『ニーチェのふんどし』を読む [本]
そこであらためて、『ニーチェのふんどし いい子ぶりっ子の超偽善社会に備える』。
強く心に残ったのがここだ。《オイディプス王はアポロ的な生き方をしていたのに、ディオニソス的なるものに動かされ、結局は罪を犯した。彼は運命に翻弄されながらも懸命な生き方を模索した。しかし、その結果として、父を殺し母を自殺させ国を疲弊させた。その結果を彼は引き受け、盲目となり乞食となった。オイディプスは自分の運命から逃げなかった。彼の姿には、「超地上的な明朗さ」がある。彼の人生の悲惨さは「無限の浄化」に達している。いかに努力しようと、知恵を尽くそうと人生は過酷な結果を招いてしまうかもしれない。それでも、そのような自分の生を引き受け生き切ることに尊厳があるし、真の高貴さがある。》(154p)ところが、ソクラテスの登場によって、ギリシア悲劇は矮小化される。《主人公たちは、自分の心を引き裂くアポロ的なるものとディオニソス的なものに激しく苦悩するようなタフさがない。苦悩できるだけの能力がない。苦悩できるだけの人間としての大きさがない。知的に考察すれば正解を導くことができると信じているほどに小賢しい。そんな計算や思慮を吹き飛ばすようなことが人間の人生には起きるし、人間とは理知に飼いならされるほどに柔な存在ではないという洞察もないという意味で、人生と人間を舐めている。》(156p)ニーチェの『悲劇の誕生』の鉾先は、ソクラテス的楽天主義の象徴としての近代科学批判に向かうのだが、著者にとってのターゲットは「ホワイト革命」だ。《現代という時代が退屈でつまらないのも無理はない。アポロ的なるもので満たされているから。ディオニソス的なるものについては見て見ぬふりをしているから。そして近未来には、「ホワイト革命」というアポロ的なるものをもっと矮小化した精神によって小ぎれいな箱庭化した超偽善的社会が到来する。》(158p)きっとそうにちがいない。《強者へのルサンチマンから生まれた道徳や大義が作り出す世界は、一見いかにユートピアに見えても、嘘まみれのディストピアである》(195p)のだ。そこに在るのは《退屈な末人の人生》(209p)だ。「結語」に言う、《ホワイトな人々は、ホワイトであることこそが最高の価値として考え、人間の多様性や複雑性を受容できない。彼らや彼女たちの価値観は固定化される。そう言う人々は価値観だけではなく美意識の幅も狭くなる。だから、自分や他人に求める容姿も類型的になりやすく、外見至上主義に陥りやすい。》(219p)まさにその結果としての「みんな同じなクローン社会」というわけです。
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