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江戸時代の儒学とキリシタン(田中進二郎) [歴史]

田中進二郎著・副島隆彦監修『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』(電波社 2020.10)からは、いろいろ教えられた。キリシタンは地元史とも深く関わる。→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-10-21-1https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-11-01 田中氏は副島氏を導き手としながら江戸期儒学思想とキリシタンの結びつきに踏み込んでくれた。新たな視野が開けてくる。

儒学思想を介して神道とキリシタンとの親和性を思わされた。学術会議問題で一躍有名になった京都大学でキリスト教を講ずる芦名定道教授の高祖父は、青葉神社の初代宮司。芦名教授の叔母さん(キリスト幼稚園の先生)が私にとっての大恩師。私の精神史とも深く関わってくる。→「神道への回帰?」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2012-03-11あるいは 最近時折天行居の月例祭に参列していただいているNさんはキリストの幕屋の信者。おそらく「霊性」というレベルでつながっているのだと思う。竹本忠雄氏の『天皇霊性の時代』に、上皇后様がカトリックの環境に在られた若き美智子さまの時代、「‥‥神が至高の愛であるとすれば、神は予知しながら誤(あやま)つ人祖を創造し、その人祖の自由意志を与えて「悪」の選択を許されたのであろうか‥」とお思いなされて洗礼を踏みとどまられたことが感動的に記されている。最近トランプ革命で暴きだされたバチカンの闇を思うにつけても、若き上皇后様の深い霊性の確かさ鋭さを思う。でんでんむしのかなしみ.jpg上皇后様については以前こう書いていた。1998年ニューデリーで開かれた国際児童図書評議会の世界大会にむけて皇后が出された『橋をかける』というメッセージが紹介される。この大会のテーマは「平和」だった。皇后は、新美南吉の『でんでん虫のかなしみ』のお話の記憶を語られる。「かなしみ」の殻を背負って生きることへの不安にかられるでんでん虫が、悲しみを持たない人は誰もいないことを知る。そして、自分だけではないのだ。私は,私の悲しみをこらえていかなければならない。」と言って、もう嘆くのをやめるというお話。/皇后の言葉、「その頃,私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。だからでしょう。最後になげくのをやめた,と知った時,簡単にああよかった,と思いました。・・・この話は,その後何度となく,思いがけない時に私の記憶に甦って来ました。殻一杯になる程の悲しみということと,ある日突然そのことに気付き,もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが,私の記憶に刻みこまれていたのでしょう。少し大きくなると,はじめて聞いた時のように,「ああよかった」だけでは済まされなくなりました。生きていくということは,楽なことではないのだという,何とはない不安を感じることもありました。それでも,私は,この話が決して嫌いではありませんでした。」『橋をかける』)》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-12-30

 

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[2997]水戸黄門は隠れキリシタンだっただろう 投稿者:田中進二郎
投稿日:2021-02-25 07:45:39

田中進二郎です。

副島先生が投稿されている、
【2978]私たちは、日本の思想(史)の研究も続けます。もっと大きな、大きな構図で見なければいけない。
投稿日:2021-02-15
の一部を再引用しながら、書きます。どんどん副島先生が加筆されているので、驚きます。
私田中の書いた部分は、丸二日書いていた原稿が保存に失敗したため、
中途半端になってしまいますが、ご容赦を。

以下【2978】より引用します。

第1に。
私、副島隆彦にとっては、今日の最重要の課題は、「林羅山(道春、どうしゅん 1583-1657)は、耶蘇(やそ)=キリスト教を、何よりも一番に、恐れた」である。そして、その次に、「中国を覇権国(はけんこく)として認めて、日本はその歴代中華帝国の支配に、直接の服属はしないが、その周辺に存在すると認めた」ことである。

林羅山(はやしらざん。徳川家の思想顧問として京都から招かれた。昌平坂学問上の創始者。徳川幕府体制の理論の中心)が、熊沢蕃山(くまざわばんざん)の、「水土(すいど)論」を、耶蘇(やそ)=ヨーロッパのキリスト教だ、と、見抜いて、激しく論難、糾弾 した。 

 徳川幕府は、耶蘇(ヤソ)教、イエズス会、 (キリスト教は、正しくは、天主教と言う)が、死ぬほど怖かったのだ。日本にとっての、最大の敵は、西洋のキリスト教だった。中国に対しては、大きな劣等感を持って、日本は、中国文明の一部として、中国文化圏(中国の華夷=かい=秩序)に入っていた。誰も、この大(だい)事実を否定できない。

(以下【2978】の副島先生の文章を少し順序を変えてみますー田中進二郎)

 朱舜水が水戸に来た年の前年である、1665年に、山鹿素行(やまがそこう 1622-1685)は、播州(ばんしゅう)赤穂(あこう)に、幕府の命令で幽閉された。山鹿素行は、「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」を書いた。「中朝」とは、「日本こそが、世界の中心(センター)である」、「中国よりも、日本が、中国(世界のセンター)である」 、「日本が世界の中心である中国(ちゅうごく)だ論」を書いた。

 この山鹿素行の「中朝事実」、「日本が世界の中心である。中国ではない」は、日本人の、中国人への劣等感の裏返しである、この「日本が中国だ」論 の、スゴさと、腹を抱えて、転げ回りたくなるぐらいの、おかしさを、今の日本人である、私たちは、本気で噛みしめないといけない。 

 私、副島隆彦は、自分の「歴史に学ぶ知恵」(改題して、「日本の歴史を貫く柱」(PHP文庫、2014年)で、これらを書いた。

(副島先生が【2978】に加筆された部分を、一部挿入します。)
 
 私たちの日本国は、外側、すなわち世界、諸外国から見たら、どうしても王国(キングダム、モナーキイ)に見える。タイ国や、サウジアラビア国と同じだ。この、あからさまな真実を、日本人は、全員で、惚(とぼ)けて、知らん顔をして生きて来た。

 それは、今の日本の体制保守の頂点の者たち(すなわち、現在の林羅山=はやしらざん=)が、頭が悪いので、正直にきちんと考える能力が無いのだ。アメリカの支配を受けているので、知能が低下した。日本は、世界基準でものごとを考えることの出来る、本物の知識人がいない国だ。

 反共右翼たちに至っては、ただ、とにかく、「反(はん)共産主義の日本(アメリカよ、助けてくれ)論 」「日本は反共(はんきょう)国家だ」しか、提出しなかった。頭が元々、悪い人たちだから、これしか言えないし、考える知能がなかった。その代表が、まさしく、生まれながらに、学力が無かった安倍晋三だ。

 そして、今、世界覇権国(ヘジェモニック・ステイト the hegemonic state)であるアメリカ帝国に 動乱が起った。それに連れて、中国への世界覇権の移動が起きつつあることが、どんな日本人にとっても、頭をかすめる時代に突入した。中国が、私たちの目の前で、今も、どんどん大きくなっている。さあ、反共右翼の皆さん、どうしますか。

 (副島先生の加筆部分終わり)

 第二に、江戸時代初期に、日本の体制派の学者の頂点であった 林羅山は、不干齊ハビアンという、重要な、しかし、今も詳細が分らない、日本人の耶蘇(ヤソ)教徒と、論争している。 
 
 不干齊(ふかんさい)ハビアン(1565??ー1621)は、日本耶蘇会の修道士(イルマン)である。日本人イルマンは、宣教師(バテレン)の横にいて、通訳のような仕事もした、頭のいい者たちで、バテレンたちが頼りにした日本人だ。林羅山は、不干齊ハビアンと、1606(慶長10)年に、地球説について、論争した。

不干齊ハビアンは、宗教思想研究の山折哲雄(やまおりてつお)氏が、よく調べて書いている。不干齊ハビアンは、若い頃は、その優れた頭脳で、西洋学問を知って、「妙貞(みょうてい)問答」(1605年刊)で、キリスト教というよりも、西洋の近代思想を使って、日本の、神、仏、儒(神道、仏教、儒教)の3つともを木っ端微塵に批判した。林羅山とハビアン不干斎の地球論争はその翌年だ。
 

地球説とは、読んで字のごとく、この地球、当時は、大地、地上 は、球体であるか、の巡る議論である。日本の最高の学者を自認した、林羅山は、大地が球体(グローブ)である、という事実を、おそらく理解できなかったと思う。それでも、西洋の文献は、たくさん入っていたし、日本の国家スパイたちからも、いろいろと教えられていただろう。

 林羅山は、日本の体制思想を、必死で防衛しただろう。(以下一部略-田中)

【ここまで副島先生の御文章です。】

以下は田中進二郎筆

林羅山は京都五山の一つの建仁寺で学んだ。漢文を五行まとめて、一目見て覚えてしまう、というほどの秀才だったらしい。僧侶が、仏教寺院で儒学書を読み、儒学者になっている。

それに対して、キリシタン修道僧のハビアンは、南蛮人のバテレンから地球球体説を教わっただけで、彼らの説法を繰り返しただけであった。当時、ローマカトリック教会は、地動説を迫害している最中だった。

1597年ガリレオは天文学者ヨハネス・ケプラーに宛てた手紙で、「自分は地動説(太陽中心説)を信じる」と書いた。ガリレオは敬虔なユニテリアンだった。1600年ローマ教会は、地動説を主張したジョルダーノ・ブルーノをナポリで火炙りにした。ガリレオの異端裁判がこの時代に行われている。

林羅山に対して、ハビアン不干斎が、天動説を用いて、地球が球体であることを説明することは、ハビアン不干斎にとって難しいことだっただろう。林羅山はハビアンの球体説に対して、「馬鹿げた屁理屈」と嘲笑して、論争は林家側の勝利とされたようである。その後、ハビアンはキリスト教の信仰に疑念を抱き、二年後に棄教する。

●ここから【2978】の副島先生の文章のつづき

ハビアンは、それから15年後の、1620年に、「破提宇子(は、デウス)」という本を書いた。この破(は)は、「破る」で、デウス(提宇子)は、キリスト教の、大神(たいしん)で、天(てん)のことだ。 「神(ゴッド、デユー)を3つで1つとする」「三位一体(トリニティ)の、「父(天 )と、子(イエス)と、精霊(せいれい)」の 「父、天、パッパ」のことだ。16世紀に、日本に来た、バテレン(宣教師)たちは、このデウスを神として、日本人に教えた。

 だから、不干齊ハビアンは、正直で衝撃的な、その著書「破・デウス」で、「自分は、もうイエズス会のキリスト教を信じない」と、棄教(ききょう)して、信仰を捨てた、と書いた。なぜなら、ハビアンは、イエズス会の悪辣で残酷な、日本支配計画、そして、ヴァチカンによる日本の完全な占領、日本人洗脳の企(たくら)みを、知った。 それで、のちに思想転向した。耶蘇教を捨てた

(ここまで副島先生の文章)

田中進二郎です。

ハビアン不干斎について、山本七平(イザヤ ベンダサン)は、『日本教徒ーその開祖と現代知識人』(1976年刊)[↓]?
という本のなかで、ハビアン不干斎こそが、日本最初の日本教徒だ、と述べている。

https://www.amazon.co.jp/dp/4047101222/ref=cm_sw_r_fa_api_i_PJKX9DMGDZAVC864224X

クリスマスを祝い、お寺にも神社にもお参りする、無規範(無宗教、無節操)な現代日本人の精神のルーツは、このハビアンだ、というのだ。

つまり、ハビアン不干斎は、日本にはキリスト教が根付く土壌がない、と最初に気付いた。日本教という土壌(沼地)に、キリスト教は溶かし込まれてしまう、と山本七平は言った。

だが、キリスト教(=天主教、ヤソ教)の深刻な影響が広がっていたのが、真相だ。本当は、日本全国にまんべんなく隠れキリスト教徒の生き残りがいた。そして、
大名まで、ぞろぞろとキリシタンになっていた。御三家の水戸徳川家までもキリシタンだった、ということを示す、驚愕の証拠まで、あるのだ。

●水戸徳川家に残る、キリシタンのミサの道具

[↓]?

http://kambanobuyuki.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-3204.html

これはきっと、水戸徳川の藩主が、密かにミサを執り行っていた、ということだろう。水戸光圀(水戸黄門)は隠れキリシタンだっただろう。

ハビアン不干斎が、ヤソ教を棄教する前に、書いた『妙貞問答』は、その後も、キリシタンのあいだで隠し読まれていたようである。

[新月]参考ーハビアン不干斎の『妙貞問答』を隠れキリシタンの近松門座衛門が、自分の芸術理論に取り入れていた!?

(以下は、古川愛哲著『江戸時代の歴史はキリシタンが作った』より引用)

近松の書いた作劇術には、芸の面白さは虚と実との境の微妙なところにあると唱える「虚実皮膜論(きょじつひまくろん ひにくろんとも読む)」がある。「虚実」なる語は、日本人修道士ハビアンが布教のために書いた『妙貞問答』の下巻に出てくる。

?あえていえば、近松門左衛門は隠れキリシタンだからこそ、心中事件に注目した。惚れた相手と来世(天国)で結ばれる。それを壮絶な「恋の殉教劇」に仕立てることができた。

江戸時代の夫婦は、「義理」の関係で、「恋愛」は遊廓で、客と遊女がするものだった。この矛盾、「義理」と「恋」の板挟みに着目するのは、「汝、姦淫するなかれ」の敬虔なキリスト教徒でなくては、不可能だったに違いない。 その後、義理一辺倒だった江戸時代の夫婦の関係に、「恋女房」や「愛」が入ってくるのは、隠れキリシタン近松の作品の力にあずかるところ大である。

(古川愛哲氏の引用終わり)

江戸中期、元禄時代以降に上方(大坂、京都)で人気を博した、人形浄瑠璃の心中物(曽根崎心中が有名)も、キリシタン文化の一変種だった、ということだ。

(以下【2978】の 副島先生の文章の続き)

 羅山の林家(りんけ)は、儒学の中の正統とされる朱子学(しゅしがく)を、日本でも学問の中心とした。朱子学は、「易姓革命(えきせいかくめい)」と、「湯武放伐(とうぶほうばつ)」である。体制変革、政治動乱、王朝交替、政権交替、を認める立場である。

 日本の体制派の中心の思想は、中国が、東アジアの覇権国(はけんこく)である。日本は、それに、「外にバレないように、服属している」とするものである。それなりに正直である。中国の儒教思想の大きさに、当時の日本の知識階級は、全面的にに、どっぷりと浸かっていた。それ以外の思考は有り得なかった。

 ところが、弾圧して、禁圧して消滅したはずの、西洋のキリスト教が、じわり、じわりと、日本の民衆思想家(仕官したがらない浪人たち。大秀才たち)の中に、ずーっと深く、深―く入っていた

(ここまで副島先生の文章)

●京都の儒学者のスポンサーだった角倉財閥
田中進二郎です。
実は、朱子学者の林羅山ですらも、幕府に仕官するまでは、キリシタンネットワークと、関係があったようだ。

儒学者の藤原惺窩(ふじわら せいか 1561-1619)に、羅山を紹介したのは、京都の大商人、一大財閥の角倉了以(すみのくら りょうい 1554-1614)だった。

拙著『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』で書いたが、角倉了以はイエズス会ネットワークの人間で、火薬の原料の硝石を独占的に扱う「死の商人」だった。

ところが、徳川政権ができると、イエズス会から上手に離れて、儒学(朱子学)支持に回ったのだろう。だから、家康の朱印状をもらって、東南アジアとの貿易を許可された。了以は、漢籍にも精通して、京都で、儒学書を印刷出版している。藤原惺窩と林羅山のスポンサーが、角倉家であった。だから、林羅山は、了以が死ぬと、恩人を顕彰する石碑を建てている。

[京都嵐山の大悲閣千光寺に残る、林羅山による角倉了以顕彰碑についての記事↓]
http://inoues.net/club/suminokura_ryoui.html

この角倉家の子孫に、儒学者の伊藤仁斎(1627ー1705)もいる。仁斎は、幕府の体制派の学問である朱子学者たちが、幕府に仕官するために、坊主に頭を剃って、江戸に行ったことをバカにした。

仁斎は京都の商家、公家衆たちの支持が大きかった。
藤原惺窩、林羅山、木下順庵、山崎闇斎、伊藤仁斎ら儒学者たちは、京都で学んでいた(京学、京都学派)。

林羅山が、幕府から僧職をもらって、御用学者になっていることを、伊藤仁斎は批判したのである。

陽明学者の中江藤樹(近江聖人1608ー1648)も、『林氏剃髪受位弁 (りんし ていはつ じゅいべん)』のなかで、痛烈に林羅山を非難した。中江藤樹は、儒学者として立つさい、四国の伊予大洲藩を辞して、浪人になっている。そして、近江国安曇川(あどがわ)の実家に戻って、私塾を開いた(藤樹書院 1634年)。

「真儒(しんじゅ)の道」は、僧侶や武士のような身分であってはならない、と藤樹は考えたのである。
 
(参考ー副島隆彦著『時代を見通す力』PHP2008年刊)

●京都の大儒学者 伊藤仁斎も隠れキリシタンだっただろう

中江藤樹と、その弟子の熊沢蕃山が隠れキリシタンであること。さらに、伊藤仁斎までも、隠れキリシタンであった可能性があるのだ。

1662年、仁斎が開いた学塾・古義堂 (こぎどう)は、京都の中心を通る堀川通りに作られている。古義堂の、堀川を挟んだ向かいには、崎門派(きもんは)の教祖、山崎闇斎(1616ー1682)の私塾があった。

仁斎塾、古義堂の真北、1キロほどのところに、イエズス会の慶長天主堂が存在していた(1613年に破却)。慶長天主堂は、京都蛸薬師にあった南蛮寺がなくなったあとに、作り直された教会である。

角倉家の一族が、この天主堂で、バテレンから数学や天文学まで学んだ。彼らが、江戸時代ずっとつづいた和算の源流になる。

(参考ー六城雅敦研究員の著書『隠された十字架ー江戸の天才数学者たち』)

この慶長天主堂のあった区画に、紹巴町(じょうはちょう)がある。連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは 1525-1602)ゆかりの地だ。
この里村紹巴の孫が、伊藤仁斎なのである。

里村紹巴も、イエズス会のエージェント、茶人の千利休の門人だった。里村は、本能寺の変のときには、自邸近くの、二条城に行き、織田信忠軍の人質状態だった誠仁(さねひと)親王を連れだした。信長殺害計画を知っていた、と考えられる。

さらに、仁斎の古義堂の南には、かつて、秀吉の時代には、スペイン領フィリピン経由で入国してきたフランシスコ会のバテレンが建てた教会と病院があった、という。古義堂のあった堀川通りは「だいうす町」が点在しており、そこは、住人がすべて、キリシタンだった。

この通り周辺は、信者が密集していた。しかし、徳川秀忠の時代の元和の大殉教で、大量に女子供まで捕らえられ、処刑されている。

(古川愛哲著『江戸時代の歴史はキリシタンがつくった』を参考ー田中)

また、古川愛哲氏の同書には、京都嵯峨野の二尊院にある、伊藤仁斎の墓はキリシタンの墓であろう、と述べられている。墓の上部が丸みのある、かまぼこの形状になっている。

伊藤仁斎の墓の写真↓
http://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/bochi/kyoto/itoh

京都に遺る、隠れキリシタンの墓の写真

比較すると、伊藤仁斎の墓と形式がよくにていることが分かる。↓
https://bit.ly/3dQ5vPz

(以下【2978】の副島先生の投稿文より引用します。)
第2点。1687年、思想家の熊沢蕃山(くまざわばんざん)は、幕府の怒りを買って、古河(こが)に、幽閉、禁固になった。 蕃山は、上層のインテリ日本人と、大名たちからも、崇められ、尊敬された。裏に、“近江聖人”中江藤樹(なかえとうじゅ)(隠れキリシタン思想家。陽明学者)と伊藤仁斎、京都の古義堂 の学派 がいた。
(引用終わり)

(田中進二郎です。
朱子学で神道家の山崎闇斎、そして、伊藤仁斎が京都で儒学を教えていた。お互いに何を教えているかを、かなり意識していた。まさにこの頃に、中国から、亡命知識人の朱舜水が長崎にやってきて、その評判は、京・江戸にまで広がった。仁斎は、長崎にまで赴いて、朱舜水に師事しようとまでした。日本に亡命してきた朱舜水は、長崎にやってくると、当時の儒学者たちが、次々と朱舜水に教えを乞うた。山鹿素行の「素行」は朱舜水からもらった名前である。

 以下は、徐興慶氏のpdf論文『東アジアの 朱舜水研究』から引用する。

(引用開始)

伊藤仁齋は、朱子学の学問主張が孔子・孟子の学問とは、明らかにその差異があると察知したという。そのため、彼は中国の古典原書を探求する方向に換え、『論語古義』、『孟子古義』、『語孟字義』、『童子問』など、学術書を続々と著した。以降、伊藤仁齋は徐々に宋朝の理学を虚説である、と批判し始めた。伊藤仁齋は学問主張を変えた後、再び長崎にいた門人の、安東省菴を通じて、自著の批正を、朱舜水に仰いだ。
これに対し、朱舜水は次のように述べている。

伊藤誠修兄〈策問〉甚佳、較之舊年諸作、遂若天淵。儻由此而進、竟成名筆、豈遜中國人才也。敬服敬服

(田中進二郎 試訳)
伊藤仁斎君の〈策問〉はとてもよかった。以前までのあなたの諸作と比べて、天と地ほどの差がある。もしこのまま進歩を続けたならば、やがて、名人になることだろう。どうして才能のある、中国人に引けを取ることがあろう。大変立派だ!

(引用終わり)

古義堂の門弟4千人とも言われた伊藤仁斎も、大学者である朱舜水先生の評価をもらわなければ、一人前の儒学者である自信はなかったのであろう。

田中進二郎拝

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