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『神やぶれたまはず』再々読(5)「神人対晤の至高の瞬間」 [本]

『旧約聖書』創世記第22章、アブラハムは一人息子イサクを神の命のままに生贄に差し出す。殺そうとしたその時、神は、「汝の子、汝のひとり子をさへ、わたしのために惜しまないので、汝が神を恐れる者であることを私は知った。」の言葉とともに中止の命令が下る。著者(長谷川)は言う、《アブラハムはまさに「神人対晤の至高の瞬間」を目指して、三日間の旅路を一歩一歩たどってゐたのだ・・・ただ神に呼びかけられて、神と一対一で対面すべく、三日間の旅路をたどつたのである。・・・そのおともする者は誰しも「思想のわななき」を覚えずにはゐられないのである。/そこには間違ひなく、宗教の本質にひそむ「おののかせる秘儀」がかいま見えてゐる。》(219-220p)アブラハムは、ひたすらな「神への愛」を貫徹したはずだった。しかし土壇場で神の拒絶にあった。アブラハムは身代わりの羊を献げ、神からの祝福の言葉を受ける。

著者(長谷川)はその時のイサクを思う。《彼は、或る朝はやく、どこへ何しに行くのかもわからぬまゝに、父に連れられて旅に出る。・・・彼はなにかにつけて、いつのまにか受動的な役割へと押しやられ、それに甘んじる人物として描かれてゐる。・・・将来すべてのユダヤ民族の父となるべきこのイサクは、ただ、まるでデクノボーのやうにたきぎの上に載せられ、次にそこから降ろされるだけなのである。これはなんとも異様なことと言ふべきではなかろうか?・・・ここでは、もっとはるかに深刻な神学的問題を引き起こしてしまふ・・・つまり、自らの死を神に与へやうとしてゐる者にむかつては、神は中止命令を下してはならないのである。それは奉献そのものの拒絶を意味し、神と人との関係をそこで切断してしまふことにほかならない。》(225-231p)イサクの思いは、二・二六事件で散った神霊英霊たちの「たいへんな怒り」、また8月15日の放送を聞いての吉本隆明の「名状しがたい悲しみ」の慟哭そのものに通ずる。

この物語はそれから1000年後、イエスの死によって贖われる。しかし、と著者は言う、《イサク自身にとっては、・・・千年後に、神がその息子の命を人類のために犠牲にしたからといって、何の慰めにならうか。もしも本当に神と人との私的な関係ーー「神人対晤の至高の瞬間」ーーが成り立ちうるとすれば、それ以外に、イサクの奉献に対する返礼の仕方はありえないのである。・・・「イサクよ、汝がおそれることなく自らの死を差し出したので、私もまた、ためらふことなく自らの死を差し出さう。汝の死は確かにしかと受け取られた。ここに私が自らの死を差し出してゐることが、その何よりのあかしである。この瞬間は、まことの奇跡の瞬間として、汝らの末永き宝となるであらう。この宝をたづさへて、いざ生きよ」》
ところが、全知全能、唯一絶対の神は「死ぬことのできない神」なのだ。《イサクの奉献に対して真の応答ができるのは「死にうる神」のみである。つまり、われわれの民族がもつやうな神々にしてはじめて、イサクの奉献を正しく受けとると同時に、その命を返却する、といふことができるのである。・・・そして、それがまさにあの昭和20年8月15日正午の瞬間だつたのである。・・・「あの一瞬」は「全人類の歴史」を通じてためしのないやうな一瞬であった。》(235-238p)(つづく)

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