SSブログ

「読書にまつわる因習」(若松英輔) [若松英輔]

日経「言葉のちから」(10/28)にこうあって我が意を得た。読書にまつわる因習が、人々を読書から遠ざけたように思われるのである。正しく読まねばならない。全部読まねばならない。教養として読んでおかなくてはならない。こうしたことが読書の因習である。》

恥ずかしながら、この因習から全く自由になったのはそう昔のことではない。「自分主体の読書」ができるようになることで読書の因習からの解放となる。自分主体の読書ができるということは、自分が何ものであるか限定されているということだ。要するに「先が見えた」ということか。無駄な時間はそう残されてはいない、ということでもある。

病院で7泊8日を過ごしてきた。鼠径ヘルニア(脱腸)の手術で、本来2泊3日ぐらいで済むのが、血液サラサラ服用ゆえ準備期間が必要だった。いい機会とばかりにあれこれ本を持ち込んだが案外読めない。ただ、『魂鎮への道』を、出る間際にふと気になってバッグに入れたのは正解だった。集中して一気に読み、いまも余韻か残る。飯田氏との対話が続く。もうひとり、高啓氏との出会いもあった。非出世系県庁マンのブルース』切実なる批評―ポスト団塊/敗退期の精神』。飯田氏が前景に出てしまったが、いずれじっくりレビューをと思ってる。

*   *   *   *   *

伝統と因習について〜池田晶子の教え 若松英輔

イラスト・西 淑

目の前に一冊の本があるとする。複数の人がそれを目にしても、見た目はほとんど同じに映る。だが、ページをめくるとそこには、まったく違った光景が浮かび上がってくる。ある人は文字の連なりを見るだけかもしれないが、またある人はそこに別世界への扉を見出すかもしれない。長年探してきた生きる意味の片鱗(へんりん)を発見する人もいるのである。ある内実を秘めた本は魔法の箱のように働く。手にする人によってその働きを変じるのである。

本を読む人が少なくなっている。かつて読書は娯楽であると同時に自己探究の道標でもあった。読書は時空の差異を超え、よき対話の相手を見出そうとする営みだった。昨今は、本以外にもその役割を担ってくれるものが存在する。だが、インターネットやスマートフォンが無かったとしても、やはり読書離れは進んだのではないだろうか。読書にまつわる因習が、人々を読書から遠ざけたように思われるのである。正しく読まねばならない。全部読まねばならない。教養として読んでおかなくてはならない。こうしたことが読書の因習である。

因習とは、囚(とら)われの習慣である。因習は人を縛り、自由を奪い、感性を画一化する。どこかで手放した方がよいと感じるいっぽうで、因習はなかなか姿を消さない。因習は何とももっともらしい。つまり表面的には正しいことのように映る。

因習と伝統は似て非なるものである。過去から受け継がれてきた点は似ているが、本源的な性質を異にする。因習は人を縛るのに対して、伝統はその人をその人自身に近づけ、自由にする。伝統を表層的に受け継ぐことはできない。その本質を認識できない者は伝統の継承者にはなれない。

文字はじっと眺めていると思わぬことを教えてくれる。「統」を伝えるのが伝統である。「統」という文字は「糸」と「充」から成っている。ここでの「糸」は織物における経糸(たていと)、すなわち基軸となるもの、それが充(み)ちている状態が伝統である。経糸が無ければ緯糸(よこいと)で模様を描き出すこともできない。

宗教の歴史を見ていると、伝統と深くつながりつつ、次の時代を切り拓(ひら)いた人物が異端者として断罪されることがある。後世の人はそうした先駆者を敬意をもって正統なる異端者と呼ぶことすらある。

現代人は何を読むべきかを必死になって考えている。あるいは、どう読むべきかという方法論も関心を集める。そして、多くの情報を持つ人を重んじる。しかし、読むとは何かという根源的な意味を問うことに慣れていない。多量の知識を顧みずに、素朴な叡知(えいち)を深く生きようとする人たちを、見過ごしている。

多くの知識は深い叡知を約束しない。この現実は「読むこと」を「食べること」に置き換えてみるとよく分かる。食べるとは空腹を満たすことであると信じ、好きな物、口当たりのよいものだけを多く食べ続けたとしたら、数年後、私たちの身体はどうなるだろう。結果は想像に難くない。

「食べる」という営みが、今日の、明日の、あるいは十年後の自分を作る営みであることを理解している人は、好きな物ばかりに偏った生活はしない。加齢をはじめとした状況の変化をどこかで感じ取りながら食生活を整えていく。良薬、口に苦しという諺(ことわざ)に従うこともあるだろう。

人はたいてい一日三度食事をする。本を読まない日があっても、まったく食事をしない日はほとんどない。そうした生活のなかで私たちは経験的に、「食べる」という営みの本質の認識を深めているのである。

何を読むべきかと悩む前に読むとは何かを考える。どう生きるべきかと悩む前に私たちは、生きるとは何かを考えなくてはならない。このことを教えてくれたのは哲学者の池田晶子だった。

「わからないこと」を悩むことはできない。「わからない」ことは考えられるべきである。ところで、「人生いかに生くべきか」と悩んでいるあなた、あなたは人生の何をわかっていると思って悩んでいるのですか。〉(『残酷人生論』)

彼女にとって「悩む」とは頭を懸命に働かせることだった。いっぽう「考える」とは全身で生きてみることだった。哲学とは「悩む」を「考える」に変じる道だった。

今は亡きこの哲人は「読む」ことをめぐってこんな言葉を残している。「読むとは絶句の息遣いに耳を澄ますことである。」(『リマーク1997-2007』)。この一言は私の読書への態度を根本から変えた。

(批評家)


nice!(2)  コメント(1) 
共通テーマ:

nice! 2

コメント 1

横山仁

レビュー、楽しみにしています。
by 横山仁 (2023-11-01 07:44) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。