「王毅氏へー王道アジア主義こそ」(坪内隆彦) [日本の独立]

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王毅氏は、日本の米国追従ぶりを「頭を金髪に染めても鼻を高く整形しても西洋人にはなれない」と皮肉った。この発言を受けて米国高官は、日本人をかばうかのように「人種差別」と反応した。それに対して坪内氏は、王毅氏発言にあった「欧米人は中日韓の区別がつかない」という前段の言葉に注目する。そして岡倉天心が「東洋の美」と言い、あるいは西郷隆盛の「東洋の道義」と言った東洋的価値観による、欧米の覇道の克服をこそ目指すべきとする。曰く《私が貴殿に書簡を認める理由の一つは、かつて「新しいアジア主義」を提唱した貴殿に東洋の誇る王道思想について改めて考えていただき、貴国の外交政策を省みていただきたいからです。》王毅氏が駐日大使時代の2006年の講演「アジアの中における日中関係の果たす役割」を踏まえてである。《新しいアジア主義を提唱した貴殿には、日本に存在する王道アジア主義の系譜について理解を深めていただき、日本人が果たした役割について正当な評価をしていただきたいのです。》
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日本における「王道アジア主義」の源流に在るのが旧米沢藩士宮島誠一郎であり、曽根俊虎であった。(雲井龍雄も忘れてはならない!)その精神は孫文に通底する。《「あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質をもっています。日本がこれからのち、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです。」(「神戸高等女学校における孫文講演」1924)》
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戦後、石原の遺志を背負って日中国交正常化を成し遂げたのが、わが山形二区選出代議士木村武雄だった。《木村は石原莞爾の思想を体現するために、田中角栄政権樹立に奔走し、日中国交正常化に力を尽くしました。正常化の4ヶ月後の1973年1月18日、木村は北京を訪れ、人民大会堂で周恩来と会談しています。会談は5時間にも及んだといいます。木村と対面した周恩来は、開口一番「今、日本の東亜連盟の同志はどうしていますか」と尋ねました。》周恩来にとって、日中戦争をくぐり抜けながらも、「王道アジア主義」の流れを汲む東亜連盟の同志たちは親しい人たちだったのだ。
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坪内氏は訴える。《果たして現在、貴国に武力や経済力を抜きにして他国を心服させる理想、道義、そして志はあるのでしょうか。是非、歴史を踏まえつつ、真に正統たる王道は何かについて、ともに理解を深めていこうではありませんか。》!!・