『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』(1)蒲生氏郷 [本]
田中進二郎著・副島隆彦監修『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』(電波社 2020.10)を読んだ。
《歴史学において実証できなければ、事実とは認めない、という日本史学者が非常に多い。権力者たちが、自分たちの行う悪事をきちんと記録するとでも思っているのだろうか?彼らは、権力者たちの共同謀議(conspiracy コンススピラシー)というものが、どういうものなのか、思いも及ばないのであろう。》(108p)通説をひっくりかえす新鮮な議論をどんどん取り入れながら、いわゆるアカデミズムなどには一切顧慮することなく、自分で掴んだイメージをそのままに打ち出しているからだろう、(学者的配慮を時折チラつかせる副島氏より、もっと)気持ちがストレートに伝わって爽快。そして何より面白い。おのずと自分の中の歴史イメージの改変を迫られる。ただし、「すっと読み進めて一回で終わり」の本ではありません。そこで、じっくり肚に収めておきたいわが郷土史に関わる二つのテーマに絞って、蒲生氏郷と関ヶ原の戦いについてまとめておきたいと思います。
康暦2年(1380)以来伊達領であった置賜郡は、天正19年(1591)9月奥羽仕置により、伊達政宗は岩出山へ転封、蒲生氏郷の領地となり、ここ北条郷は、中山城1万3千石蒲生左門郷可(さとよし)の知行となる。氏郷は文禄4年(1595)40歳で亡くなるが、蒲生による置賜支配は直江兼続が入る慶長3年(1598)まで8年間つづく。(→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-07-18-4)
蒲生氏郷は若い頃から信長に目をかけられ(夜伽衆として寵愛され)、信長の次女を妻にしている。《ヴァリニャーニが教えた生徒に、信長の義理の息子の蒲生氏郷(洗礼名レオン)がいる。氏郷はヴァリニャーニから直々に神学、天文学、物理学、法学を教わった。妻の冬姫(信長の娘)も西洋文化を学んだ。》(103p)ヴァリニャーニはナポリの名門貴族の出で日本におけるイエズス会の重鎮。世界の最先端の情報を伝えて信長から最大限の尊敬と厚遇を得つつ、信長暗殺を段取った人物でもあった。(104p)本能寺変の前年(天正9年(1581))の3月から7月までの5ヶ月の間、信長と氏郷の家族は、安土城内の蒲生屋敷でヴァリニャーニから直接知識を吸収している。この頃すでに氏郷夫婦は受洗していたと著者は見る。そして《蒲生氏郷は、織田家の中にいたイエズス会のエージェントだった。信長を殺害する計画も知っていただろう。》(152p)と。氏郷の受洗を天正13年(1985)とする「イエズス会日本報告書」の記述は、この事実を隠すためのことなのではないかと著者は言う。
天正10年(1582)8月、本能寺の変。信長亡き後の氏郷について、《秀吉がもっとも恐れた武将は、徳川家康と蒲生氏郷の二人だった、とは後世よくいわれる。秀吉は、蒲生家代々の領地・近江日野から氏郷を切り離して、伊勢の松ヶ島(松阪12万石)へ加増転封させた。氏郷は信長にならって、領国では楽市楽座を行い、商工業を発達させている。近江日野の領民は氏郷を慕い、松ヶ島に付いてきたという。近江商人が伊勢松阪に移って、その子孫から三井家の祖・三井高利が登場する。その土台を氏郷が築いた。》(149p)氏郷が松阪に在ったのは天正12年(1984)から7年間、その間の働きは見事で、「松阪開府の祖」として今も人々に敬われ「氏郷まつり」などの行事が行われている。その後天正19年(1591)、氏郷は会津黒川の地に移り鶴ヶ城を建築(今ある城よりずっと壮大だった)、会津若松と名を変えたその地を拠点に、わが置賜郡も含む会津92万石を領することになる。近江日野から松阪、そして会津まで付き従う領民も多かったという。その後も3つの地域間交流は盛んで、いずれをも大きく発展させて功あった(会津塗の源流は近江日野)。ヴァリニャーニ仕込みの技術集団がそっくり移動したのだろう。
蒲生家ゆかりの人の所持する『御右筆日記抄略』によると、氏郷は1584年、88年、90年、92年の4回にわたって家臣を遣欧使節として派遣している(→山科勝成)。《すべての遣欧使節団は大量の資金を持参して、大砲や小銃を購入している。》(151p)しかしこの事実は決して表立ってはいない。著者は言う、《蒲生氏郷は信長、秀吉の家来でありながら、まったく秘密にローマ教会とヴァリニャーニに通じていたのだ、これらの武器は、秀吉との来たるべき戦いのために準備されていた、と見てまちがいない。・・・この密約は、ヴァリニャーニが安土にいた5ヶ月の間になされたのだ。》(151p)ちなみにその資金は、信長暗殺後すぐ、安土城に蓄えられた黄金を近江日野の蒲生の居城にそっくり運ばせたものだという。当時安土城を守っていたのは氏郷の父賢秀であった。
さて、千利休はレッキとしたキリシタンであった。そもそも茶の湯の様式はカトリックのミサを模したものだった。《1585年頃に、秀吉の側近のみならず、身内も次々にキリシタンに受洗した。秀吉麾下の部将たちを高山右近が大坂、高槻の教会堂と京都伏見の自分の屋敷で入信させた。・・・右近は蒲生氏郷と並んで、利休の弟子の筆頭格である。・・・後世に「利休七哲」と呼ばれる者たちのほとんどがキリシタンである。・・・さらに利休十五晢を加えると、豊臣秀次、前田利家、宇喜多秀家、黒田官兵衛、小早川隆景がいる。・・・ここに名が上がっている者たちはほぼすべてがキリシタン、あるいは隠れキリシタンだといってよい。》(153-154p)
九州各地や畿内ではキリシタン大名たちによる神社仏閣破壊が進められるようになっていた。なんと伊勢神宮も氏郷によって破壊されそうになっていたというフロイスの書簡がある。《「我らの主が、この賢人(蒲生氏郷)の改宗においてとられた手段(神社仏閣の破壊)を見れば、主が彼に天照大神を破壊する力と恩寵を与えるであろうと、我らは期待している」(1585.8.27書簡)》(171p)
秀吉はキリシタン大名に支えられて信長の後継としての地位を得た。しかし、日本を根底から覆そうとするイエズス会の意図が見えてくるに及んで、《1587年に秀吉がバテレン追放令(下記↓)を出し、右近の領地を没収し、家臣から追放した。》(154p)その後右近は加賀へ行って、前田利家の庇護のもとで北陸布教をつづける。《藩主・前田利家と正室のまつ、長男の二代藩主・利長、四男の三代藩主・利常と三代にわたる隠れキリシタンの大名だった。・・・禁教令下では、加賀百万石の前田家といえども隠れて拝み続けたのだ。/1612〜13年に徳川家康は禁教令を出して、キリシタンの一斉摘発を行った。右近は翌年9月に、国外追放の処分を受けて、・・・フィリピンのマニラに送られて、3ヶ月後に熱病にかかって、亡くなった。》(162-163p)通説によれば、蒲生氏郷がキリシタンになったのは、高山右近によってである。(高山右近とキリシタン大名 - 蒲生氏郷編) しかし、この著では先述のように、信長以来の氏郷とヴァリニャーニとの繋がりを重く見る。《蒲生氏郷は、織田家の中にいたイエズス会のエージェントだった。》(152p)と。イエズス会にとっての氏郷の重きは、右近以上であったかのもしれない。
氏郷の最後について、こうある。《朝鮮の戦役中、秀吉の手で、殺害された可能性が高いのが蒲生氏郷(レオン)である。・・・秀吉は氏郷の死の3年後、子の秀行の会津92万石の領地を没収して、宇都宮18万石に移封した。これは、「心ない仕打ち」と影でささやかれた。/氏郷は晩年、利休が処刑された際に、彼の息子の小庵を合図で匿っている。数年後、秀吉の許しを得て小庵は京都に戻ることができた。やがて表千家を名乗って、利休の茶道を後世に伝えた。そのため、氏郷は利休茶を救った恩人といわれている。》(190-191p)
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バテレン追放令(1587/現代語訳/160-161p)
日本は神国であり、キリシタン国からの邪法を布教してはならない。
大名が領国内で、キリシタン門徒に寺社を破壊させるようなことがあってはならない。
大名はその領地を一時的に預かっているのであり、天下の法律(御法度)に従わなくてはならない。
バテレン(宣教師)たちが、信者を自発的に帰依させるのではなく、仏教寺院を攻撃し破壊することで信者を増やそうとしているのは許されないことであり、二十日以内にバテレンは日本を出て行くべきだ。
ポルトガルの貿易船は貿易が目的なのだから、今後も今のまま貿易を続けてよいし、日本の仏法、国法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、日本に来ることは構わない。
大名が領国内で、キリシタン門徒に寺社を破壊させるようなことがあってはならない。
大名はその領地を一時的に預かっているのであり、天下の法律(御法度)に従わなくてはならない。
バテレン(宣教師)たちが、信者を自発的に帰依させるのではなく、仏教寺院を攻撃し破壊することで信者を増やそうとしているのは許されないことであり、二十日以内にバテレンは日本を出て行くべきだ。
ポルトガルの貿易船は貿易が目的なのだから、今後も今のまま貿易を続けてよいし、日本の仏法、国法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、日本に来ることは構わない。
三浦小太郎著『なぜ秀吉はバテレンを追放したのか』ハート出版 2019年
2020-10-10 08:11
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