレベルはいずれも群を抜き、宮内の文化レベル向上に果たした役割は計り知れません。ガリ版刷りの「宮内文化史資料」全30集は、黒江先生なしでは果たし得なかった大事業で、宮内文化を知る上での宝の山です。
斎藤茂吉を宮内に結びつけてくれた黒江太郎を偲び、「しずかなる」を鹿又源岳、菅野俊岳、青木新風が詠じます。

斎藤茂吉を宮内に結びつけてくれた黒江太郎を偲び、「しずかなる」を鹿又源岳、菅野俊岳、青木新風が詠じます。
しづかなる日のさす苔にうづまりて 平たき石は朝より乾く


《先生は目をつむって、「いい歌作ったす。・・・・・こんな歌も作った。『少年の心は清く何事もいやいやながら為ることぞなき』、何事もだぞ。『いやいやながら』はいいだろう。こんなあたりまへの事だって、苦労して苦労して作ったものだ。苦労した歌はいい。」と仰言った。「おれは天下の茂吉だからな。」、先生は一段と身をそらして、恰(あたか)も殿さまのやうに両肱(ひじ)を左右に張って見得をきった。》
茂吉が28歳下の黒江にすっかり心を許していた様子がしのばれます。
茂吉が自慢した少年の心を思う歌を、宮内岳鷹会の全員で詠じます。
少年の心は清く何事もいやいやながら為ることぞなき
◎鳥上坂

茂吉は、昭和22年5月御殿守に宿泊、葡萄酒に酔った茂吉が錦三郎先生の求めに応じ、連作の葡萄の歌五首の中からこの歌を選んで色紙に揮毫ました。「官能的な歌だ」と自ら評したそうです。菅野香岳、高橋桐岳が詠じます。
をとめ等が唇をもてつつましく押しつつ食はむ葡萄ぞこれは
◎金瓶生家
斎藤茂吉は、明治15年(1882年)、ここ南村山郡金瓶村に守屋伝右衛門熊次郎の三男として誕生しました。15歳の時に、東京の医師斎藤紀一の養子として引き取られました。養父斎藤紀一は医師で、斎藤茂吉も医師になるべく勉学に励み、東京帝国大学医科大学を卒業、大学助手として研究を続けつつも、病院勤務も行っていましたが、大正2年(1913年)、山形の実家の生母危篤の報を受け、急ぎ帰郷します。
連作「死にたまふ母」は、帰郷後の母との最期の時間、葬送、喪失の哀しみを詠んだ59首に及ぶ連作短歌です。この歌は、連作「死にたまふ母」の3首目にあたり、母危篤の報を受け、故郷山形へと急ぐ様子を詠んだ歌です。髙橋紫風、山田凛山が詠じます。
みちのくの母の命を一目見ん一目見んとてただにいそげる

連作「死にたまふ母」は、帰郷後の母との最期の時間、葬送、喪失の哀しみを詠んだ59首に及ぶ連作短歌です。この歌は、連作「死にたまふ母」の3首目にあたり、母危篤の報を受け、故郷山形へと急ぐ様子を詠んだ歌です。髙橋紫風、山田凛山が詠じます。
みちのくの母の命を一目見ん一目見んとてただにいそげる
◎宝泉寺
茂吉は、この菩提寺宝泉寺の住職佐原窿応を尊敬し、その幼少期大いに感化を受けました。窿応和尚については、黒江太郎によるすぐれた研究書があり、窿応和尚あっての斎藤茂吉だったことがわかります。
窿応和尚の墓にならんで、茂吉の分骨が納められた墓が建っています。墓碑銘の「茂吉之墓」の裏面に「赤光院仁譽遊阿暁寂清居士」の法名が刻まれ、後ろには生前自ら植えたアララギの木の枝が茂ります。
連作「死にたまふ母」を含む斎藤茂吉の処女歌集『赤光』は、多くの人の胸を打ち、当時の歌壇に大きな話題と新しい風をもたらしたのでした。「赤」は斎藤茂吉にとっては仏の導きや仏の救いを表す色でもあったのです。斎藤茂吉は「のど赤き玄鳥」を死にゆく母を導く仏の使いとみなしたのかもしれません。橋本櫻岳、今野儀風が詠じます。
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて
足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり

窿応和尚の墓にならんで、茂吉の分骨が納められた墓が建っています。墓碑銘の「茂吉之墓」の裏面に「赤光院仁譽遊阿暁寂清居士」の法名が刻まれ、後ろには生前自ら植えたアララギの木の枝が茂ります。
連作「死にたまふ母」を含む斎藤茂吉の処女歌集『赤光』は、多くの人の胸を打ち、当時の歌壇に大きな話題と新しい風をもたらしたのでした。「赤」は斎藤茂吉にとっては仏の導きや仏の救いを表す色でもあったのです。斎藤茂吉は「のど赤き玄鳥」を死にゆく母を導く仏の使いとみなしたのかもしれません。橋本櫻岳、今野儀風が詠じます。
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて
足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり
◎斎藤茂吉記念館
この記念館は、昭和43年に開館しました。東に蔵王連峰を仰ぎ、四季折々の景色と凛とした静寂に包まれるこの場所はかつて明治天皇も東北巡幸の際に休憩されたことから「みゆき公園」とよばれます。戦時中金瓶に疎開していた茂吉もよく足をはこび、しずかな時を過ごしたといわれます。
蔵王熊野岳山頂に、茂吉生前に建てられた唯一の歌碑が建っています。いちばん下の弟の「蔵王山頂に歌碑を建てたい」との強い願いに、最初は流行に乗るのは嫌だと拒絶していた茂吉もついに根負けして作った歌を刻みました。昭和9年に建立されてその5年後後茂吉自身山頂に登ってこの歌碑を確認しています。「雲の中に立つ」のは蔵王の山か、作者自身か、という議論があるようですが、「歌碑が立つ」と考えるのが茂吉の気持ちに叶っているようにも思えます。鹿又源岳、高岡亮岳が詠じます。
陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ


陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ

大石田町での斎藤茂吉の生活を支えたのは、弟子の板垣家子夫(金子阿岐夫先生の父)でした。板垣家子夫は、『斎藤茂吉随行記』にこう書いています。
《昭和二十一年二月下旬のある激しく吹雪く日の午後、茂吉が疎開先の大石田で最上川にかかる橋を弟子の結城哀草果、板垣家子夫らと渡ったときである。
最上川には鳥海山おろしの強い北風が吹きつけ、川面に白波が立っていた。家子夫はこれを見て、何気なく言った。
「先生、今日は最上川に逆波が立ってえんざいっス」
茂吉はこれを聞くと思わず歩みをとめ、家子夫の腕を引っ張るようにして言った。
「君、今何と言った」
「はあ、今言ったながっす。はいっつぁ最上川さ、逆波立っているつて言ったなだっす」
茂吉はにらむようにして、強く言った。
「君はそれだからいけない。君には言葉を大切にしろと今まで何度も語ったはずだ。君はどうも無造作過ぎる。そうした境地の逆波という言葉は君だけのものだ・・・・・ 大切な言葉はしまっておいて、決して人に語るべきものではないす」》
この板垣家子夫の記録から、「逆白波」という言葉は板垣家子夫の何気なく発した言葉から生まれた言葉とも言われています。大宮優岳、安彦岳悠、海老名海岳が詠じます。
最上川逆白波のたつまでにふぶくゆうふべとなりにけるかも
「宮内から斎藤茂吉を想う」吟行の旅、最後は昭和天皇の御製による県民歌「最上川」を全員で歌って締めたいと思います。鹿又源岳のハーモニカに合わせて歌います。
広き野をながれゆけども最上川
うみに入るまでにごらざりけり
にごらざりけり
うみに入るまでにごらざりけり
にごらざりけり
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