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池黒羽黒神社神像 [地元の歴史]

皇大神社神像DSCF0109.jpg皇大神社神像DSCF0105.jpg《一度拝すると、やや悲しげな目と、つつましやかな口元の表情は強く印象に残って離れない。》(『南陽市史』上巻 514p)と錦三郎先生が評された池黒羽黒神社神像。私も平成25年に初めて拝した時、一木造で57cmというが、もっと小さい印象で「愛らしい」と思った。(ガラス越しの撮影なので蛍光灯が写っている。)池黒羽黒神社は、皇大神社から登った上ノ平(うわのだいら)にあった古社。明治35年に社殿が大風で吹き飛ばされたため、そこの石祠にあったこの神像、今は皇大神社所蔵になっている。元来神社のご神体は鏡・玉・剣であったが、平安前期以来の本地垂迹説によって、神社にも仏像にも似せた神像が祀られるようになったという。神像と仏像とどこで分けるのかわからないが、神社にあったので「神像」ということになっているようだ。『宮内町の文化財』(昭40)に「羽黒神社の神像と三堀観音堂の諸像」(佐藤東一)という論考があり、その中には《羽黒神社の神像の場合は、菩薩形の仏像と観られるものである。》として、《本像の場合、両腕の切断面を熟視することによって、右手施無畏、左手未敷蓮華の印相の聖観音(或は正観音)と推測してよいのではなかろうか。》とある。そこでネット上で観れるこの像に似た聖観音をいくつかあげておきます。
富山市男女神像.jpg木造制観音菩薩 かすみがうら市.jpg妙音寺 聖観音像.jpg佐藤東一氏は《諸社に、必ずしも国風の神像ではなく、本地の仏像をみるに至った藤原末期のものとみられる本像においては、神像の端厳さをかたどった故でもあろうが、眉は鎌倉期の眉に近く、耳朶また鎌倉期諸像のそれに似るものがあるのは、藤原風を濃くみせながらもようやく時代が次の鎌倉時代に近づいてきたころの造顕に係ることを示すものであろう。》と記している。

先記事(「韓志和」とは(池黒皇大神社))を、ここまででも十分すごいのだが、さらにすごい展開がある。》と締めてこの記事につづいたのだが、それは、清野春樹氏がこの神像を韓志和の作ではないかと推量していたからである。そこで韓志和がつくった像なり彫刻をネット上で見つけることはできないかと思ったが、それはない。ネットで見る限り、韓志和は伝説上の人物である。それだけに棟札に「木刻師 韓志和」と記されていることの意義は大きい。ただし、韓志和が生きたと思われる年代(820年頃)と棟札の応徳3年(1086)のずれをどう解釈するか。

実は宥明上人と長南年恵さんを顕彰する御社(おやしろ)が飛騨の匠によって南陽市内に造られる計画が進行している。まさにこの時期に韓志和と南陽との関わりが浮かび上がってきたことに「不思議」の感を深くする。今後どんな展開があるのだろうか。


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