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新・mespesadoさん講義(116)「腑に落ちる」と「悟り」 [mespesado理論]

私はいつもmespesadoさんの「唯物的な説明」を「腑に落として」理解しているつもりですが、suyapさんが新たな視点を提示されてきました。(129《実は今みたいにスピとか流行るよりずっと前、遠い昔のまだ若かりし頃、毎週末鎌倉の禅寺に泊まりこんでみたり、まだ日本ではほとんど注目されていなかったマクロビオティックにのめり込んでみたりしてました。両方とも永久に中途半端のままですけど、私の思考のベースはそこら辺から成り立っているように思えます。/たとえば、所詮唯物的な「言葉」では、ほんとうの真理というか、今風にいうとスピリチャルな世界は表せない、嘘になる...という感覚も体の底からしみ込んでいます。でも肉体を持って三次元の世界に生きて人間やっている以上、なんとか言葉を操ってコミュニケートするわけですけど、その限界をいつもわきまえて言葉という道具を使いこなす必要があるなと。》suyapさんが「言葉の限界を超えた先にあるもの」としてみている世界は「悟り」です。じっくり読んでみたい、いいサイトを紹介してくれています。→129
「悟り」について過去に書いた記事を思い出しました。→「最も深い「吉本隆明論」(若松英輔さん)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-08-23 若松英輔氏吉本隆明と交わした対話について述べた文章です。《「あなたは、老いと悟りの問題をどう考えますか。悟りというものはあるのでしょうか。」こう述べた後、こちらがどんな人間か自己紹介をする間もなく、吉本さんは、十分間ほど自分の考えを述べ続けた。自分も知っている、ある高齢の、高僧と言われた人が自殺した。宗教的な悟りと言われているものは、じつは人間を根源から幸福にするものではないのではないか。それは、人生の秘密を告げ知らせるものではないのではないか、というのである。さらに彼は、悟りとよばれる現象はあるにしても、それは生きるということにおいてはほとんど意味を持たないのではないか、とも言った。その語り口は、何か身に迫るものを感じさせた。この問いを見極めることに人生の大事がある、という風にすら映った。/語られたことは、それを話す吉本さんの必死の姿ゆえに今も鮮明に記憶されている。その姿からは、悟りとは、山の頂上に登るような到達の経歴ではなく、どうにか生き抜こうとする持続ではないかと問う声が響いてくるようでもあった。概念として「悟り」が語られ、それを目指すという営みが起こるとき、人はかえって真に悟りと呼ぶべきものから遠ざかる、というのだろう。》私はこれを吉本隆明と若松英輔という希有な出会いが、「悟り」というものをあっけなく相対化してしまうという歴史的文章》と評価しています。suyapさんの文章で思ったのは、「人はなぜ「悟り」を求めるのだろうか」ということです。自分の中にその必然があるとしたらどこにあるのだろうか、と思い始めているところです。
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