北条郷金山探訪(斎藤喜一さん) [地元の歴史]
84歳にしてまだまだ何事にも挑戦的な斎藤喜一獅子冠事務所頭取、ここ数年来最大の関心事は「北条郷(ほぼ南陽市)の金(Gold)」で、市長と語る会などでも独自な視点からの発言をくりかえしてきました。最近米沢の八谷鉱山(1988閉山)勤務の経験ある臼居百蔵さんと知り合って、精力的に金山探訪をつづけ、その都度報告を聞いていましたが、7月20日南陽鷹の会として黒沢山形新聞南陽支社長を伴っての探訪を企画実行、22日の置賜版に大きく掲載されました。今回の特筆成果は「温泉の可能性」。私はとてもついてゆけませんが、頭取の「あくなきロマンの追求に拍手!」です。今年は御神事のみのお祭りですが、23日夜の祭り始めにも、昨日の夜祭りにも、自力で石段を登り切りました。
東京・三重行(6)本居宣長記念館③ 蒲生氏郷 [地元の歴史]
記念館の販売コーナーに『蒲生氏郷小伝』があった。うかつにもこの時初めて蒲生氏郷によって、松阪とわが置賜が縁あることを知った。あらためて『南陽市史 中巻』を繙いてみる。第1章第1節に「蒲生氏の入部」の項がある。《伊達政宗転封後の置賜郡は、天正19年(1591)9月奥羽仕置の勲功により蒲生氏郷に加増された。/蒲生氏は藤原秀郷の裔。近江国守護六角氏の滅亡により、父賢秀が織田信長に臣従した。氏郷は、永禄12年(1569)、14歳で伊勢国大河内城攻めに大功あって信長に認められ、信長の娘と結婚して近江国蒲生郡日野城を与えられた。天正10年(1582)、本能寺の変後は豊臣秀吉に従い、小牧合戦の美濃国加賀井城攻略の功で伊勢松坂12万石を領した。その後、紀州・越中・九州に連戦して功あり、天正16年(1588)4月、正四位左近衛権少将に任じ、羽柴姓を許された。天正18年の小田原攻めでは韮山城を攻め、次いで奥羽仕置軍の先鋒をつとめて功あり、秀吉が伊達政宗から取り上げた会津6郡・仙道5郡42万石に封ぜられた。そしてこの度は、葛西・大崎の一揆、および九戸の乱を平定した功により、置賜郡・伊達郡・信夫郡など伊達領の旧領も加えられ、73万石の大大名に成り上がった。官位も従三位・参議(宰相)に進められ、奥羽の押さえとして重きをなすことになったのである。》(16p)ここ北条郷は、中山城1万3千石蒲生左門郷可(さとよし)の知行となる。蒲生による置賜支配は、直江兼続が入る慶長3年(1598)まで8年間つづくが、氏郷は文禄4年(1595)40歳で亡くなっている。松阪にとっての氏郷は「商都まつさかの礎を築いた殿様」として、毎年秋に「氏郷まつり」が行われるほど大事な人であったことを知った。
疫病の記録(2) [地元の歴史]
◎安政5年(1858)《十月虎狼利(コロリ)といふ病気江戸町病死十万人大坂三万人病死也》(『年代記』)。《10-21 米沢藩、赤湯方面にコレラ流行につき予防法を令達する(年譜)。》(『年表写真で見る南陽市史』)『年代記』を翻刻してくださった竹原万雄先生(東北芸工大准教授)、近世・近代史が専門で、『よみがえるふるさとの歴史5 明治時代の感染症クライシス コレラから地域を守る』(蕃山房 2015)の著書があります。論文「安政期コレラ流行をめぐる病観と医療観 -仙台藩士・桜田良佐の記録を事例として - 」(『 江戸時代の政治と地域社会 第二巻 地域社会と文化』 2015)も書いておられることに今気づきました。プロフィールに《地域の人びとの視点はもちろん、それを「支配」する人びとの視点にも目を向けながら当時の社会のあり方を追究しています。歴史学は史料を探してあちこちをまわり、それを独自の解釈で読み解きながら新しい「歴史像」を作り上げていく魅力的な学問です。とくに、くずし字で書かれた古文書を解読するのは、一種の謎解きのような楽しみがあります。史料はまだまだ地域の旧家の蔵に眠っています。この貴重な史料を永久に伝えていけるよう、地域の歴史を守ることも私たちの使命です。歴史を通して専門的な能力を身につけ、地域に貢献できるような人材を育てて行ければ考えています。》とありました。あらためて出会いのありがたさを思わされます。
疫病の記録(1) [地元の歴史]
昨日書いた「「疫病退散」お札復刻!」、熊野大社によると山形新聞の記事の反響はかなりのものだったらしい。昨日は、新聞記事にあった安政5年(1858)の記録についてだけ書いたが、「年代記」には他にもいくつか疫病の記録があった。
◎天保3年(1832)3月、《御城下ねつ病はやり 別而下町家こと残りなく わツらる成り人数百人斗死す》とある。天保4年に始まる天保大飢饉の前年、地震あり、大雪あり、雷あり、《盆過きヨリ 不天気度々》とある。
◎天保5年(1834)、天保7年までつづく大飢饉の真っ只中。4月《御上二而 たび米三万九千俵買入》。5月《町方 南気(?)之者共二壱人二付 米 弐合ツヽ 御上ヨリ五拾八文ツヽ 出キル 町米登り 預り札壱両先キ成ル 此月 日てり 廿七日七ツ時より雨 廿八日神なり雨晦日迄ふる ねつ病二而人大ク死ス 廿八九日頃ヨリセミ惣して むし早ク出キル》。6月《毎日ねつ病ニて 一人り二人りツヽ 死ス》《朔日二熊野山二シテ御大般若有り はやり風二シテ大死ス 八日に町へ おししさま出ル 十三日ヨリ御神なり 廿日迄 十五日雨 此月日てり暑気甚敷候 稲のほ出ル 町米四貫文上米分三貫五六百文 病気の家江米五升ツヽくれる》。
《八日に町へ おししさま出ル》とあるのに注目。熊野山のお祭は、旧暦なので6月15日、その一週間前のお獅子出動は「ねつ病」退散のためか。
池黒羽黒神社神像 [地元の歴史]
《一度拝すると、やや悲しげな目と、つつましやかな口元の表情は強く印象に残って離れない。》(『南陽市史』上巻 514p)と錦三郎先生が評された池黒羽黒神社神像。私も平成25年に初めて拝した時、一木造で57cmというが、もっと小さい印象で「愛らしい」と思った。(ガラス越しの撮影なので蛍光灯が写っている。)池黒羽黒神社は、皇大神社から登った上ノ平(うわのだいら)にあった古社。明治35年に社殿が大風で吹き飛ばされたため、そこの石祠にあったこの神像、今は皇大神社所蔵になっている。元来神社のご神体は鏡・玉・剣であったが、平安前期以来の本地垂迹説によって、神社にも仏像にも似せた神像が祀られるようになったという。神像と仏像とどこで分けるのかわからないが、神社にあったので「神像」ということになっているようだ。『宮内町の文化財』(昭40)に「羽黒神社の神像と三堀観音堂の諸像」(佐藤東一)という論考があり、その中には《羽黒神社の神像の場合は、菩薩形の仏像と観られるものである。》として、《本像の場合、両腕の切断面を熟視することによって、右手施無畏、左手未敷蓮華の印相の聖観音(或は正観音)と推測してよいのではなかろうか。》とある。そこでネット上で観れるこの像に似た聖観音をいくつかあげておきます。
「韓志和」とは(池黒皇大神社) [地元の歴史]
まず、棟木に何が記されているかについて整理してみる。
①『南陽市史』(上巻515p 平成2年)にあるのが左。《所蔵の棟札は応徳三年(1086)のもので棟札としては山形県最古となる貴重なものである。現在、文字は薄れ、赤外線撮影でも判読は困難である。三宅良次著『郷土の社寺巡礼』(昭和七年八月刊)には、棟札銘をつぎのように記している、》そして左図が入って《この銘記は、『山形県金石文集』(昭和十三年刊)にも『山形県史』(古代中世史料2)にも記載のない「□(韓カ)志和」の三文字が「木刻師」の下にあり注目される。》この記述は錦三郎先生による。
②前記事「日本最古の棟札https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-01-04」に載せた錦先生による調査報告書(平成7年)の「付記」に《解読銘文は、銘文についてはじめて記載された「山形県金石文集」に近いものになったといえる。》として記載の右図。
ここで疑問。②で、錦先生は『南陽市史』に自ら記した三宅良次著『郷土の社寺巡礼』について記さなかったのはなぜか。そもそも平成7年にあらためて調査の必要性が生じたのはなぜか。さらに、渋谷さんの記述の中に、《今年(令和元年)、専門家に赤外線カメラにて撮影し鑑定すると》とあるが、これはどういうことか。さらにあらためての調査の必要性があったのだろうか。
日本最古の棟札(池黒皇大神社) [地元の歴史]
12月25日清野春樹氏来訪。ちょうどその日発刊の『山形歴史探訪4 平清水・宮内・赤湯・上郷・長井の秘密』を持って来られたのだった。1,500円ということで即求め、さらに佐野書店さんに置いていただくよう佐野さんに連絡した。
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清野さんの話で、池黒皇大神社の話に惹きつけられた。皇大神社の棟札が県内最古どころか日本最古の棟札であること。その棟札には「木刻師韓志和」の記載があり、韓志和とは、飛騨の高山に韓志和(木鶴大明神)像が立てられたほどの飛騨の匠の代表的人物とのこと。皇大神社にある御神像は韓志和の作かもしれないこと。
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皇大神社には平成25年と30年に見学させていただいたことがある。古い棟札とはお聞きしたが「日本最古」との認識は私にはなかったので驚いた。あらためて『南陽市史』(上巻515p)を見ても「県内最古」とはあるが「日本最古」とはない。「日本最古の棟札」で検索したら獅子宿燻亭の渋谷さんの記事が最初にあって驚いた。最近(2019.10.23)の記事だった。《朽ち果てた一片の木片の様だが、合祀されている羽黒神社の古い棟札である。今年、専門家に赤外線カメラにて撮影し鑑定すると「応徳三年(1086年)出羽神 輿麿 敬白/韓志和(からしわ)鍛治三条小門宗近(かじさんじょうこもんむねちか)」と記名があった。/公に日本で最古の棟札は岩手県中尊寺の保安三年(1122)で、それより36年も遡る事になる。/韓志和という人物は飛騨の匠、彫刻の名手で平安時代初期に自作の木鶴に乗り唐土(中国)へ渡った。飛騨の高山市中橋公園には韓志和を木鶴大明神の銅像にして残されている。》(最古の棟札 http://samidare.jp/shishi7/sp/note?p=log&lid=477613 右の写真もコピーさせていただきました)また、手元に25年に撮影した錦三郎先生の報告書があったので写しておきます。ただ解読内容の別紙がないのが残念。今はネットによって即座に判断できるが、錦先生も「日本最古」とは考えてはおられなかったのではないか。あらためて東北歴史資料館に確認せねばならないと思う。
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