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疫病の記録(1) [地元の歴史]

昨日書いた「「疫病退散」お札復刻!」、熊野大社によると山形新聞の記事の反響はかなりのものだったらしい。昨日は、新聞記事にあった安政5年(1858)の記録についてだけ書いたが、「年代記」には他にもいくつか疫病の記録があった。

◎天保3年(1832)3月、《御城下ねつ病はやり 別下町家こと残りなく わツらる成り人数百人斗死す》とある。天保4年に始まる天保大飢饉の前年、地震あり、大雪あり、雷あり、《盆過きヨリ 不天気度々》とある。

天保5年.jpg◎天保5年(1834)、天保7年までつづく大飢饉の真っ只中。4月《御上二而 たび米三万九千俵買入》。5月《町方 南気(?)之者共付 米 弐合ツヽ 御上ヨリ五拾八文ツヽ 出キル 町米登り 預り札壱両先キ成ル 此月 日てり 廿七日七ツ時より雨 廿八日神なり雨晦日迄ふる ねつ病二而人大ク死ス 廿八九日頃ヨリセミ惣して むし早ク出キル》。6月《毎日ねつ病ニて 一人り二人りツヽ 死ス》《朔日二熊野山二シテ御大般若有り はやり風二シテ大死ス 八日に町へ おししさま出ル 十三日ヨリ御神なり 廿日迄 十五日雨 此月日てり暑気甚敷候 稲のほ出ル 町米四貫文上米分三貫五六百文 病気の家米五升ツヽくれる》

八日に町へ おししさま出ル》とあるのに注目。熊野山のお祭は、旧暦なので6月15日、その一週間前のお獅子出動は「ねつ病」退散のためか。

実は昨日、獅子冠事務所の役員会があってここのところを紹介したところ、「じゃあ今年もやらねば」の声が上がったが、「待て待て、早まるな」。今のわれわれ、実際どこまで身の危険を感じているか。当時はまさに《毎日ねつ病ニて 一人り二人りツヽ 死ス》の状況だったのだ。それを思えば軽々しくお獅子様の御出動を願う事態ではない、と押しとどめた。

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