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『雄飛せよ!龍雄の詩魂』(1) [雲井龍雄]

雲井龍雄 ウィキペディア.jpg吟行『雄飛せよ!龍雄の詩魂』のために作成したパンフレットを3回に分けてアップしておきます。

左は表紙裏で、ウィキペディアを基にした龍雄の生涯です。写真は十数年前常安寺に行った時にいただいた絵葉書のうちの一枚です。たしかこの写真は常安寺所蔵とのことでした。唯一残された龍雄の写真と思います。

*   *   *   *   *

高畠 自性院 .jpg1.高畠自性院

 天領であった屋代郷3万石は、しばしば米沢藩を幕府側に取り込むために利用されました。龍雄はその警備のため、文久4年(1864)1月から1年間、21歳の年を高畠で過ごしました。その時詠んだ61首が「白田孤吟」として残ります。
 米沢藩領になることへの不満も多く、冷たい視線の中での任務でした。《その春浅く梅樹痩せる村里の貧しいありさまは、多感の青年に一種の社会正義を植えつけずにはおかなかったのではあるまいか。・・・龍雄の詩文にあらわれた限りでは、この人の万民の苦悩を己が苦悩とする精神は一生を通じて明らかである。》(村上一郎『雲井龍雄の詩魂と反骨』)とも評される詩を高橋桐岳、菅野正岳、山田凛山が吟じます。

高畠から置賜平野 .jpg
①   「白田孤吟」より
 
 新泥屐(げき)を埋めて 滑らかに 巡警 村衢(そんく)を歩む
 春浅うして 梅身痩せ 烟濃やかにして 柳髪濡る
 遥山低うして 垤(てつ)に似たり 平野濶(ひろ)うして 湖の如し
 樹に倚(よ)り 詩を吟じて立てば 嬌鶯 我に和して呼ぶ

北村公園 .jpg2 北村公園「討薩の檄」碑
 
 石原莞爾の遺志を継いで日中友好を実現した政治家木村武雄をはじめとする米沢の有志によって、昭和51年(1976)11月に「討薩の檄」碑が建立されました。
 「討薩の檄」は、奥羽越列藩同盟が官軍と戦った戊辰戦争に際し、官軍率いる薩摩藩の無節操と専横を指摘して同盟の正統性を訴えたもので、「古今檄文中の白眉」とされています。
北村公園碑 .jpg 慶応4年(1868)戊辰の年の5月、京にあって関東の動乱に居ても立ってもいられなくなった龍雄は、朝廷に宛てた決死の意見書提出の上、薩長の横暴に抗すべく拳を握りしめて決然関東に向かいます。その胸中を宿舎の壁に書きなぐった詩は、龍雄の代表作です。髙岡亮岳が吟じます。

②   客舎の壁に題す    雲井龍雄

 此の志を成さんと欲して 豈躬を思わんや 骨を埋む 青山碧海の中
 酔うて宝刀を撫し 還た冷笑す 決然馬を躍らせて 関東に向う


吉田松陰旅宿のち碑 .jpg3 吉田松陰投宿の地

 吉田松陰は、22歳の嘉永5年(1852)3月25日、米沢を訪れています。松陰は、30歳で小塚原で処刑されました。その10年後、同じく龍雄も小塚原で首を刎ねられます。関わりを怖れて引き取り手のない龍雄の遺骸は、奇しくも吉田松陰の墓の隣に葬られたのでした。志半ばに斃れた二人の縁(えにし)を思い、松陰の辞世を青木新岳が吟じます。

③   身はたとひ     吉田松陰

 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂

○雲井龍雄の師 安井息軒

 龍雄生涯の師 安井息軒は、鷹山公の出身藩である高鍋藩の隣藩日向飫肥(おび)藩の出です。天保13(1842)年の夏、鷹山公の偉蹟を慕って米沢を訪れました。
 短い龍雄の生涯における多彩な人脈の多くは、安井息軒先生の三計塾で得られたものでした。雲井龍雄の名は、塾に掲げられていた若き息軒先生の歌に由来すると考えられます。大宮優岳、菅野香岳が吟じます。

④   今はただ        安井息軒

 今はただ 忍ヶ岡の杜鵑(ほととぎす)いつか雲井に 名をや揚げなん 


法泉寺庭園.jpg4 法泉寺(「送釈大俊師」詩碑)

 法泉寺はかつて禅林寺と呼ばれ、直江兼続によって創建された学問所でした。龍雄が興譲館で読破した書籍は、この禅林寺所蔵の本でした。
 この境内に、昭和11年(1936)、「送釈大俊師」の碑が建てられました。揮毫は龍雄の生家の隣り上泉家から出た海軍中将上泉徳彌です。釈大俊は、不満鬱積の新政府下、龍雄が志を同じくして親しく交わった同志でした。
 この詩は、昭和天皇が皇太子時代、東宮御学問所御用掛として帝王学を講義した杉浦重剛が特に好み、ついに東宮殿下の御前にて詠じられる栄を得たと伝えられます。長い詩ですが、その冒頭を高橋紫風が吟じます。
 
法恩寺 雲井龍雄詩碑 .jpg⑤   釈大俊師を送る

 生きては当(まさ)に雄図四海を蓋(おお)ふべし
 死しては当(まさ)に芳声千祀(し)に伝ふべし
 功名遠く群を超ゆる有るに非ずんば
 豈(あ)に喚(よ)んで真の男子と為すに足らんや


生きては当(まさ)に 雄図 四海を蓋(おお)ふべし   死しては当(まさ)に 芳声 千祀(し)に伝ふべし     
功名 遠く 群を超ゆる 有るに非ずんば  豈(あ)に 喚(よ)んで 真の男子と 為すに足らんや      
俊師 膽(たん)は大にして 気は豪  世を憤つて 夙(つと)に 祇林(ぎりん)に入りて逃る    
津梁(しんりゃう) 有りと雖も 布(し)くに処(ところ)無し  奈(いかん)ともし難し 天下の滔滔たるを
惜む 君が奇才 抑塞(よくそく)して 逞しうするを得ず  枉(ま)げて 其の袍を方とし 其の頂を円くするを
何事ぞ 衣鉢 僅(わづか)に 身を潔くし   塩梅と為つて 大鼎を調(ととの)へざるを    
天下の溺(おぼれ)たるは 援(たす)けて収む可(べ)きも   人生 豈(あに) 志を得るの秋(とき)無からんや
或(あるひ)は 虎呑狼食 王土割裂するに至らば  八州の草木は 君が馬蹄の 踐蹂に任せん   
君 今 去つて向(むか)ふ 東海道   到る処(ところ)の山河 感多少   
古城 殘壘(ざんるい)は 趙か韓か   勝敗 跡有り 猶(なほ) 討(たづ)ぬ 可(べ)し   
参の水や 駿の山  英雄の起る処(ところ)は 地形好(よ)し
知る 君 此(ここ)に至らば 気は慨然   当(まさ)に悟るべし 大丈夫 空しく老ゆ可(べ)からざるを


男児たる者、生まれたからには、まさに天下を覆い尽くすような雄大なる構想を抱くべきだ。死ぬからには、まさに誉れ高い名声をいつまでも歴史に伝えるべきだ。
功名が、遙かに衆に抜きん出ていなければ、どうして真の男児と呼ぶことができようか。 
大俊師は、胆大きくてして、その気概において猛々しい。世を憤るがゆえに早くして仏門に入って世を逃れていた。 
衆生を救って、彼岸に導く手立てありといえども、それを広く行き渡らすことができない。 時代の滔々たる流れの勢いはどうしようもない。
あなたの世に稀な秀れた才気を抑えこんでしまい、充分に想いどおりに発揮させることができないことを惜しむ。 あなたは、本来の意志をまげて、その衣服を法衣に改めて、頭をまるめて僧侶となった。
一体どういうことなのか、僧侶としての勤行に励んで、ただ己の身を清くして。国家の大事に関わろうとはしないのか。  
天下が乱れ、世の中が溺れかかっている時にこそ、救いの手を差し伸べるべきである。人生に、どうして自分の志を行うことのできる時が無いことがあろうか。
もしや虎狼のごとき貪欲な輩が、我が国をほしいままにわがものにするような事態になれば、大八州の民草は、あなたの(指揮下の)軍馬の蹂躙するにまかせよう。 * 駿之山」といった戦国時代を想起する国名からすれば、或いは、関八州、転じて関東のことになる。 ・草:地面に生える雑草であり、或いは、民草ともとれる。その場合詩の意味が異なってくる。 ・任君:あなたの…にまかせる。 ・馬蹄踐蹂:軍馬の馬蹄が踏みつける。 

あなたは、今ここを去って、東海道に向かおうとしている。到る処の山河に触れて感じることも多いことだろう。 
古くなった城郭や崩れた砦は、どの諸侯(大名)のものなのだろうか。かつて勝敗を競った戦場跡は、なおも尋ねるべきである。 
徳川家発祥の三河の川に、駿河の山。英雄蹶起したところは、地形がよい。
あなたがそこに至れば、きっと意気が昂ぶり奮い立つことであろう。立派な男児たる者、無意味に老いてしまってはならないと悟るべきである。

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