「1990年の生活レベルで日本人が満足した」 [mespesado理論]

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上原聰三
【「責任ある」積極財政へ】
物事を明るく捉え、積極的にやっていこう そのつづき
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前回、《長いデフレの停滞で投資意欲が失わされた民間》と云う事を書いたが、其れは日本人の《美徳》とも云われている「足るを知る」から出たことで、“何も悪いことばかりではなかった”のではと、其れを考えて克服しない事には不十分であると云う方がいました。
1990年の時点で日本人は「これでいい」と。つまり、
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勿論、将来を見れば違うかも知れないけど、家は小さいし、通勤は大変だけど、まぁね家族で楽しくやって行けるだけの素敵な生活は出来るようになった、テレビ冷蔵庫洗濯機皆あると、家も一応整ってると、其れからその頃は車とかクーラーなんかも手を伸ばせば買えたんです。子供を高校大学に行かそうと思ったら行かせられるし、一応毎日白いご飯は食べられるし、これ以上頑張ってもいいけど頑張る必要もないかな
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と、「足る」を知って、これでいいと、全体としては1990年の生活レベルで日本人が満足したからではないのかというのです。
そう云われると当事者ごととして“心に深く強く感じる”ものがあり、責任の一端らしきものもある気になる。
「失われた30年」に終止符を打つ!と意気込んでも、此の事も克服することを考えないと“空文句”に終わる恐れがあると云う事であろう。
“冥土までの暇潰し”人生の年寄の役目としてそうしなければと思う此の頃である。
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猿都瑠さんとmespesadoさんのやりとりから感じた思いに通ずるような気がする。
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