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mespesadoさん講義(60)思いの根幹 [mespesado理論]

《学問をしたい人は自由に研究でき、その真実の追及のための情報や刺激には溢れているが、かといって「成果」を無理に求められない、そんな大学教育が私の考える理想ですかね…。》さらに《「自分と他人の区別がない」世界というのは、別に他人のためになることが、自分の犠牲によるものではなく、他人のための行為と自分のための行為に区別が無くなり、そんな「利己」「利他」などという意識など最初から消えているような状態》。よくわかります。卒園文集「光の子ども」に寄せた文章思い出しました。平成18年度でした。

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わが子という自分        

 

ちょうちょう組のみなさん、そして保護者のみなさん、ご卒園おめでとうございます。

 子どもが小さいうちほど、手がかかる分だけ時間が長く感じられます。それは親にとってだけではなく、子ども自身にとってもそうにちがいありません。その濃密さの度合において、幼稚園での数年間は、その後の人生の同じ時間に比してずっと重いはずです。

わが家の二十二歳、二十歳、十七歳の子どもたち、それなりの経験も積み、また親の考えも理解しようと努めるようになって、問題に直面しての家庭での話し合いもかなり実のあるものになってきました。その中で、子どもたちとの間に共通の土俵のようなものを感じることがあります。それが、私を含めた四人に共通の宮内幼稚園で受けた教育です。

宮内幼稚園教育の伝統を一言でいえば、ひとりひとりの心の動きを大切にしながら子どもたちに接するということでしょうか。そうして育てられることで、自分の心を大切にし、相手の気持ちを尊重することを学びます。

心は身体と別物ではありません。心と身体はつながっています。

 

まるで
  体は
  心の固まり
  心は
  体の風 (夏目祭子

 

風はたやすく他の風と交じり合います。固まりである体の方向から見ると人間はそれぞれ個々人ですが、風である心の方向から見ると、自分と他人の区別はあいまいです。いつのまにか自分が他人になり、他人が自分になったりもしてしまっています。同じ匂いの風の吹き合わせ、わが子に自分を感じる時です。

心の方向から見ると、親にとっての子どもは、境目のはっきりしない自分自身の延長です。わが子を通して、親は世界の広がりを体験することができるのです。それが子どもを持つことのいちばんの意味かもしれません。

子どもさんの宮内幼稚園での学びを土台に、これからも親子共々心を合わせて、世界の広がりを体験していっていただきたいと願っております。

 

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238:mespesado :2020/05/17 (Sun) 08:07:26
亀さんとこの最新エントリー↓
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1752.html
の4番目の西田さんと安藤さんの対談↓
https://youtu.be/J0crFV6uFoI
がすごい!
 見る前は、国会議員の中で正しい貨幣理論を真に理解して色々発信しているご両人が対談するんだからどんな話になるのかと思って見てみたら、期待以上の内容だったので感動しました。
 単に貨幣・経済の話だけでなく、その前段ともいうべき人類の哲学の話が主体で、とてもよかった。この二人はそういう哲学的なバックグラウンドがあるからこそ、正しい貨幣理論の話に食らいついて、それを世間に広めなければならないというインセンティブを持つことができたのだろう、ということが真に納得できました。

241:mespesado :2020/05/17 (Sun) 09:06:11
>>238
 そこの榊淳司氏の動画もよい↓
https://youtu.be/d8X-tzJ2tCA

 人間の欲とは何ぞや、という根幹にかかわる話ですね。
 で、思うに、確かに貨幣の正しい理論を知るのももちろん大切だけれど、それが本質ではない。
 仮に今後貨幣の電子化が進んだり、何かのはずみで政府が積極財政に転じたとしても、それでめでたし、めでたし、とはならないだろう。
 なぜなら、人々は「オカネ」が欲しいんじゃなくて、実は「欲」を満たしたい、というのが根底にあるから、仮に「オカネ」が意味を失うようになったとしても、絶対に「オカネの代わりになる、何か別の『欲』を満たせるもの」を探し出して、今度はそれに執着するだけだろうから。
 例えばバブルの頃、民間人は給料がうなぎのぼりの時代、公務員の給料はそこまで急に増えないので公務員が民間人を嫉妬していた時代だったと思うが、官僚さんたちはこんなことを言っていましたよ:「我々公務員は、給料のことを考えたらバカバカしくてやってらんない。だから民間人に対する権限を行使することに生きがいを持つしかないんだ」と。
 これの権化が財務官僚でしょうが、彼らは「オカネ」が自分の実力で自由に増やせないとなったら「権力」「権限」に「欲」の対象を移す
 それから新自由主義の時代の経営の「成功者」もそうで、彼らは逆にオカネは好きなだけ稼ぐことができてしまっているので、逆に自分の「オカネ」を増やすことには興味が無く待ってしまう。その結果、「自分と一般人との間に『経済格差』があること」が彼らの新しい「欲」になる。その結果、彼らは「働かざる者食うべからず」論や「格差があって何が悪い。能力がある者が豊かになるのは当然だ」←裏を返せば「オレサマのような能力が無い人間が豊かな暮らしができたら悔しい」になってしまう。これこそ新自由主義者の「事の本質」だと思うのです。
 カネ儲けに無縁に見える学者だってそうで、真実の追及を諦めて財務省のような「権力者」の御用学者になるような人はもちろんそうだけど、そうじゃない、一見「オカネに無関心」に見える学者の中にも、今度は「学問的な業績を上げてナンボ」と考える学者。← 一見するとまともな考えで、それが学者の本領ではないかと思うかもしれないが、これとて、「学者仲間に高い評価を受ける」ことが彼らの「欲」になってしまっている
 私も自分は学者ではないが、数学の世界での学者の「業績」とそれに対する「評価」についてはよく見えるのだが、彼らはとにかく「未解決問題」、例えば「フェルマー予想(解決済み)」や「ポアンカレ予想(これも解決済み)」や「リーマン予想(これは未解決)」とかなんとかを解決すると「すごい」と言われ、高評価を受けるのだが、私はこういうのにはほとんど興味がなく、それよりも数学という学問の「本質」とは何か、ということを究明する方が好きなのだが(その観点で言うと、数学者より数理論理学者の方が好きだし、数理論理学者の中でも「不完全性定理」でその分野で専門家以外の間でも有名なクルト・ゲーデルよりも、論理というものの本質をかなりのところまで暴いたゲルハルト・ゲンツェンの方が好きです)、どうもそういう研究は「地味」だと捉えられているのが「何だかなぁ」と思うのである。
 それから、ちょっとメールによる宣伝の中で見たのだが、「出羽守」の一種だと思うのだが、大学教育の話で、日本では「学者が『不出来』な学生をバカにする」のに対し、米国では「学生が『不出来』な学者を評価して、その評価値で学者のボーナスが査定される」というのが事実だそうで、日本のような学者が例えば授業でイネムリしたりする学生をバカにするのはテメエが退屈な授業をしてるからそうなるので、それは自分の責任だろう、だから米国の制度の方が望ましい。また、学生に対する評価だって、米国の方が厳しく、レポートが不出来だったり替え玉レポートとかだと平気で退学させられる、だからこの方が大学として本来の姿だ、という米国「出羽守」論が書かれていた。
 しかし、これ↑も、まさに米国流の「実力主義」の典型であって、これも「能力」「成果」を挙げることが偉いことであって、そうなることを推奨する。しかし「すべての学生」が「能力」があって「成果」を挙げることなどできるわけはなく、結局これも「一部の成功者」だけにスポットを当てて、その「一部の限られた人」になることが「欲」になっているわけだ。私は日本の大学のような、入試で入るときだけ大変で、一たび入ってしまえば「ところてん」なのがいいとも思わない。それはそれで「真実を追求したい」人のインセンティブを叶えてくれない、「質の悪い研究機関」になり果ててしまうからだ。しかし逆に米国のように「真実を追求したくても、『能力』が無いと周りに『判定』されたばっかりに、研究者として学問を続けることを強制的に断念させられてしまう世界」がいいとも思わない。
 学問をしたい人は自由に研究でき、その真実の追及のための情報や刺激には溢れているが、かといって「成果」を無理に求められない、そんな大学教育が私の考える理想ですかね…。
 要するに「欲」に囚われているうちは、「己」に対する「執着心」でしかないのであり、それを乗り越えて、というか、精神レベルでそれを超越したところ、つまり「自分」と「他人」にもはや区別がない心境(これはよく勘違いされるところなのだが、「利己主義」vs「利他主義」というと、後者が「自分を犠牲にして他人のために尽くす」という意味に取られることが多いのだけれど、ここで言う「自分と他人の区別がない」世界というのは、別に他人のためになることが、自分の犠牲によるものではなく、他人のための行為と自分のための行為に区別が無くなり、そんな「利己」「利他」などという意識など最初から消えているような状態、とでもいうべきもの)に至らないと、この「欲を追求する」呪縛からは逃れられないのではないかと思うわけです。

242:堺のおっさん:2020/05/17 (Sun) 09:18:33
>>241 メッさん
究極の欲とは
国や世界を丸ごと支配するという欲です。
ある新自由主義者の大富豪が言っていた…
自分の王国を作りたい…と。
その王国の元では人々は幸せに暮らすのだ…と。
究極のビジネスとは、国家を丸ごと破壊して丸ごと収奪すること。
地域紛争であれ、大戦であれ、目的は同じでしたね。
欲もここまでデカいと、人々の中にはそうした企みを
英雄的と勘違いしてしまうものでもある。

243:mespesado :2020/05/17 (Sun) 09:48:12
>>242
 DSの論理ですね。
 ロスチャだろうが、ロックフェラーだろうが、他の一般に知られていない「名家」も同じでしょうが、「欲」の中でも「支配欲」という分野の権化がそれでしょう。「欲」の中でもスケールが一番デカいし、多くの人に影響があるという意味でもそうかもしれない。「究極の欲」というよりは「スケールがデカく見えて、しかも大勢の人間に影響力がある」という分野での「欲」というべきか。
 しかし、現代の情報社会では、「マスコミ」の方が「ロスチャ」や「ロックフェラー」より影響力が大きいようにも見える。>>237 のマスコミ洗脳もその一例です。しかし、最近はネットの進化によりマスコミの力が失墜しつつある。しかしこれだけ真相がバレても、DSの力は衰えない。彼らもかつての単なる「領土支配欲」から時代を読んで、一番効果的な「支配」方法を探りながら手段や対象を変えて「支配欲」を満たすべく環境に順応してきた。彼らにまともに抗おうとしたって、一般人にはムリ。それより彼らの支配など「意味が無い」ように精神世界でレベルが上がってしまうことしか、彼らの支配から逃れるすべは無いような気がします。というか、彼らの支配から逃れることが「最終目的」ではなく、「精神レベルが向上すること」が最終目標なんですから、DSとかをまともに相手にするんでなく、精神レベルの向上に目を向ける方が「精神衛生上」も得策でしょうね。

244:堺のおっさん :2020/05/17 (Sun) 13:20:54
>>243
衣食足りて礼節を知るとも言います。
精神世界の向上もこれなくしては
大多数のものとはならないとも思います。


246:mespesado :2020/05/17 (Sun) 13:57:20
>>244
 国民の精神の向上が無ければDSにやられてしまう。
     ↑ ↓
 DSが弱くならなければ積極財政政策が取れず、国民が「衣食足り」ず、「礼節を知る」つまり「精神が向上する」ことができない。
↑まさに、「ハマグリ」と「シギ」だなぁ。あんまり膠着状態が続くと、中共という漁師に丸ごと捉えられてしまうかも

247:mespesado :2020/05/17 (Sun) 18:00:57
無条件ベーシックインカム&住民投票
https://twitter.com/democracy_2008

> 労働教:働かざるもの食うべからず

> 地球上でもっとも信者の多い宗教。美徳・道徳の一つ。

> 労働教に入信すると、少しずつ肉体と精神が破壊されていく。
> 全人類のうち、100%近くの人が労働教を信仰しているので、人間の肉体
> 的・精神的破壊が止まらなくなっている。

↑こんな感じで、なかなかスカッとするアカウントで、面白い。



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