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『神やぶれたまはず』再々読(4)「神風」 [本]

三島由紀夫。この第8章、著者の繊細かつ緻密な読み解きについてゆくのは難しいが、大筋を追ってみる。《「……たしかに、二・二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだのだった。当時11歳の少年であった私には、それはおぼろげに感じられただけだったが、20歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の怖ろしい残酷な実感が、11歳の少年時代に直感したものと、どこかで密接につながってゐるらしいのを感じた。」》(163p)

そこで二・二六事件『英霊の声』に則して、《「……すめろぎが神であらせられれば、あのやうに神々がねんごろに謀り玉ふた神人対晤の至高の瞬間を、成就せずにおすましになれる筈もなかつた」・・・この「神人対晤」といふ言葉が指し示してゐるのは、・・神が「死」を命じ、人がそれに従ひ。神がそれを受けとる、といふ形ーーそのものである。そしてこの形は、次章に見るとほり、まさしく神学の根底をなす究極の形とも言ふべきものなのである。・・・青年将校の神霊たちが、あれほどまでに激烈な慨きを見せるといふのも、単に自分たちの蹶起が失敗し、陛下にそれを叛乱と決めつけられたから、といつた現世的な理由によるのではない。それはまさに神学的な慨きであり、神人対晤の至高の瞬間」を奪はれたといふことこそが、彼らの訴へる「裏切り」の内容だつたのである。(181p)

神風特別攻撃隊に対しては、「そのやうにまでせねばならなかつたか。しかしよくやつた」との陛下のお言葉が伝わるも。ならば、「神が「死」を命じ、人がそれに従ひ。神がそれを受けとる」ということからして、特攻隊員の死は「神人対晤の至高の瞬間」の実現であったのか。《ところが、彼らもまた「裏切られた霊」なのであるといふ。そして、そこに持ち出されてくるのが「人間宣言」なのである。/英霊は言ふ。「しかしわれら自身が神秘であり、われら自身が生ける神であるならば、陛下こそ神であらねばならぬ。神の階梯のいと高いところに、神としての陛下が輝いてゐて下さらなくてはならぬ。」さうでなければ、彼らの死は「愚かな犠牲にすぎなく」なり、彼らは「神の死ではなくて、奴隷の死を死ぬことに」なる。しかzるに、昭和21年元旦の詔書、いはゆる「人間宣言」は、天皇ご自身がその「神の階梯のいと高いところ」から降りてしまはれた、といふ宣言であった。つまりそのやうにして彼らは、死後に裏切られた霊となつた・・・神人対晤の至高の瞬間」は、それによつて、かこにさかのぼつて奪はれたのみでない。未来にわたつても、永遠に不可能とされてしまつた(184p)

しかしそもそも、いわゆる『人間宣言』でいうところの「現御神」について誤解があった。《最大の問題点は、「天皇ヲ以テ現御神トシ」といふことを「架空ナル観念」としてしまつたところにある。これは明らかにわが国の精神史上の事実と異なつてをり、ただ端的に「誤り」とすべき記述である。/現御神」とは、天皇は現身の存在でありながら、それと同時に、神々の遠い子孫としての神格をそなへてゐる、といふわが国古来の天皇観をあらはした言葉である。これは、ただ単に『古事記』や『日本書紀』にさう書かれてゐる、といふ話だけではない。『万葉集』をはじめとするさまざまの文学作品のうちには、これが人々にとっていかにリアルな観念であったかが活き活きとうつし出されてゐるのである。/さらに重要なことは、まさにこのやうな観念によつて、わが国の政治道徳の柱が支へられてきた、といふことである。・・・わが国の国体は、天皇が民を「おほみたから」として尊び、慈しむといふところにある。この「おほみたから(大御宝)」といふ言葉は、天皇が民を遠い祖先である神々から、大切な宝としてお預かりしてゐる、といふところに発してゐる。単なる慈悲深い君主の行ふ「愛民」なのではない。神の子孫に負はされた逃れやうのない大切な義務としての「愛民」なのである。》(190-191p)「現御神」のそのリアルさゆえに、人々は「天皇のためになら死ねる」と考えた。日本人にとって、決してl「架空ナル観念」ではなかったのだ。《神武天皇以来、代々の天皇は全て人間であり、人間でないやうな天皇はひとりも存在しない、その意味でも、「現御神」を否定した詔書を「人間宣言」と呼ぶのは不正確きはまりない》。そうなった経過についての著者の追跡は省くが、天皇のご意志によって詔書の冒頭に「五箇条の御誓文」が陰られたことの意義について、《わが国の近代国家としての出発点をなす御誓文が、開明的でありつつも日本の伝統に即してをり、同時にこれは「現御神」としての天皇の在り方を抜きにしては意味を持ちえないものであることーーそれを昭和天皇は簡潔に語られてゐるのである。》(197p)このことを三島が気づかなかったはずはないと、著者は言う。とすると、三島の怒りはそこにあるのではない。三島の問い、《「神風はつひに吹かなかった。なぜだらう。」》《『海と夕焼』は、奇跡の到来を信じながらそれが来なかったといふ不思議、いや、奇跡自体よりもさらにふしぎな不思議といふ主題を、凝縮して示さうと思つたものである。この主題はおそらく私の一生を貫く主題になるものだ。人はもちろんただちに、『なぜ神風が吹かなかつたか』といふ大東亜戦争のもつとも怖ろしい詩的願望を想起するであらう。なぜ神助がなかつたか、といふことは、神を信ずる者にとつて終局的決定的な問ひかけなのである。》しかし『英霊の声』の「神風」は、『海と夕焼』の「神風」的発想そのものを「さはやかに侮蔑して」吹く風である。三島の文、《「われらは戦さの敗れんとするときに、神州最後の神風を起さんとして、命を君国に献げた者だ」》と名のり出てこう言った。《「われらは最後の神風たらんと望んだ。神風とは誰が名付けたのか。それは人の世の仕組が破局にをはり、望みはことごとく絶え、滅亡の兆はすでに軒の燕のやうに、わがもの顔に人々のあひだをすりぬけて飛び交はし、頭上には、ただこの近づく滅尽争を見守るための清麗な青空の日がひろがってゐるとき、……突然、さうだ、考へられるかぎり非合理に、人間の思考や精神、それら人間的なもの一切を侮蔑して、吹き起つてくる救済の風なのだ。わかるか。それこそ神風なのだ。》(200-201p)神風吹き荒れて焦土と化した静寂とともに、日輪輝く壮大な青空があらわれるはずだった。それこそが「神人対晤の至高の瞬間」「人生の至福のとき」の実現であるはずだった。《ところが、それは彼の手をのがれ、二度とふたたびおとずれる可能性はなくなった。》(205p)そして、今に至る。(つづく)

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めい

1912年1月1日のルドルフ・シュタイナーの講演より
https://indeep.jp/human-larynx-will-be-the-reproductive-organ-of-the-future/

The World of the Senses and the World of the Spirit

もし地球上の多くの人々が、感覚の世界から足を踏み出すことを望まないのなら、彼らは精神的な(霊的な)衰退に陥るでしょう。

文明の将来の発展においては、霊的な敏感性、すべての霊的な科学の心、そして、世界への想像力、インスピレーションが自発的に湧き出すでしょう。

それは人類の一部の人たちのためのものとなるでしょう。その人たちはこの霊的世界への理解と献身を持っています。そして近い将来、地球に設定された目標を実行するのはこれらの人々です。

他の人々はおそらく(霊的世界の逆の)感覚的世界に満足し、そこを超えることをしたくない、あるいは、哲学と自然科学の概念が提供する概念を超えたくないと思うでしょう。そのような人々は、精神的な息切れ、精神的な消費、精神的な病気の方向に進んでいます。

感覚的世界は地球の存在の中で枯渇し、感覚的世界は地球の進化のために設定された目標を達成しません。しかし、進化は進んでおり、それぞれが自分自身に質問をしなければならないのかもしれません。

「あなたはどちらの道を選びますか?」と。

将来的には、人々は、いわば、右と左の 2つの道に立つでしょう。

一つの道は感覚的世界だけが真実であるという人々であり、もう一つの道には、精神的世界(霊的世界)が真実であるという人々がいます。

耳などの感覚的な器官は消えていくので、地球の終わりには地球に属するすべての感覚が完全に消えてしまいます。

私たちが精神的世界に進むならば、私たちは地球の進化の未来において、ますます人間に近づくことをいとわない何かの方向に自分自身を成長させます。

親愛なる友人たち、これらは人間の身近な日常生活との関係で現れるのです。

私は、オカルト科学の真の理解から、現代​​の人類に対する道徳的原則と衝動がどのように進むことができるかを指摘するのに言葉を使う必要はないと思います。

正しく理解された知恵から、正しく理解された善と美徳が人間の心に生まれるからです。世界の進化を真に理解した上で努力し、知恵を求めましょう。

そうすれば、知恵の子は必ず愛になるでしょう。

by めい (2022-05-16 04:31) 

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