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疫病の記録(2) [地元の歴史]

◎安政5年(1858)《十月虎狼利(コロリ)といふ病気江戸町病死十万人大坂三万人病死也》『年代記』《10-21 米沢藩、赤湯方面にコレラ流行につき予防法を令達する(年譜)。》(『年表写真で見る南陽市史』)竹原万雄1106611277_main_l.jpg『年代記』を翻刻してくださった竹原万雄先生(東北芸工大准教授)、近世・近代史が専門で、『よみがえるふるさとの歴史5 明治時代の感染症クライシス コレラから地域を守る』(蕃山房 2015)の著書があります。論文「安政期コレラ流行をめぐる病観と医療観 -仙台藩士・桜田良佐の記録を事例として - 」(『 江戸時代の政治と地域社会 第二巻 地域社会と文化』 2015)も書いておられることに今気づきました。プロフィール《地域の人びとの視点はもちろん、それを「支配」する人びとの視点にも目を向けながら当時の社会のあり方を追究しています。歴史学は史料を探してあちこちをまわり、それを独自の解釈で読み解きながら新しい「歴史像」を作り上げていく魅力的な学問です。とくに、くずし字で書かれた古文書を解読するのは、一種の謎解きのような楽しみがあります。史料はまだまだ地域の旧家の蔵に眠っています。この貴重な史料を永久に伝えていけるよう、地域の歴史を守ることも私たちの使命です。歴史を通して専門的な能力を身につけ、地域に貢献できるような人材を育てて行ければ考えています。》とありました。あらためて出会いのありがたさを思わされます。

明治12年.jpg◎明治12年(1879)《粡町消防羽織仕立 四月晦日赤湯出火 見舞五軒有り 七月功徳寺金毘羅新築在志 八月コレラ病・・・》『年代記』)《この年、全国にコレラ蔓延、患者16万人、死亡10万余人。》(『年表写真で見る南陽市史』)

四月晦日赤湯出火 見舞五軒有り》については、『南陽市史』に《6-20 赤湯馬町より出火、81戸焼失(郡史)。》とあります。日時のズレは「年代記」が旧暦のためです。見舞先が5軒あったということか。

七月功徳寺金毘羅新築在志》にも注目。今、琴平神社の由来板には、明治30年(1896)に讃岐金比羅宮の御分霊を祀ったとされるが、それ以前、琴平神社以前の功徳寺にすでに金毘羅さんが祀られていたことがわかります。明治5年(1872)に《申四月九日午後七時半頃ヨリ鳥居ノ場芝居小屋ヨリ焼ル 尤大火也 新町田町新丁御蔵町本町横町突貫寺下粡焼ル也》(『年代記』)《全町500戸のうち300余戸焼失、2人焼死(郡史)》(『年表写真で見る南陽市史』)という大火があり、さらにその後も明治6年3月13日台林院(北野家)焼失、明治8年4月4日金山村大火(「南陽市史」に《5-19(新暦) 金山の石畑・白岩在家17戸焼失》)、明治9年5月26日本町青木七兵衛家、明治10年10月2日元屋敷など、近隣に火災が相次いだことから、火伏せの金毘羅様新築になったと思われます。「在志」は「寄進」のことか。

明治32年.jpg◎明治32年(1899)《七月・・・赤湯町二而四日頃ヨリ赤痢病コレラノ如キ也 四人斗十二日迄死去人拾人 赤痢病二而病院二送リ人六十人斗二御座候廿五日迄百四十人斗相成・・・》(『年代記』)《7- 赤湯町に赤痢発生、患者147名、死亡者36名(山形県警察史)》(『年表写真で見る南陽市史』)

以上、『年代記』から疫病関連を拾ってみました。

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