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『神やぶれたまはず』再々読(6)「イエスの死にあたる意味」 [本]

戦争末期の「”国体”護持の思想」について考える。そもそも”国体”観念は、西洋諸国侵略の危機に瀕した幕末に本格的に登場した。藤田東湖は言う、「蓋し蒼生安寧、是を以て宝祚窮りなく、宝祚窮りなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷・戎狄率服す。四者循環して一の如く各々相須(ま)つて美を済(な)す。」すなわち、《天皇が民を「おほみたから」として、その安寧をなによりも大切になさることが皇統の無窮の所以であり、だからこそ国体は尊厳である。そしてさういふ立派な国柄であればこそ、周辺諸国も自づからわが国につき従ふ。これらはすべて一つながりの循環をなしてわが国の美を実現してゐるのだ、といふことである。》「国体」とは、上からの愛民、下からの忠義といふ上下相互に交流するダイナミックなものであるがゆえに、「君民対立」が大前提の他国の政治思想とは根本において異なる。《かくして、大東亜戦争の末期、わが国の天皇は国民を救うふために命を投げ出す覚悟をかため、国民は戦ひ抜く覚悟を固めていた。》(p.242)すなはち、天皇は一刻も早い降伏を望まれる一方、国民にとっては、降伏はありえない選択であったのである。入江隆則『敗者の戦後』に曰く、《1945年の日本の戦略降伏のいちじるしい特徴は、天皇を護ることを唯一絶対の条件としたことだった。同時に天皇は国民を救ふために『自分はどうなってもいい』という決心をされていて、こんな降伏の仕方をした民族は世界の近代史のなかに存在しないばかりか、古代からの歴史のなかでもきわめて珍しい例ではないかと思う。」》いまや国土全体大量虐殺の場と化した現状から民を救うために命を投げ出すことを厭わぬ天皇と、天皇の命と引き換えに自分たちの命が助かるなどありえないと考える国民、「降伏することもしないこともできない」というジレンマである。著者(長谷川)は「美しいジレンマ」であると同時に「絶望的な怖ろしいジレンマ」であるという。戦後ズタズタにされてしまったが、日本とは本来そういう国であったのだ。国民の意識において、そこに立脚しているがゆえの、文字通り「最終戦争」であったのだ。

このジレンマから抜け出すにはどうするか。本来ダイナミックな「国体」を、「立憲民主制」という意味に矮小化して、そのことの維持を以って降伏の条件とするというのが、日本政府によってひねり出された「国体護持の思想」であった。《これは天皇陛下の切実なお気持ちからも、国民の決意からも遠くはなれた話になっている。・・・しかし、「国体」のジレンマによって、文字通り身動きのできない状態にある政府にとって、これは唯一の脱出口であつたに違ひない。》(248p)これは「ポツダム宣言」の示唆するところを日本政府なりに受けとめた結果でもあった。《彼らは、日本人がただ脅しつけられただけでひるむやうな民族ではないことをよく知つていた。と同時に、日本にはその国家の中核をなす価値といふものがあり、それが日本人全体のコンセンサスによつて支へられてゐるといふことも心得てゐた。したがつて、その価値が損なはれないといふことを明らかにした上で降伏を勧告するならば、どんなむごたらしい攻撃を加へるよりも速やかに、日本人の降伏を引き出すことができるーー「知日派」グループには、さういふ確信があつたことであらう。》(253p)それはしっかり「ポツダム宣言」の中に盛り込まれる。「前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ」。降伏後の日本の政治形態については日本国民の自由意志にまかせる、ということである。

しかし、連合国側からしてみれば、「立憲君主制」維持の約束と「天皇を護ること」とは無関係である。《ただ、当時の本国民にとって、「国体」とは当然、天皇ご自身をも含んでゐるーーあるいはむしろ天皇ご自身とすら考へられるーーのであるから、「国体護持」と聞けば、ただちに「天皇を護ること」と同義なのだと理解する。この戦争末期の〈国体護持の思想〉は、さうした国民の錯覚を利用した、一種の詐術であつたとも言へるのである。》(259p)

そして8月9日深夜の御前会議。陛下の決断を仰ぐ。内閣書記官長迫水久常が伝える天皇のお言葉、《「このまま戦争を本土で続ければ日本国は亡びる。日本国民は大勢死ぬ。日本国民を救い国を滅亡から救い、しかも世界の平和を、日本の平和を回復するには、ここで戦争を終結する他はないと思う。自分はどうなっても構わない」》(265p)このお言葉を基本に終戦の詔書が作成される。ただし、「自分はどうなっても構わない」の一語は決して入れてはならなかった。《「国体護持」といふレトリックは、まさに、天皇陛下の命を敵にさし出すか、国民が皆殺しになるかの二者択一、といふ苛酷な現実をおほひかくすために用ゐられたレトリックであつた。ところが、陛下の「わたしはどうなつてもかまわない」の一言で、そのおほひはすつかり吹きとんでしまふ。》(271p)

  爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
  身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
  国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり
  海の外(と)の陸に小島にのこる民のうへやすかれとただいのるなり 

この御製がはじめて公けになったのは、昭和43年出版の侍従著作によってであった。

最後はこう結ぶ。《歴史上の事実として、本土決戦は行はれず、天皇は処刑されなかつた。しかし、昭和20年8月のある一瞬ーーほんの一瞬ーー日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコーストのたきぎの上に横たはつてゐたのである。/「通常の歴史が人間の意識に実現された結果に重点を置くとすれば、実現されなかつた内面を、実現された結果とおなじ比重において描くといふ方法」が「精神史」の方法なのだ、と桶谷秀昭氏は言ふ。さうだとすれば、われわれの歴史が持つた、この「神人対晤」の瞬間は、精神史といふ方法によつてのみあらはれ出てくる性質のものである。ふつうの歴史家が、すべてここを素通りしていつたのも当然のことであつた。/しかし、精神史のうへでは、われわれは確かにその瞬間をもつた。そしてそれは、橋川氏の言ふとほり「イエスの死にあたる意味」をもつ瞬間であつた。折口信夫は、「神 やぶれたまふ」と言つた。しかし、イエスの死によつてキリスト教の神が敗れたわけではないとすれば、われわれの神も、決して敗れはしなかつた。大東亜戦争の敗北の瞬間において、われわれは本当の意味で、われわれの神を得たのである。》(282p)(つづく)

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