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『雄飛せよ!龍雄の詩魂』(2) [雲井龍雄]

『雄飛せよ!龍雄の詩魂』(2)は、生家跡(袋町)、養家跡(舘山口 現海谷酒店)、米沢出立別れの場(土手ノ内 現安藤家)です。袋町の雲井龍雄生家跡は特定できませんでした。

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兜山を望む袋町 .jpg5 中島家(生家)跡

袋町 生家のあたり .jpg 雲井龍雄は、ここ袋町に、「貸物蔵役頭」を勤める父中嶋總右衛門、母ヤヲの次男として、天保15年3月25日(1844年5月12日)に生まれました。辰年の辰の日でした。幼い頃は負けず嫌いで腕白な性格でした。8歳で隣家の上泉清次郎の塾に学び、その優れた才能と胆力によって、清次郎から孟嘗君と呼ばれていました。清次郎の死後は山田蠖堂、曾根俊臣に師事する、14歳からは藩校「興譲館」に学び、好学の龍雄は興譲館の蔵書約3千冊のほとんど殆どを読破したといわれます。中島家の家督は長子寅吉が嗣ぎ、18の年、館山口町の士族小嶋才助の養子となります。
 戊辰戦争の敗北によって米沢は屈辱の中に生き延びる道を探らねばなりませんでした。龍雄の意思とは関わりなく時代は大きく変わってゆきます。安閑として米沢にくすぶりつづけることにがまんならぬ龍雄は、明治2年8月東京に出ることを決意します。米沢を発つにあたり、鬱勃たる闘志を叩きつけた渾身の詩を今野儀風が吟じます。

⑥   述懐

 慷慨山の如く 死を見るは軽し 男児 世に生れて 名を成すを貴ぶ
 時平らかにして 空しく瘞(うず)む英雄の骨 匣裡の宝刀 鳴って声有り
養家跡  .jpg掘立川から望む斜平 山.jpg6 小島家(養家)跡

 龍雄は18歳で叔父にあたる小島才助の養子となり、その後才助の病死により20歳で小島家の家督を継いでいます。昭和13年(1938)、龍雄を顕彰する碑が、小島家の跡に建てられました。
 三橋美智也や小椋佳によっても吟じられ、雲井龍雄の詩として広く知られたのが「棄児行」です。実際は龍雄の詩ではなく、米沢藩士原正弘の作とされるのですが、「棄児行」がつくられる背景には実際の史実があったのでした。
 慶応4年(1868)、龍雄は独自に遊撃隊を組織して新政府軍に抗しようとしたのですが、群馬沼田城下で敵に襲われ遭難、味方を失い敗残の身で会津へ戻る途中の道端で、迷子の七歳の少年に出会います。偶然にもかつて京で世話になった横山桂二郎の子横山銕四郎でした。龍雄は食うや食わずの敗残の身にも関わらず、銕四郎を米沢まで連れ帰ります。沼田城下で失った同志羽倉鋼三郎の跡を継がせようと羽倉鋼一郎と名のらせ愛育します。鋼一郎は龍雄没後、上村家へ養子に出され、刻苦して官界で名をあげます。鋼一郎は、よく米沢を訪ねて、龍雄の縁者を大切にしたのでした。
 多くの人に愛誦された「 棄児行」を橋下櫻岳、菅野俊岳が吟じます。 

⑦           棄児行

 斯の身飢ゆれば 斯の兒育たず  斯の兒棄てざれば 斯の身飢ゆ
 捨つるが是か 捨てざるが非か  人間の恩愛 斯の心迷う
 哀愛禁ぜず 無情の涙  復兒の面を弄して 苦思多し
 兒や命無くんば 黄泉に伴わん   兒や命有らば 斯の心を知れよ
 焦心頻りに屬す 良家の救いを  去らんと欲して忍びず 別離の悲しみ
 橋畔忽ち驚く 行人の語らい    殘月一聲 杜鵑啼く
雲井龍雄別れの場所 .jpg7 河村家(別れの場所)跡

 龍雄は政府転覆陰謀の廉で米沢幽閉の後、明治3年8月5日、刑の執行を俟つ東京へと送られます。龍雄の生涯を追った藤沢周平の『雲奔る』は、この日の朝の情景を胸迫る筆致で描いています。

《その日の朝、河村の家の前に、龍雄を東京に運ぶ檻車がきて止まった。武装した護衛の兵三十名が一緒だった。一群の人々が、家の前に塊っていて、その様子を眺めていた。河村の家の近所の人たち、館山口の龍雄の家の近隣の人、そして(養母の)お志賀、(妻)ヨシ、兄の久兵衛ら実家の人々がその中にいる。
 河村の家から出てきた龍雄は、人々をみるとゆっくり歩み寄った。龍雄は痩せていたが、河村の好意で髪を結い直し、家から運んださっぱりした衣服に着がえて、意外に元気そうに見えた。
 龍雄は一人びとりに丁寧に挨拶した。・・・ヨシの前にきたとき、龍雄はヨシにも軽く頭を下げた。・・・一度離れた龍雄に、ヨシが追い縋った。「お身体はいかがですか。大丈夫ですか」「大丈夫だ。心配はいらん」・・・檻車とそれを囲む護送の一隊が出発し、それを見送った人々が散ったあと、ヨシは志賀の眼を遁れて檻車の後を追った。・・・ヨシはしばらく小走りに道を走ったが、やがて苦しげに胸を押さえて立ち止まった。・・・この道を、あの人が帰ってくることはないだろう。・・・道をそれて畑に踏み込むと、ヨシは里芋の畝の間に蹲(うずくま)り、両手で顔を押さえた。芋の幅広い葉は、やや枯れいろが出始めていたが、丈高く地面を覆っていて、ヨシの身体を隠した。その陰で、ヨシは長い間ひっそりと欷いた。》(藤沢周平『雲奔る』)

 8月14日東京の米沢藩邸に到着した龍雄は、18日に小伝馬町の獄舎に送られます。龍雄は、獄舎から密かに人に嘱して、師・安井息軒に詩二篇を送ります。このうちの一篇は、後年、若き北村透谷が、深き感銘をもって、自分の作中に書き留めています。その最後の絶句を安彦岳悠、海老名海岳が吟じます。

⑧   蒼昊(そうこう)に訴えず

 此の骨縦(たと)えくだくべきも 此の節安(いずく)んぞ撓むべけんや
 我が命は我れ自ら知る 復た蒼昊(そうこう)に訴えず
呈息軒先生   息軒先生に呈す

身世何飄飄  身世 何ぞ飄飄たる
浮沈未自保  浮沈 未だ自ら保せず
俯感又仰歎  俯感し また仰歎す
心労而形槁  心は労して 形は槁(か)る
微躯一致君   微躯は一たび君に致してより
不能養我老  我が老を養うこと能わず
揮涙辞底闈  涙を揮って 底闈を辞し
檻車向遠道  檻車 遠き道に向かう
鼎鑊豈徒甘  鼎鑊(ていかく) 豈に徒(いたずら)に甘んぜんや
平生有懐抱  平生 懐抱あり
此骨縦可摧  此の骨 縦(たと)へ摧くべくも 
此節安可撓  此の節安(いずく)んぞ撓むべけんや
我命我自知  我が命は 我れ自ら知る 
不復訴蒼昊  復た蒼昊(そうこう)に訴えず

(大意)
 世の中というものは、 なんとつかみどころがないものなのか。
 ままならぬ浮き沈みのままにこれまで生きてきた。
 時にはうなだれ、ときには天を仰いで嘆くことばかり。
 つまらない我が身は、ひとえに主君のために用いて、
 親たちを養うこともできなかった。
 涙を振り払って親族たちと別れを告げ、
 囚人となって檻のついた車に乗せられ、処刑場への遠い道のりを行く。
 釜茹でのような極刑が待っていようとも、  平素からの信念がゆらぐことはない。
 己れの使命と天命は、私自身が知っている。
 ことさら天にすがって、己れの私の運命を訴えようとは思わない。

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