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「最後の指揮官命令は島民の虐殺だった」(元日本軍兵士の手記) [本]

参戦記.jpg日本軍が何をやってきたか、戦争の実相を伝える辛い記事を読んだ。思えば「新しい歴史教科書をつくる会」もそうであったが、必要以上に日本を貶める”自虐史観”に対する反動は、”日本軍美化”へとも流れかねなかった。自分自身省みてそう思う。しかし、コロナ禍によって、「戦時下における日本」がどういうものであったかを、地続きの感覚をもって体験させられている。そういう中で出会った今日の記事、他人事でなく読まされた。

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『テクノロジーが予測する未来』(伊藤穰一) [本]

テクノロジーが予測する未来.jpg伊藤穰一著『テクノロジーが予測する未来ーweb3、メタバース、NFTで世界はこうなる (SB新書) を読んだ。「web3」「メタバース」「NFT」「トークン」「イーサリアム」「DAO」「DeFi」・・・、その実体そのものについては全くわからないのだが、読み進めるうちに、たしかに何か新しいことが始まりつつあるにちがいないと思えてくる。《何がどうなるかを決めるのは、テクノロジーそのものではありません。僕らがweb3のテクノロジーを使って、どのような社会をつくっていきたいか。どんなゴール設定をして、来たるweb3時代を生きていくのか。それが、いま、問われています。》(53p)《web3はある意味、1960年〜70年代、アメリカでヒッピー文化が盛り上がった頃の雰囲気に似ています。》(57p)

パソコンを通して外の世界とつながったweb1の時代、ネットを介しての相互交流が自由になったweb2の時代、そしてweb3は、分散型、参加型となって、これまでに考えられなかったコミュニテイが形成されてきそうな感じ。そのコミュニティにおいては、「何ものにも抑圧されることのなく、人間本然に根ざした、より自由で、よりフェアな関係性」が実現される、そんな方向性をおぼろげながら感じさせてくれる。《よい目的を持つ人がテクノロジーを使えば、よい方向に社会は動いていくと述べましたが、実際、web3には社会をよりよくしたいと願う人たちが集まってきている雰囲気を感じます。分散型(非中央集権型)で民主的という、そもそものweb3の性質がそうさせているのでしょう。》(187p)だとしたらうれしい。

最後はこう締められる。《これから日本が行なっていくべき変革とは、ドメスティックなものを、ただデジタル化するだけでなく、デジタル化を通じてグローバルな存在へと変えていくことだと思います。これを大きな目標とし、世界に照準を定めたゴール設定をすることが、日本再生の道を開く唯一の鍵だと考えます。》(223p)

さて、自分自身これからその世界にどう参入していけばいいのか・・・そのインセンティブを与えてくれるくれる手引書としておすすめです。

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米沢藩士・宇加地新八 [本]

「東洋経済」最新号の書評『忘れられた日本憲法——私擬憲法から見る幕末明治が取り上げられ、米沢藩士・宇加地新八を知った。検索して著者の畑中章宏氏によるブログ記事を見つけた。→https://www.akishobo.com/akichi/hatanaka/v2 最後にこうあった。選挙権は「すべての天下百姓」、つまり全国民に与えられる。そして、それこそが「民選議院」と呼ばれるゆえんなのであると宇加地はいった。戊辰戦争を乗り越え、優れた英語教育とおそらくは欧米の政治事情を学んだ宇加地の建白書は、その後の私擬憲法と比べても先進的なものだったのである。/ 宇加地はその後、西南戦争に従軍し、米沢・置賜地方の出身者の親睦団体に名を連ねているものの、詳しい生涯は明らかではない。あくまでも想像にすぎないが、宇加地新八と同じような憲法構想を練っていた人物が、ほかにもいたのでないだろうか。》宮島誠一郎を思わないわけにはいかない。→「「置賜発アジア主義」(7)宮島誠一郎と雲井龍雄」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-02-21-1 その精神をたどれば、おのずと鷹山公へと遡る。
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『日本をこう変える 世界を導く「課題解決型国家」の創り方』 [本]

日本をこう変える.jpg松田学氏の『日本をこう変える 世界を導く「課題解決型国家」の創り方』(方丈社 2022.3)、アマゾンにレビューしてきました。

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これから日本の指針の書

この著を読んだことで、参政党がキワモノ政党ではないことを確信した。紆余曲折はあろうが、現在の政治家をふるいにかけつつ、これから日本政治の主流となって成長してゆくに違いない。
読み通した者にとって、「おわりに」での言葉は決して絵空事ではない。《日本が直面する危機を乗り越え、次の世代に誇れる日本を築いていくうえで最も大事なのは、一人ひとりの国民が直面する課題に当事者として向き合い、その解決に主体的に取り組んでいくことで、生きがいのある精神的にも豊かな人生を営んでいくことであると、私たちは考えています。》(309p)気づいた人一人ひとりが自ら判断し、そして身銭を切って政治に参加することでまともな日本を創ってゆく。7月6日時点で、党員数は8万人を超えたという。
今後改訂を加えながら、これから日本の指針として、教科書的役割を果たしてゆく著と思えた。

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『DSはウクライナ戦争を第3次世界大戦にする』を読む  [本]

副島 DSは第三次世界大戦にする.jpg『DSはウクライナ戦争を第3次世界大戦にする』を読んだ。時代が求めていた本だ。一気に読まされた。いち早い刊行を喜こびたい。
《今の天皇家は、昭和天皇裕仁が、ディープステイト(英と米)に騙されて、まんまと策に嵌まって、中国侵略をやらされた。(1931年9月16日の満州事変から)。さらに罠に落ちて、アジア侵略を行い、そして真珠湾攻撃までやらされた。(1941年12月8日)。そしてディープステイトの計画通りに英米を相手の戦争にまで引きずりこまれた。その前に、すでに中国戦線で10年の泥沼の戦争をしていたのだ。/日本は、英米とソビエト・中国の東西の2つの敵を作って挟み撃ちにあい、股裂き状態にされて、「北支と南方」の2つの戦線で多大の損害を出した。兵士だけで160万人、民間人200万人を入れて360万人の死者を出した。/そうやって昭和天皇を頭にしてディープステイトの術中に落ちた。だから、昭和天皇は、敗戦後は日本国憲法というアメリカが作った座敷牢に自ら入って、ひたすら、「もう騙されない。戦争はしない。象徴天皇制でいい」と堅く決意した。そして戦没者の供養のためにひたすら祈りを捧げる天皇家という自分たちの姿をはっきりさせた。この深い決意が、息子の明仁上皇・美智子上皇后、そして孫の今の徳仁天皇、雅子皇后、そしてその次の愛子天皇にまで、強い戒めとして、しっかりとつながっている。この「2度と騙されるな。平和憲法を守れ」という昭和天皇の遺訓を、私たちは何よりも大事にしないといけない。》(99-100p)
名著『神やぶれたまはず』(長谷川三千子氏著 2016)を思った。昭和208月のある一瞬―ほんの一瞬―日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコースト(供犠)のたきぎの上に横たはっていたのである。》とある。国民は、その一瞬が過ぎるや薪の上からたちまち降り立ち明日から生きてゆくための行動を開始した。薪の上に載った一瞬などその時だけの一瞬に過ぎかった。しかし、昭和天皇にとってはその後の生を通して背負い続けなければならなかった「永遠の一瞬」だった。今、新たな危機を前にして思う。あの一瞬は夢だったのか、はたまたあの一瞬を忘れて過ぎ去った77年の歳月が夢だったのか。
昭和天皇は、われわれにとってたちまち過ぎたあの一瞬を夢ではない現実として、薪の上から降り立つことのないまま昭和を生きて、平成の御代へとバトンを引き継がれていった。薪の上に在りつづけた昭和天皇のお姿こそが夢ではない現実ではなかったのか。国民も等しく、あの一瞬の現実に立ち還るべき時が迫っている、そう思わされる時代になった。そこからしか始まりようがないのだと、今回の副島著を読み終えてあらためて強く思う。(「『神やぶれたまはず』再々読(7)」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-05-17-5

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副島隆彦『有事の金。そして世界は大恐慌へ』 [本]


第4章「 世界史の軸が動いた」が白眉。《4月21日にあったG20の財務省・中央銀行総裁会議(議長国インドネシア。ワシントンで開催)で、ロシアの財務相と中銀総裁が登場した時、このうちのG7先進国のメンバーが一斉に抗議の退場をした。示し合わせた上での抗議のデモンストレイションだった。walk outと言う。ところが、G7のメンバーである日本の鈴木俊一財務相と黒田東彦日銀総裁は、立ち上がらなかった。そして会議室から出てゆくことをしなかった。他の13カ国の非白人の新興国と共にそこに残った。》(172p)《このG20財中会議で起きたことは日本の戦後史で、画期的なことである。この時ついに世界史の軸が動いたと言える。日本はアジア諸国の一国として新興国側に付いたのである。その前にインドネシアのジョコ・ウィドド大統領が議長国としての権限で「G20からロシアを排除(追放)することに反対する」と明確に意思表示していた。日本はついに動きだしたのである。英と米の意志(指図、命令)に公然と逆らうことを開始した。》(175p)そして言う。《このあと英と米が、日本の政治家たちをどのようにイジめに来るか、知らないが。来るなら来い。日本人の本来の、土性骨を見せてやる。いつまでも英と米に卑屈に土下座しているだけが日本人ではない。》(176p)一昨日の記事の、田中宇氏に通ずる。《コロナや温暖化といった超愚策関連でも、ドイツやEUは大間違いの都市閉鎖やワクチン強制や化石燃料廃止などをガンガン本気でやって自滅している。日本は「無能な小役人」をうまく演じ、ドイツに比べて超愚策を不真面目にしかやっていない。日本の方がましだ。ドイツなど欧州が困窮するのは自業自得だ。早く非米化した方が良い。 》https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-05-31-1

第5章「国債のデフォルトが怖ろしい」は、金融専門家村川達也氏にとのやりとり。肌理細かく説得力ある。《村川:国債金利が0.3%まで上がったら日銀はデフォルト(203p)。《副島:小室直樹先生が言ってきたとおり、NATOはもう潰れる。偉そうに30カ国までNATOを拡大してロシアの周辺を削りまくった。プーチンのロシア政府は、彼らを許さない。生半可な覚悟で帝国はできていません。/村川:仮面をかぶった列強政治が終わるわけですね。》(217P)《副島:中国は、国内の金融市場を1ヶ月止めてもなんともない。市場を止めて「売らせません」「買わせません」というのを平気でやる。それが「中国の特色ある社会主義経済」です。自由市場経済(これが資本主義)を標榜していない国家の強さです。・・・アメリカは今回、(ロシア財産の没収という形で)この手法に手を掛けてしまった。自分も独裁国家(統制国家)になった。/村川:マーケットがあってあたりまえということ自体が間違っている。すべては政治が決める。市場の存続を許すかも国家が決めるということですね。/副島:・・・マーケット原理とか言っているうちはだめだ。その外側がある、と分からないと。「預金封鎖」や「統制経済(配給制度)をする」とか、国家はいざとなったら平気でやります。》(221p)マドモアゼル・愛さんの見解https://ameblo.jp/mademoiselle-ai/entry-12741087930.htmlを思う。「時代の射程はここまで及ぶ!」と驚き、戦慄した。習近平対江沢民一派の最終決戦的な面がありはしないでしょうか。習近平が求めている中国は、アメリカDS勢力と組んで発展した江沢民一派が成すこれまでの中国とは違います。自立独立を強固にし、腐った経済勝組を犠牲を払ってでもつぶし、新しい中国を作ることを画策しているのかもしれないです。》https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-05-11-1) 時代は大きく動き出している。かつての常識は通用しない。

西側情報にどっぷり浸かった日本の経済人が、国際会議に出席して戸惑っている記事最後に載せておきます。

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『神やぶれたまはず』再々読(7) [本]

平成26(2014)年、『神やぶれたまはず』を読み終えてこう書いていた。https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-01-10#more

 

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昭和208月のある一瞬――ほんの一瞬――日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコースト(供犠)のたきぎの上に横たはっていたのである。》(p.282

 

国民は、その一瞬が過ぎるやたきぎの上からたちまち降り立ち明日から生きてゆくための行動を開始した。薪の上に載った一瞬などその時だけの一瞬に過ぎない。そんな記憶は時間と共にどんどん遠ざかってゆくだけだ。そうしてあっという間に68年が過ぎてしまった。

 

しかし、国民にとっては「ほんの一瞬」であった 「この一瞬」は、昭和天皇にとってはその後の生を通して背負い続けなければならなかった「永遠の一瞬」だった。

 

いまあらためてあの一瞬からいままでの時の流れをふりかえるとき、あの一瞬が夢だったのか、はたまたあの一瞬を忘れて過ぎ去った68年の時の流れが夢だったのか。長谷川氏の「神やぶれたまはず」を読んだいま、私には過ぎ去った68年の方が夢だったのかと思えてしまう。

 

昭和天皇はその間、われわれにとってたちまち過ぎたあの一瞬を夢ではない現実として、たきぎの上から降り立つことのないまま昭和を生きて、平成の御代へとバトンを引き継がれていったのではなかったか。薪の上に在りつづけた昭和天皇のお姿こそが夢ではない現実ではなかったのか。そのことを抉り出してみせてくれたのが、他ならぬ「神やぶれたまはず」であった。民よ、再び薪の上に戻れ。そこで「神人対晤」のかけがえのなさを知れ。確たる現実はそこからしか始まりようがない。さもなくば日本人の精神はとめどないメルトダウンに抗すべくもなし。あの一瞬に目を瞑っての日本再生は、かつて辿った道を遡る道に過ぎない。


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『神やぶれたまはず』を三度目読み終えての今の思いは、大すじ同じだ。ただ、「かつて辿った道を遡る道に過ぎない。」という言葉については、その意味するところは輻輳している。

あの敗北は、「最終戦争」を戦い得ての敗北だった。そうであってはじめての「その一瞬」であった。仮に今のまま西側陣営の一員として戦争に突っ込んでいくとして、その戦争は「使い走り戦争」以外の何ものでもない。「通常の歴史が人間の意識に実現された結果に重点を置くとすれば、実現されなかつた内面を、実現された結果とおなじ比重において描くといふ方法」が「精神史」の方法》と桶谷秀昭氏が言ったというが、語るに値する「内面」の持ち合わせなど皆無であり、それゆえ「精神史」など思うもおこがましい。跋扈するのは、利害打算のあさましさだけだ。

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『神やぶれたまはず』再々読(6)「イエスの死にあたる意味」 [本]

戦争末期の「”国体”護持の思想」について考える。そもそも”国体”観念は、西洋諸国侵略の危機に瀕した幕末に本格的に登場した。藤田東湖は言う、「蓋し蒼生安寧、是を以て宝祚窮りなく、宝祚窮りなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷・戎狄率服す。四者循環して一の如く各々相須(ま)つて美を済(な)す。」すなわち、《天皇が民を「おほみたから」として、その安寧をなによりも大切になさることが皇統の無窮の所以であり、だからこそ国体は尊厳である。そしてさういふ立派な国柄であればこそ、周辺諸国も自づからわが国につき従ふ。これらはすべて一つながりの循環をなしてわが国の美を実現してゐるのだ、といふことである。》「国体」とは、上からの愛民、下からの忠義といふ上下相互に交流するダイナミックなものであるがゆえに、「君民対立」が大前提の他国の政治思想とは根本において異なる。《かくして、大東亜戦争の末期、わが国の天皇は国民を救うふために命を投げ出す覚悟をかため、国民は戦ひ抜く覚悟を固めていた。》(p.242)すなはち、天皇は一刻も早い降伏を望まれる一方、国民にとっては、降伏はありえない選択であったのである。入江隆則『敗者の戦後』に曰く、《1945年の日本の戦略降伏のいちじるしい特徴は、天皇を護ることを唯一絶対の条件としたことだった。同時に天皇は国民を救ふために『自分はどうなってもいい』という決心をされていて、こんな降伏の仕方をした民族は世界の近代史のなかに存在しないばかりか、古代からの歴史のなかでもきわめて珍しい例ではないかと思う。」》いまや国土全体大量虐殺の場と化した現状から民を救うために命を投げ出すことを厭わぬ天皇と、天皇の命と引き換えに自分たちの命が助かるなどありえないと考える国民、「降伏することもしないこともできない」というジレンマである。著者(長谷川)は「美しいジレンマ」であると同時に「絶望的な怖ろしいジレンマ」であるという。戦後ズタズタにされてしまったが、日本とは本来そういう国であったのだ。国民の意識において、そこに立脚しているがゆえの、文字通り「最終戦争」であったのだ。

このジレンマから抜け出すにはどうするか。本来ダイナミックな「国体」を、「立憲民主制」という意味に矮小化して、そのことの維持を以って降伏の条件とするというのが、日本政府によってひねり出された「国体護持の思想」であった。《これは天皇陛下の切実なお気持ちからも、国民の決意からも遠くはなれた話になっている。・・・しかし、「国体」のジレンマによって、文字通り身動きのできない状態にある政府にとって、これは唯一の脱出口であつたに違ひない。》(248p)これは「ポツダム宣言」の示唆するところを日本政府なりに受けとめた結果でもあった。《彼らは、日本人がただ脅しつけられただけでひるむやうな民族ではないことをよく知つていた。と同時に、日本にはその国家の中核をなす価値といふものがあり、それが日本人全体のコンセンサスによつて支へられてゐるといふことも心得てゐた。したがつて、その価値が損なはれないといふことを明らかにした上で降伏を勧告するならば、どんなむごたらしい攻撃を加へるよりも速やかに、日本人の降伏を引き出すことができるーー「知日派」グループには、さういふ確信があつたことであらう。》(253p)それはしっかり「ポツダム宣言」の中に盛り込まれる。「前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ」。降伏後の日本の政治形態については日本国民の自由意志にまかせる、ということである。

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『神やぶれたまはず』再々読(5)「神人対晤の至高の瞬間」 [本]

『旧約聖書』創世記第22章、アブラハムは一人息子イサクを神の命のままに生贄に差し出す。殺そうとしたその時、神は、「汝の子、汝のひとり子をさへ、わたしのために惜しまないので、汝が神を恐れる者であることを私は知った。」の言葉とともに中止の命令が下る。著者(長谷川)は言う、《アブラハムはまさに「神人対晤の至高の瞬間」を目指して、三日間の旅路を一歩一歩たどってゐたのだ・・・ただ神に呼びかけられて、神と一対一で対面すべく、三日間の旅路をたどつたのである。・・・そのおともする者は誰しも「思想のわななき」を覚えずにはゐられないのである。/そこには間違ひなく、宗教の本質にひそむ「おののかせる秘儀」がかいま見えてゐる。》(219-220p)アブラハムは、ひたすらな「神への愛」を貫徹したはずだった。しかし土壇場で神の拒絶にあった。アブラハムは身代わりの羊を献げ、神からの祝福の言葉を受ける。

著者(長谷川)はその時のイサクを思う。《彼は、或る朝はやく、どこへ何しに行くのかもわからぬまゝに、父に連れられて旅に出る。・・・彼はなにかにつけて、いつのまにか受動的な役割へと押しやられ、それに甘んじる人物として描かれてゐる。・・・将来すべてのユダヤ民族の父となるべきこのイサクは、ただ、まるでデクノボーのやうにたきぎの上に載せられ、次にそこから降ろされるだけなのである。これはなんとも異様なことと言ふべきではなかろうか?・・・ここでは、もっとはるかに深刻な神学的問題を引き起こしてしまふ・・・つまり、自らの死を神に与へやうとしてゐる者にむかつては、神は中止命令を下してはならないのである。それは奉献そのものの拒絶を意味し、神と人との関係をそこで切断してしまふことにほかならない。》(225-231p)イサクの思いは、二・二六事件で散った神霊英霊たちの「たいへんな怒り」、また8月15日の放送を聞いての吉本隆明の「名状しがたい悲しみ」の慟哭そのものに通ずる。

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『神やぶれたまはず』再々読(4)「神風」 [本]

三島由紀夫。この第8章、著者の繊細かつ緻密な読み解きについてゆくのは難しいが、大筋を追ってみる。《「……たしかに、二・二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだのだった。当時11歳の少年であった私には、それはおぼろげに感じられただけだったが、20歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の怖ろしい残酷な実感が、11歳の少年時代に直感したものと、どこかで密接につながってゐるらしいのを感じた。」》(163p)

そこで二・二六事件『英霊の声』に則して、《「……すめろぎが神であらせられれば、あのやうに神々がねんごろに謀り玉ふた神人対晤の至高の瞬間を、成就せずにおすましになれる筈もなかつた」・・・この「神人対晤」といふ言葉が指し示してゐるのは、・・神が「死」を命じ、人がそれに従ひ。神がそれを受けとる、といふ形ーーそのものである。そしてこの形は、次章に見るとほり、まさしく神学の根底をなす究極の形とも言ふべきものなのである。・・・青年将校の神霊たちが、あれほどまでに激烈な慨きを見せるといふのも、単に自分たちの蹶起が失敗し、陛下にそれを叛乱と決めつけられたから、といつた現世的な理由によるのではない。それはまさに神学的な慨きであり、神人対晤の至高の瞬間」を奪はれたといふことこそが、彼らの訴へる「裏切り」の内容だつたのである。(181p)

神風特別攻撃隊に対しては、「そのやうにまでせねばならなかつたか。しかしよくやつた」との陛下のお言葉が伝わるも。ならば、「神が「死」を命じ、人がそれに従ひ。神がそれを受けとる」ということからして、特攻隊員の死は「神人対晤の至高の瞬間」の実現であったのか。《ところが、彼らもまた「裏切られた霊」なのであるといふ。そして、そこに持ち出されてくるのが「人間宣言」なのである。/英霊は言ふ。「しかしわれら自身が神秘であり、われら自身が生ける神であるならば、陛下こそ神であらねばならぬ。神の階梯のいと高いところに、神としての陛下が輝いてゐて下さらなくてはならぬ。」さうでなければ、彼らの死は「愚かな犠牲にすぎなく」なり、彼らは「神の死ではなくて、奴隷の死を死ぬことに」なる。しかzるに、昭和21年元旦の詔書、いはゆる「人間宣言」は、天皇ご自身がその「神の階梯のいと高いところ」から降りてしまはれた、といふ宣言であった。つまりそのやうにして彼らは、死後に裏切られた霊となつた・・・神人対晤の至高の瞬間」は、それによつて、かこにさかのぼつて奪はれたのみでない。未来にわたつても、永遠に不可能とされてしまつた(184p)

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