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令和6年のはじまり [源氏物語]

3.11のとき娘が仙台にいた。すぐ電話をしたがつながらなかった。メールで無事を確認したのは数時間後だった。電話で話せたのは翌日だった。状況がわかるまでほんとうに心配だった。→「3.11地震」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2011-03-13  今回、妹の次男が金沢在住なので、心配になって妹にたずねた。電話したらすぐつながったという。食器棚が崩れて大変だったらしい。

毎朝日課の『源氏物語』、今朝は宇治十帖「総角(あげまき)」の終盤、薫の思い人大君(おおいきみ)逝去の場面だった。元旦早々縁起が悪いと思っていたところでの地震だった。折しもこの日、副島さんが『源氏物語』を俎上にあげた。→「2108」 源氏物語は藤原道長の人生そのものだ・第一弾(第1回・全3回) 冒頭に新年の挨拶 2024年1月1日

《これまで誰も正面切って日本の国文学者たちが書いていない、国文学者たちがぶつぶつと、内部ではひそひそ話としてやってきたことである。日本国民にそれを教えてはいけないということにしてある多大な事実である。これは私が断定、言い切りではっきりと話すことで、日本国の日本史及び日本文学に対する考え方が根底から変わる。それぐらいの深い決意で私は話す。・・・真実の『源氏物語』のドラマの背景は、この藤原道長(ふじわらのみちなが、966-1028年、62歳で死)という男が光源氏であるという大前提に立つ。ここをごまかして「いや、これは物語ですから」と言って逃げることはさせない。裏側に真実の物語が横たわっているからである。・・・はっきり言いますが、この藤原道長に5歳年上の実の姉がいます。これを藤原詮子(せんし、962-1002年、40歳で死)といって「あきこ」とも読みます。この詮子は後に出家したときに東三条院という院号をもらいました。天皇の母親、おばあちゃんに当たる人が院号をもらい始めたのはこの藤原詮子が初めてです。そして、彼女は当時、梅壺女御と人々に呼ばれていた。
・・・この道長の5歳上(数え年でいえば4歳の違い)の実の姉の詮子が藤原道長を徹底的にかばって大きく出世させた。事実として分かったことは、藤原道長とお姉さんの詮子はほとんど一緒に長いこと暮らしています。実の姉です。この2人の間に性関係があった。そして藤原詮子は円融天皇(えんゆうてんのう、958-991年、32歳で死)の女御から始まり中宮、すなわち皇后になっている。この円融天皇の皇后でありながら、実は自分の実の弟の道長とできていた。そして円融天皇の次の次の天皇ということになる一条天皇の実の母親と父親は、まさしくこの藤原の詮子と弟の道長です。
このことは日本国史において、言ってはいけないことになっている。絶対に口に出してはいけないことになっている。しかし国文学や日本史学を本気で研究した人々にとってはもう、隠せないぐらいの事実なんだ。ところが、日本国民のほとんどは知識人階級を含めて、この事実を一切知りません。馬鹿なんです。要するに日本国民は馬鹿扱いされている。・・・大きな国家体制の中では、一旦ついてしまった嘘は、どうしても500年間も隠し通さなきゃいけないことになって、それとほとんど同じレベルの問題がこの光源氏の実像である藤原道長が、実のお姉さんの詮子(東三条院)と一緒に若いころつくったのが、後の一条天皇です。この一条天皇を道長が最大権力者になったときに上手に操ります。・・・光源氏であるところの道長は若い頃は遊びほうけているんです。ものすごい遊び方をしている。簡単に言うと、すさまじい女遊びやっています。周りはほったらかしなんです。誰もそれを止めないんです。だから、貴族のいろんな女たちに手出して回って、ものすごい数の恋愛をやっています。あとはのぞきやったり、強姦したり、頭中将(とうのちゅうじょう)という悪い友達たちと誘拐して下級貴族の女を犯したり、いろんなことをやっています。それが『源氏物語』の真実の話です。》『源氏物語』のリアリティに納得です。


今年の元旦写真貼っておきます。当然その時は、地震のことなど全く考えていませんでした。

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