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『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』(4)地元史とキリシタン②  [地元の歴史]

サムライたちの殉教.jpgサムライたちの・・・裏表紙.jpg『サムライたちの殉教―米沢1629.1.12』(ドン・ボスコ社 2009)という立派な絵本がある。1929年にイエズス会のジョアン・バブチスタ・ポルロ神父が会津からローマに送った手紙をもとに描かれた米沢キリシタン殉教の記録です。《米沢の殉教者たちは、捕らわれず、牢にも入れられず、拷問を受けることもなく、晴れ着に身を包んだ彼らは槍の穂先に聖母マリアの絵を掲げ、ローソクを持って列をつくり、整然と刑場に向かった。途中、人々も門に立って彼らを見送り、激励の言葉をかけた。ーーと、これだけでも十分に驚くべきことなのだが、このキリストの部隊の行列に二人のキリシタンが付き添い刑場に着くと、そのうちの一人が聖なるメダイを取り出して各人に接吻させ、一同声を合わせて3度、至聖なる秘跡は賛美せられさせたまえと繰り返した、というのだから、どうしてそこまでやれたのかと、不思議にさえ思える。また処刑後の殉教者の遺体も丁重に取り扱われている。もちろん、これらのことは地域の人々の尊敬の表れには違いないが、何よりもキリシタンの強い意志がそこに働いている。》(上記本〈絵の解説〉「米沢の殉教は、なぜ美しい」83-84p)「キリシタンの強い意志がそこに働いている」かどうかはともかく、当時の米沢のキリシタンに対する寛容な雰囲気が、ボレロ神父によってしっかりローマに伝えられていた。その具体的内容は、上杉藩資料ともぴったり合致するという。(日本人修道士ジョアン山の働きがあったと考えられている。)

サムライたちの 行列.jpg

慶長20年(1616)、大坂夏の陣で豊臣家滅亡。2代将軍秀忠によるキリシタン禁制強化。慶長18年(1613)、伊達政宗が送った欧州派遣使節支倉常長も、元和6年(1620)帰国した時には政宗による迫害の対象になっていた。元和9年(1623)3代将軍家光となり、政宗はむしろキリシタン弾圧の先鋒となっていく。しかしこうした中にあって、上杉藩は極力寛大であった。
景勝を継いだ米澤上杉藩2代藩主定勝(1604-1645)は、《慶長9年(1604年)、初代藩主・上杉景勝の長子として誕生した。生母で景勝の側室である四辻氏の実家・四辻家は西園寺家の一門で、公家の名門(羽林家)である。四辻氏は定勝を生んで100日余り後に死んだため、直江兼続・お船の方夫妻が養育に当たった。 》四辻家からは、定勝の従兄弟にあたる山浦光則(玄蕃)が出ている。《日本史上唯一のキリシタン公卿の殉教者・・・キリシタンであったため、寛永11年(1635年)、迫害を避けて妻子と共に京都から逃れ、従兄で米沢藩2代藩主・上杉定勝を頼って米沢へ身を寄せた。》定勝の母の実家四辻家は西園寺家の流れ。キリシタン禁制下その庇護は19年間に及び、処刑は承応2年。(山浦玄蕃は、最近その鏝絵が発見されて話題になっている。→http://www.yonezawa-np.jp/html/newsmovie/2020_2H/20200731mov1.html
さらにキリシタンをかばい続けたのが国家老志駄修理義秀(1560-1632)。寛永5年(1628)、定勝が江戸から戻るとただちに志駄とのキリシタン対策協議。「キリシタンを殺すならその数は3千人を越すだろう」と「十戒」を説明しつつ、志駄は定勝に翻意をうながす。結果、刑の執行が2週間延びたとも。
米沢猪苗代片町の善行寺。飯山から兼続の母の実家尾崎氏に従って宮内に来た寺でその後、養善寺とともに米沢に遷ります。両寺とも浄土真宗です。飯山から来たことはたしかなのに、過去帳にそのことは一切記されていません。ただ、志駄修理義秀を継いだ次男志駄義繁に大変お世話になったと伝えられています。
また、宮内の蓬莱院は飯山の英岩寺の道統を受け継ぐ寺で、宮内に来てまもなく亡くなった尾崎重誉の祖母の法名に由来する寺名です。尾崎家文書からそのことは明らかなのですが、蓬莱院側にはその伝えはありません。さらにいえば、兼続の母の実家が尾崎家であったことも米沢には伝わっておらず、長野まで行って確認せねばなりませんでした。長瀬哲飯山市教育長https://oshosina.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_e75/oshosina/E5908DE7A7B0E69CAAE8A8ADE5AE9A-3.jpg/尾崎姓発祥の地を訪ねて 尾﨑世一氏 http://www.yonezawa-np.jp/html/feature/2015/history2_iiyama_ozaki/iiyama_ozakiyoichi2.html
なぜなのか。この辺の事情を御館の乱に結びつけて考えたことがあります。(→和光神社が結ぶ歴史的奇遇https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2010-04-02。しかしこのたび『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』を読んで、想像を超えたキリシタンの浸透を知り、以上の歴史の裏側にキリシタンの影を考えさせられています。上杉が会津に入る前は蒲生氏郷による8年に及ぶ支配があったことを思えば尚更です。(→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-10-10

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