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『雄飛せよ!龍雄の詩魂』(3)龍馬と龍雄 [雲井龍雄]

坂本龍馬座像 慶応3年頃.jpg今朝の『陥穽』に、《我隊中数十の壮士あり、然れども能く団体の外に独立して自から其志(そのこころざし)を行ふを得るものは、唯余と陸奥あるのみ。小二郎は、龍馬が残したこの言葉を遺言、贈物として受け取った。「其志」とは何か? 「船中八策」と「合議政体」の思想に他ならない。それを継承するつもりで、小二郎は「藩論―もう一つの愚案」「船中八策」が新しい国家の政治大綱だとすれば、「愚案」は海援隊のビジネス綱領を書いた。》(「陥穽」(247))とあった。
「船中八策」について。海上の嵐の中で生まれた「船中八策」は、朝廷を中央政府とした上で、「上下議政局」という議会を設け、憲法を制定し、法に基づく新しい国家を構想するものだった。朝廷と幕府という二重権力構造を克服する平和革命の道を示した"八カ条"は、河田小龍(しょうりゅう)、横井小楠(しょうなん)、勝海舟に連なる「海局」の思想が結実したものと言えよう。龍馬は「海局」のエンジンとして働いた。倒幕挙兵に動いて薩土密約を画策した中岡慎太郎も、「船中八策」に基づく龍馬と後藤の説得を受け入れ、土佐藩前藩主山内容堂をも動かして、(慶応3年)六月十七日、土佐藩は、「大政奉還」を藩論として決定した。動きは迅速である。六月二十二日、龍馬と後藤、中岡は、薩摩藩小松帯刀、西郷、大久保利通らと「船中八策」をもとに会談し、先の倒幕の密約を解消して、「大政奉還」を視野に入れた薩土盟約を新たに結んだ。》(「陥穽」(238))《龍馬は「王政復古」後の「船中八策」の実現を間近なものと信じている。しかし、一旦矛を収めたかに見えた西郷や大久保、岩倉らに率られた武力倒幕派によって、やがて「船中八策」、龍馬の「海局」がズタズタに切り裂かれ、葬り去られて行く過程を見ることは出来ない。龍馬という"自由な存在"は、元より幕府にとっても鬱陶しいばかりか目障りであった。幕吏は常に彼を見張っていた。》「陥穽」(241)
坂本龍馬の死は、慶応3年11月15日(1867年12月10日)。
《陸援隊が高野山に向けて京をたった翌日(十二月九日)、岩倉、西郷、大久保を中核とする武力倒幕派の主導の下に、「王政復古」の大号令が発せられる。龍馬の復讐戦「天満屋事件」の二日後のことである。明くる一月三日に鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争が始まる。龍馬は幕府が放った刺客によって暗殺され、彼の命(いのち)であった「船中八策」は倒幕派によって葬られたのである。全ては連動している。》 (「陥穽」(246)
同時期の雲井龍雄、此の志を成さんと欲して 豈躬を思わんや/骨を埋む 青山碧海の中/酔うて宝刀を撫し 還た冷笑す/決然馬を躍らせて 関東に向う》客舎の壁に題す龍馬と龍雄のリンク。当時の空気が伝わってきた。龍雄の「志」が見える気がする。辻原登『陥穽』がすごい。
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雲井龍雄墓地 .jpg8 常安寺 雲井龍雄墓(小島家墓所)

 明治4年4月、龍雄の義弟吉田龍蔵が、小塚原回向院の墓地から龍雄の頭髪を密かに米沢に持ち帰りここに埋葬、墓石が建てられました。「義雄院傑心常英居士」と刻まれています。
 『雲井龍雄の詩魂と反骨』で村上一郎が《わたしは古今東西、最高の絶命詩の一つと信じている。斬首に当った八代目浅右衛門の談に、神色自若、まことに敬服に耐えなかったというのも誇張でなかろう。》と称えた「辞世」を鹿又源岳が吟じます。 
 
⑨   辞世

死して死を畏れず 生きて生を偸(ぬす)まず
男児の大節 光(ひかり)日と争う
道の苟直(こうちょく)鼎烹(ていほう)を憚(はばか)らず
眇然(びょうぜん)たる一身 万里の長城
 
《この詩は述懐とも辞世とも題せられて伝えられてきたが、「渺然一身万里長城」と咄(とつ)として、何故に万里の長城を龍雄が見るのか、長いあいだ 疑問であった。真蹟の詩の終りに龍雄拝とあるのも解きかねていた。が、最近あるとき、フッと二つとも疑いは消えた。それはこうだ。 /龍雄が獄中で この詩をうたうとき、牢格子を隔ててこれを聴く一人の男がいたのである。その名は囃雲曽根俊虎。この詩はまさに米沢の男が、米沢の男に志をつた える絶命の詞に他ならない。龍雄は、燈下ひとり剣に看た清国への想いはやまなかった。いま幽明相隔てようとするときに、二人の間に万里の長城は あらわれ、延々とつづいたのである。荘厳な儀式というべきである。龍雄が死とともに天に騰ると俊虎は一躍して清国に渡って万里の長城の雲に嘯(うそぶ)いた。》(尾崎周道『志士・詩人 雲井龍雄』) 
雲井龍雄之墓 .jpg9 常安寺 雲井龍雄新墓所

 昭和5年2月、龍雄六〇年忌に際し、登坂又蔵米沢市長が中心になり雲井会が結成されました。その行事の一環として谷中の墓地にある龍雄の頭骨がこの地に移され11月16日納骨式が行われました。その後今に至るまでこの場で龍雄慰霊祭が行われてきました。
 ここでは龍雄に捧げられた、米沢藩士であった 山吉盛義による「祭文」を全員で吟じます。
 龍雄の死後18年を経た明治22年(1889)、大日本帝国憲法の発布に伴う大赦令により、内乱に関する罪がすべて法的に消滅したことを機に、龍雄の墓前において同志、知人による供養祭が行われました。その時龍雄を偲んで読まれた祭文です。 

義雄院傑心常英居士 .jpg⑩  「祭文」    山吉盛義

 山は頽(くず)れ 騫(か)くるどいえども  精霊は 湮(き)えず
 河は涸(か)れ 涓(しずく)なるといえども  名と声は 淪(しず)まず
 先生の人となりや  才気絶倫
 夙(はやく)より 時の賢と交わり  志は済民にあり
 誓つて世の塵を掃(はら)わんとす  斯(こ)の志は伸びず
 時命已(すで)に屯(なや)む  鼎鑊(ていかく) 前にあり
 嗟(ああ) 傷ましきかな 天よ  先生にして然(しか)り
 行い 苟(まこと)に真  その事 伝ふべし
 魂は 九昊(きゅうてん)に升(のぼ)り  魄は 重泉に帰す
 桑海は変遷するも  凛乎たり 墓田
 維(これ) 已丑(きちゅう)の年  大赦の令 宣せらる
 月 始めて 円(まどか)と成り  花 始めて 春にめぐる
 同志 百千  茲(ここ)に吉辰を撰(えら)び
 敬(つつし)んで  逗筵(とうえん)を具へ 欣(よろこ)びて 蘋蘩(ひんぱん)を供す
 霊や 神あらば  庶幾(ねがわく)は 旃(これ)を饗(う)けよ
 
(大意)
山は崩れ姿を失くしても、人の精神は決して消え去りはしない。
川は枯れて流れが消えても、多くの人からの尊敬と評価は消えることがない。
雲井龍雄先生の人となり、その才においてもその気概においても抜きんでていた。
若くして、時代の先進たちと交わり、その志は、世のため人のためを目指していた。
世の汚れを祓うことを深く決意していたが、その志が十分に達せられることはなかった。
時の命運ついに尽き、処刑のやむなきに至った。
ああ、なんと痛ましいことか、天よ。雲井先生が、このような運命だったとは。
その行動、生きざまは、まことに真実なものだった。
そのことを後世に伝えねばならない。
その魂は天上に昇り、魄体は黄泉の国へと帰っていった。
世の中は移り変わってしまったが、その墓前にたたずめば、いまも雲井先生の凛とした心が伝わってくる。
今年、明治二十二年、憲法発布による大赦令によって、雲井先生に対する内乱の罪は消滅した。
月は、ようやくにして丸くなり、花は、ようやく春を迎えて咲き誇る。
ここに、同志、千数百人、良き日を選びて相集い、
謹んで供養のための祭壇をつくり、ささやかな捧げものを供える。
雲井先生の御霊よ、ここにおられるならば、どうかこの供養を受け給わんことを。
雲井龍雄蔵全景 .jpg10 常安寺 雲井龍雄銅像
 
 今年五月、NPO法人雲井龍雄顕彰会によって雲井龍雄銅像が完成しました。顕彰会は、2021年の雲井龍雄没後150周年の銅像建立を目指して、龍雄の遠縁(母親の実家の流れ)屋代久氏を中心に結成され、建立費約6百万円は全国約160人からの浄財によります。像は、福島大学人間発達文化学類教授新井浩氏による制作で、龍雄と等身大の約160センチの高さ。激動の時代、大志をもって駆け抜けた龍雄の勇姿が表現されています。
 雲井龍雄の遺蹟を巡る吟行、その最後は「雄飛せよ!龍雄の詩魂」のテーマにふさわしい詩で締めようと思います。
 明治3年3月、船橋海岸の鷺沼で心通い合う仲間たちとの宴席を設けました。この会合は「稲屋の軍議」として後に反逆謀議の場として語られることになるのですが、この時の参加者の士気鼓舞のために吟じられた詩として知られます。酔った勢いで龍雄の根っこの思いが迸(ほとばし)ります。雲井龍雄の魂は、戊辰の戦さ敗北無念の思いの先では、アジアからさらにウラルを越え、勇躍世界へと羽ばたいていたのです。その思いは、龍雄を慕ってやまなかった曽根俊虎を通じ、明治から昭和へ、真のアジアの平和を願うアジア主義の一大潮流をつくることになるのです。
 吟行「雄飛せよ!龍雄の詩魂」の最後は、龍雄の雄図迸(ほとばし)る壮大な詩「白梅篇」より、その末尾の八句を引いて横尾強岳が吟じます。 
 
(11)「白梅篇」 より

聞説(きくなら)く八小州の外別に五大洲有り 長風放つに好し破浪の舟
烏拉(ウラル)の山太平の海 去つて一周せん全地球
一世の俊髦(しゅんもう) 盡(ことごと)く臂(ひじ)を把(と)り
萬国の奇勝 盡く眸(ひとみ)を属(しょく)す
然る後に故山に税駕(せいが)して 瀟洒松菊に伴(ともな)はば
一世の能事 庶幾くは将に始めて休まん
「白梅篇」 (会旧部曲将校於鷺湖置酒更盟酔後認之)
少小読破万巻書     少小 読み破る 万巻の書
欲討聖源溯泗洙     聖源を討(たづ)ねて 泗洙に溯(さかのぼ)らんと欲す
道與世背無所用     道 世と背いて 用ふる所なし
豪宕卻是一侠徒     豪宕(ごうとう) 卻(かへ)つて是れ 一侠徒
破産傾身多結客     産を破り 身を傾けて 多く客と結び
奮為六王進奇策     奮つて 六王の為に 奇策を進む
山東豪傑半属望     山東の豪傑 半ば望みを属(しょく)す
共謂秦兵撃可卻     共に謂ふ 秦兵 撃つて卻(しりぞ)く可(べ)しと
縦散約解壮図休     縦(しょう)散じ 約解けて 壮図休し
去向江湖没我跡     去つて 江湖に向かつて 我が跡を没す
一朝自悔心恍然     一朝 自ら悔いて 心(こころ)恍然
深羞平生気宇窄     深く羞づ 平生 気宇の窄(せま)かりしを
君不見有窮之女字嫦娥  君見ずや 有窮の女(むすめ) 字(あざな)は嫦娥(じょうが)
一飛去奔月為家     一飛 奔(はし)り去つて 月を家と為す
我亦将高探其窟     我も亦 将に高く 其(そ)の窟を探り
手拗天桂折其花     手に天桂を拗(よ)ぢて 其の花を折らんとす
又不見緱山仙子其名晋  又 見ずや緱山(こうざん)の仙子 其の名は晋
駕鶴縹緲截雲陣     鶴に駕して 縹緲(ひょうびょう) 雲陣を截る
我亦将遠窮八紘     我亦(また) 将に遠く 八紘を窮め
横絶弱水進我軔     弱水を横絶して 我が軔(じん)を進めんとす
聞説八小州外更有五大洲 聞説(きくなら)く 八小州の外に 更に五大洲有りと
乗風好放破浪舟     乗風 好し放たん 破浪の舟
烏拉之山太平海     烏拉(ウラル)の山 太平の海
去矣一周全地球     去つて 一周せん 全地球
一世俊髦盡把臂     一世の俊髦(しゅんぼう)盡(ことごと)く臂(ひじ)を把(と)り
萬国奇勝盡属眸     萬国の奇勝 盡く眸(ひとみ)に属(しょく)す
然後税駕故山瀟洒伴松菊 然る後故山に税駕(たつが)して瀟洒松菊に伴(ともな)はば
一世能事庶幾将始休   一世の能事  庶幾くは将に始めて休まん

(「白梅篇」大意)
少年の頃から万巻の書物を読破してきた。人が正しく生きる道の源を求めて、孔子などの古の聖人の淵源にさかのぼり士道を身につけようと努めてきた。
けれども、私が求め生きようとした道は、この時代と社会とは背反してしまっていて、なんら用いられることはなかった。豪気なる気概の赴くところ、かえって一無頼の徒ということになってしまった。
財産は無くし、身代は傾いてしまったが、多くの同志との交友を結んだ。(中国古代の戦国時代の秦と六国のように)奮って奥羽列藩同盟などの諸侯のために薩長打倒の機略をめぐらした。
多くの豪傑たちと共鳴しあって望みを同じくし、共に薩長撃破を語り合った。
しかし、戊辰の戦は一敗地にまみれて盟約は解消し、壮図は潰えた。 表舞台から消えて、市井に身を隠すことになった。
しかし、ある時、そうして市井に身をかくしてくすぶっている自分を、深く反省し、心目覚めた。 深く恥じる、なんとこれまでの自分の気持ちが狭かったことかと。
頭をめぐらして見てみよう、古代中国の神話の有窮氏の娘嫦娥、ひとっ飛びして月まで到り、月を家にした。
私もまた、高く月に行って嫦娥の家を探し、月面に生えているという桂の木に咲く花を手にしよう。
さらに見てみよう、 古代中国の神話の、周の霊王の太子・晋は緱山に住み、 鶴に乗って雲海を渡り自在に天空をかけめぐったという。
私もまた、遠く、この世界中を駆けめぐって究めつくし、 仙人の住む地に流れるという弱水の川を渡り、私の歩みを進めよう。
常々話には聞くけれど、 この小さな大八洲(おおやしま)日本列島の外には、
五つの大陸があるという。大波浪の中に帆を張り風を受けて、旅に出よう。
ウラルの山脈に太平洋、 それらを越えて全地球を一周しよう。
この時代に生きる多くの国々の優れた人物たちと親しく交わり、 世界中の絶景名勝のことごとくをこの目で見よう。
そうして後、故郷に落ち着き、瀟洒な家で悠々自適して松や菊と共に過ごすことができたら、 人生やるだけのことをやったと、はじめて心残りなく休みたい。
雲井龍雄の魄体虚しく刑場の露と消えて150年、しかし龍雄の魂は、その渾身の詩を通して今なおいよいよ、私たちの精神を奮い立たせてやみません。
 龍雄の霊に深い黙祷を捧げて、宮内岳鷹会の吟行「雄飛せよ!龍雄の詩魂」を閉じたいと思います。

   黙祷–  

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めい

《泰西の賢人、謂(い)へらく。――自然状態におきて人自ずから平等なものとして生まれども、人、自然に止まることを得ず、必ず社会(Society)を成す。社会必らず平等を失わしめる。そして、人は法によってのみ再び平等となる、と。》

   * * * * *

辻原登「陥穽」(240)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFG00020_Q3A031C2000000/

「商法の愚案―新しい世界を目指して―」には、海援隊の商社活動について、三項目にわたって詳細かつ明快に記されていた。そして、海援隊商事部門は商法に明るい者に委ねるべきである、つまり筆者が担当すると宣言して締めくくり、「陸奥源二郎宗光」と署名していた。陸奥宗光の名の初出である。

小二郎はこれを龍馬に提出した。龍馬は一読後、「商法ノ事ハ陸奥に任シ在之候得バ」(十月二十二日付)と書き送った。

しかし、小二郎は、「愚案」と併行して、「船中八策」と密接に関係する論文を起草していた。

彼はその文を次のように始めている。

人は日々に旧(ふる)く、物は日々新(あら)たなり。万物は流転す。之(これ)即ち天理に基づく自然の理であり、人間(じんかん)に於てもまた然り。高貴必ずしも才徳あるを生じず、卑賤の門に知才の生ずを見る。

四海同胞、平等也。天下国家においては、唯人民の心(Public Opinion)の向かう処に帰すべし。唯至尊(天皇)ノ為ニ帰スベキニアラズ。

(……)茲(ここ)において、長きに亘(わた)る諸藩の主従の関係を一新(Revolution)し、新たに各々対等の「盟約」を結ぶべし。「盟約」の下に人民徳望の帰する者を選び、議会を設け、法を定むべし。

泰西の賢人、謂(い)へらく。――自然状態におきて人自ずから平等なものとして生まれども、人、自然に止まることを得ず、必ず社会(Society)を成す。社会必らず平等を失わしめる。そして、人は法によってのみ再び平等となる、と。

小二郎はこの論考に「藩論―もう一つの愚案」と付して、無署名のまま龍馬の机下に置いた。
by めい (2023-11-28 06:15) 

めい

辻原登「陥穽」(225)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFG00016_W3A011C2000000/

   * * * * *

モンテスキューの『法の精神』を読了した。読了の記念として、小二郎は次のようなパラグラフを脳裏に刻んだ。

「自然状態では、人間は確かに平等なものとして生まれる。だが人間は、自然状態に止(とど)まることは出来ないであろう。社会は平等を失わしめる。そして、人間は法によってのみ再び平等となる」

   * * * * *

苫米地英人『超国家権力の正体』
https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2023-11-02
by めい (2023-11-28 06:21) 

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