小田仁二郎コーナー充実(宮内文化史展) [小田仁二郎]
宮内公民館で開催中の「宮内文化史展」、先日山形新聞で紹介されたことで、他市町からも足を運んでいただいています。そんな中、小田仁二郎コーナーへの要望ありましたので充実を図ってきたところです。じっくりご覧ください。
・『月刊 素晴らしい山形』小田仁二郎特集(1992.8)
・私を「小説家にした」異彩 ー前衛ゆえに不遇ー 瀬戸内寂聴
・わが内なる小田仁二郎 大竹俊雄
・幻の小田仁二郎 宮内の一隅より 井上宏子
・追憶 黒江二郎
・遠い記憶 牧野房
・宮内人・小田仁二郎 はぐらめい
・父の影 金澤道子
・私を「小説家にした」異彩 ー前衛ゆえに不遇ー 瀬戸内寂聴
・わが内なる小田仁二郎 大竹俊雄
・幻の小田仁二郎 宮内の一隅より 井上宏子
・追憶 黒江二郎
・遠い記憶 牧野房
・宮内人・小田仁二郎 はぐらめい
・父の影 金澤道子
* * * * *
私を「小説家にした」異才 ー前衛ゆえに不遇ー 瀬戸内寂聴 (『素晴らしい山形』より)
山形県南陽市宮内の町の文化会館の前庭に、道路に面して十月二十八日、一つの文学碑が建った。
小田仁二郎のもので、小田仁二郎は明治四十三年十二月八日、この小さな雪国の町の開業医の二男として生れている。
山形といえば、すぐ斎藤茂吉という偉大な文学者のことを思い浮べるが、小田仁二郎は、故郷の人々でさえ、その名や業績についてほとんど知らない孤独な作家であった。
しかし彼の数少い作品の中でも「触手」という小説は「真善美社」から、野間宏の「顔の中の赤い月」、埴谷雄高の「死霊」、中村真一郎「死の影の下に」、島尾敏雄「単独旅行者」、安部公房「終りし道の標べに」等と共に、 アプレゲール叢書の一巻として出版された話題になった本であった。
戦後文学の中で、この叢書は輝かしい光芒を放って、新しい前衛文学の方向付けを示し、 小田仁二郎は「触手」によって前衛文学の旗手としてその前途を期待されたのであった。
当時、新進気鋭の評論家だった福田恆存氏は「触手」の新しさをいち早く認め、「触手」は世界の文学の新しい方向を指し示す前衛文学であるが故に、日本の文壇ではむしろ孤立し受け入れられ難いだろうと見抜かれた。
そしてその後の小田仁二郎の文学的運命はその予言通りになっていった。
芥川賞の候補に二度なったが受賞にはならなかった。 私が丹羽文雄氏主宰の「文学者」で彼と知り合った時は、文学者の同人の中では指導的立場にはいたが、独り、畏敬されながら、何となく異質の雰囲気の作家として、同年代の仲間からも敬して遠ざけられているという様子が濃く感じられた。
私は全く一作も書いていない癖に、小説家を志し、家庭を捨てて上京した頃で、「文学者」に入れてもらい、作品も書かず、ただ毎月十五日に開かれる批評会に出席だけしていた。はじめて書いた小説を小田仁二郎に見てもらったのがきっかけになり、私は八年間ほど、小田仁二郎と深い関わりを持ち、文学についてすべてのことを教えてもらった。もし、あの頃、小田仁二郎に出逢わなければ、私は小説家となっていなかっただろうし、万一なれても、全くちがったものになっていただろうと思う。私は文学に対して高い憧憬を改めて小田仁二郎から教えられ、彼の孤独な闘いから、その道を選ぶ者の悲惨さを目撃した。
小田仁二郎が舌ガンで死亡して今年は十三回忌に当る。彼の郷里の小学校の同級生の吉田誠一さんが石屋さんで、小田仁二郎の文学碑を建てようと、石を長い間あたためていられた。小学、中学を通じての文学の友人だった大竹俊雄さんが吉田さんに協力して、今度の文学碑建立の運びになったのであった。
小田仁二郎は死の前、人知れずすべての自分に関する著書も原稿も写真さえ焼きつくしていた。そういう彼が自分の文学碑を見て、どんな照れ臭い困った表情をしているか思い浮ぶが、私は唯一残っていた晩年のたったひとつの原稿から「触手」の冒頭の文章を拾字して碑面の文として選んだ。
「私の、十本の指、その腹、どの指のはらにも、それぞれちがう紋々が、うずまき・・・・・・」
と、一字一字拾いだしながら夜を徹したのであった。
除幕式は快晴で、遺児金沢道子さんが幕を引いた。彼の生家はすでに人手に渡っているが、小学校はすぐ碑の前にあった。二人の心優しい友はもう八十歳になっていた。私は「おらが町の仁チャはこんなにえらかったんだぞ」と印象づけるような講演をした。
(1991.11.10東京新聞「寂庵こよみ」 転載)
小田仁二郎のもので、小田仁二郎は明治四十三年十二月八日、この小さな雪国の町の開業医の二男として生れている。
山形といえば、すぐ斎藤茂吉という偉大な文学者のことを思い浮べるが、小田仁二郎は、故郷の人々でさえ、その名や業績についてほとんど知らない孤独な作家であった。
しかし彼の数少い作品の中でも「触手」という小説は「真善美社」から、野間宏の「顔の中の赤い月」、埴谷雄高の「死霊」、中村真一郎「死の影の下に」、島尾敏雄「単独旅行者」、安部公房「終りし道の標べに」等と共に、 アプレゲール叢書の一巻として出版された話題になった本であった。
戦後文学の中で、この叢書は輝かしい光芒を放って、新しい前衛文学の方向付けを示し、 小田仁二郎は「触手」によって前衛文学の旗手としてその前途を期待されたのであった。
当時、新進気鋭の評論家だった福田恆存氏は「触手」の新しさをいち早く認め、「触手」は世界の文学の新しい方向を指し示す前衛文学であるが故に、日本の文壇ではむしろ孤立し受け入れられ難いだろうと見抜かれた。
そしてその後の小田仁二郎の文学的運命はその予言通りになっていった。
芥川賞の候補に二度なったが受賞にはならなかった。 私が丹羽文雄氏主宰の「文学者」で彼と知り合った時は、文学者の同人の中では指導的立場にはいたが、独り、畏敬されながら、何となく異質の雰囲気の作家として、同年代の仲間からも敬して遠ざけられているという様子が濃く感じられた。
私は全く一作も書いていない癖に、小説家を志し、家庭を捨てて上京した頃で、「文学者」に入れてもらい、作品も書かず、ただ毎月十五日に開かれる批評会に出席だけしていた。はじめて書いた小説を小田仁二郎に見てもらったのがきっかけになり、私は八年間ほど、小田仁二郎と深い関わりを持ち、文学についてすべてのことを教えてもらった。もし、あの頃、小田仁二郎に出逢わなければ、私は小説家となっていなかっただろうし、万一なれても、全くちがったものになっていただろうと思う。私は文学に対して高い憧憬を改めて小田仁二郎から教えられ、彼の孤独な闘いから、その道を選ぶ者の悲惨さを目撃した。
小田仁二郎が舌ガンで死亡して今年は十三回忌に当る。彼の郷里の小学校の同級生の吉田誠一さんが石屋さんで、小田仁二郎の文学碑を建てようと、石を長い間あたためていられた。小学、中学を通じての文学の友人だった大竹俊雄さんが吉田さんに協力して、今度の文学碑建立の運びになったのであった。
小田仁二郎は死の前、人知れずすべての自分に関する著書も原稿も写真さえ焼きつくしていた。そういう彼が自分の文学碑を見て、どんな照れ臭い困った表情をしているか思い浮ぶが、私は唯一残っていた晩年のたったひとつの原稿から「触手」の冒頭の文章を拾字して碑面の文として選んだ。
「私の、十本の指、その腹、どの指のはらにも、それぞれちがう紋々が、うずまき・・・・・・」
と、一字一字拾いだしながら夜を徹したのであった。
除幕式は快晴で、遺児金沢道子さんが幕を引いた。彼の生家はすでに人手に渡っているが、小学校はすぐ碑の前にあった。二人の心優しい友はもう八十歳になっていた。私は「おらが町の仁チャはこんなにえらかったんだぞ」と印象づけるような講演をした。
(1991.11.10東京新聞「寂庵こよみ」 転載)
コメント 0