「読書にまつわる因習」(若松英輔) [若松英輔]
日経「言葉のちから」(10/28)にこうあって我が意を得た。《読書にまつわる因習が、人々を読書から遠ざけたように思われるのである。正しく読まねばならない。全部読まねばならない。教養として読んでおかなくてはならない。こうしたことが読書の因習である。》
恥ずかしながら、この因習から全く自由になったのはそう昔のことではない。「自分主体の読書」ができるようになることで読書の因習からの解放となる。自分主体の読書ができるということは、自分が何ものであるか限定されているということだ。要するに「先が見えた」ということか。無駄な時間はそう残されてはいない、ということでもある。
病院で7泊8日を過ごしてきた。鼠径ヘルニア(脱腸)の手術で、本来2泊3日ぐらいで済むのが、血液サラサラ服用ゆえ準備期間が必要だった。いい機会とばかりにあれこれ本を持ち込んだが案外読めない。ただ、『魂鎮への道』を、出る間際にふと気になってバッグに入れたのは正解だった。集中して一気に読み、いまも余韻か残る。飯田氏との対話が続く。もうひとり、高啓氏との出会いもあった。『
飯田進『魂鎮への道』 [本]
小さいころ、昭和30年前後、夏休みになると山の湯治場(滑川温泉)へ祖父母に連れられて何日かをすごした。ある晩、廊下を隔てた向かいの部屋、大声で語る戦地中国での武勇伝がいやでも耳に入ってきた。「何人殺した」とか「女をどうした」とかの話で、子ども心にも強烈だった。おぞましい記憶だ。その記憶がよみがえった。
『魂鎮への道の著者飯田進氏が死刑を求刑されたのは、ニューギニアにおける所業のゆえだった。 』《中国戦線で日本軍がなにをしたか。ぼくはニューギニアの密林のなかで、いやというほど兵隊たちから話を聞いています。兵隊たちは、歩兵部隊の兵隊も憲兵も、ほとんど中国戦線から転用されてきた者たちでした。/兵隊の話といえば、女と酒が通り相場です。しかしニューギニアにはそのどちらもありませんでした。チョロチョロと燃える椰子油の灯火を囲んで、兵隊たちは中国戦線における討伐作戦や、スパイ容疑の住民の取り調べなどを得々として語っていたのです。いまここで言葉では再現することがはばかれる行為が、いたるところで行われていたのです。》(205p)中国戦線においては武勇伝として語り得たことも、ニューギニアの戦線においてはなにもかもが《ひじょうに重くて陰鬱な、目をそむけたくなるような内容の話》(3p)ばかりであった。《ニューギニアのジャングルは、人間が住める環境ではありません。・・・そこに大本営は、つぎつぎに20万人もの大軍を送り込み、その大部分の兵隊を餓死させました。》(19p)そうした地獄の果ての敗戦、《アジア各地で、いわゆる戦場犯罪に問われたBC級戦犯裁判が行なわれました。50ヶ所もの臨時軍事法廷で、実に一千名からの旧軍人・軍属が死刑に処され、また四千名近い者が有罪の宣告を受けています。》(4p)著者も判決は終身刑だったが、死刑を求刑されたひとりだった。それに至ることどもを語ることは「つらい作業」である。《しかし無念の思いをいだいて刑死した人々の魂鎮のためにも、やはりぼくは「手負いになる勇気」をふりしぼらなければならないのかもしれません。たしかに生きているうちに果たさなければならない、これはぼくの義務なのでしょう。》(3p)そうして書かれた重い著である。文庫で382ページのこの著、著者の意思にどう応えうるかを思いつつ、(たまたま入院中の身でもあり)一気に読まされた。
飯田氏によってつきつけられた問題、私には「天皇の戦争責任問題」を最も重く受け止めた。小野田寛郎さんの言葉が提示される。《「敗戦後日本人は誰も天皇の責任について言及しなかったようだが、天皇は自ら責任をとるべきだった。(中略)そこんところをあいまいにしたことが今の無責任時代の源流になったのではないか。」》(264p)「無責任時代」の内実とはこうである。《国家とは倫理的理念の実現をめざす政治的共同体である、と言われています。だが戦後の日本のどこに、国家としての倫理的理念があったでしょうか。日本はまさに倫理的規範を見失ったまま、精神的・心理的に、いわば閉塞状態に置かれ続けてきました。》(314p)そして言う、《日本が、自らの恥部を白日の下にさらけだし、そのあやまちを正していく国家、民族としての勇気をもち得るかどうか》(316p)。この言葉、著者の「手負いになる勇気」に裏付けられてわれわれに求められた問いと受け止める。ここを「わがこととして」掘り下げること。