管内視察(1)北町遺跡 [議会]
コロナ騒ぎのせいで半年以上も経ってようやくはじめての視察。9月議会の文教厚生常任委員会で盛り上がって決まったことだった。最初「放課後子ども教室をみてみたい」からはじまって、「担当課がともに社会教育課でもあるし、北町遺跡、長岡南森遺跡も行きたい」ということになった。それが近くになって「Go To Hospital」、とりあえず4泊5日で帰ったものの、リターンする羽目、「20日の午後(視察)と21日の午前(全員協議会)、なんとか外出させてください」と願ったら「退院を考えましょう、あとは経過観察」ということで1泊だけで18日無事帰還。ほんとうによかった、ありがたかった。
◎「国内随一の縄文遺跡」の評価
![北町遺跡.jpg](https://oshosina2.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_c24/oshosina2/m_E58C97E794BAE981BAE8B7A1.jpg)
いい資料を用意していただいたので要点ピックアップしておきます。
この辺一帯、白竜湖の湖岸に栄えた縄文草創期〜縄文中期(15,000〜4,300年前)の低湿地遺跡。《これまでの調査で、全国的にも非常に貴重な縄文草創期(16,000〜11,000年前)の遺跡であることが判明しました。大谷地の低湿地遺跡であるため普通なら腐ってしまう遺物が残っており、まさに縄文時代のタイムカプセルと言った遺跡です。》なんとここでマグロの骨(遺跡出土としては日本最古)発見で一挙に大きな話題となった→https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-09-21。
この辺に遺跡があることはわかっていたが、たまたま防火水槽工事で掘り当てた、写真のようなごく狭い土地に3棟の竪穴住居跡が確認され、荒らされることもなく、地層もはっきりした状態で残っており、貴重な石器や土器が大量に出土していることから、《これまで分からなかった道具の組み合わせを地層ごとに分類でき、・・・さらに泥炭層にパックされていたことにより、多くの有機物が確認されています。》《このように、低湿地遺跡で縄文草創期まで遡る遺跡として全国的に稀であり。また、これほどの好条件で遺構が残る遺跡は他に例がなく、研究者の間では国内随一の縄文遺跡と評価する声が高まっています。》
![北町遺跡層序.jpg](https://oshosina2.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_c24/oshosina2/m_E58C97E794BAE981BAE8B7A1E5B1A4E5BA8F.jpg)
「気候変動」というのは、急激な寒冷化でマンモスの死滅を招いた「ヤンガードリアス期」を指す。《ヤンガードリアスは、最終氷期が終わり温暖化が始まった状態から急激に寒冷化に戻った現象で、現在から1万2900年前から1万1500年前にかけて北半球の高緯度で起こった。この変化は数十年の期間で起きたとされている。・・・イギリスでは甲虫の化石から、年平均気温がおよそ-5℃に低下し、高地には氷原や氷河が形成され、氷河の先端が低地まで前進していたことが示唆される。これほど規模が大きく急激な気候の変化はその後起きていない。》(ウィキペディア)その原因については隕石説が言われるが異論もあり(https://www.arecord-web.com/blog189.html)、北町遺跡調査の進展がその答えを導き出す可能性もある。興味は尽きない。
調査研究の今後について、《令和2年度に愛知学院大学を中心とし、考古学、堆積学、地形学、古植生、DNA等の専門分野の研究者が集まったプロジェクトチームが立ち上がりました。/今後、数年計画で発掘調査等を実施する予定としており、地元として支援していく必要があります。》現在の市としての支援は、発掘の際の機材等の貸し出しぐらいで、費用については一切大学の方から出ているとのこと。専門家の間では並々ならぬ関心を集めているようで、今後の進展をしっかり見つめていきたい。
白岩市長のFBから。
https://www.facebook.com/takao.shiraiwa
全国史跡整備市町村協議会(全史協)の総会参加の報告です。
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白岩 孝夫
【日本人はいつからマグロを食べていたか】
南陽市では近年、遺跡出土としては日本最古のマグロの骨が白竜湖畔の北町遺跡で発見されています。日本人はいつからマグロを食べていたかという年代は、従来は5〜6千年前とされていましたが、北町遺跡で見つかった縄文草創期の竪穴式住居から土器などと共にマグロの骨が出土したことで、一気に12000年前にまで遡りました。普通なら腐ってしまう遺物が、大谷地の泥炭層にパックされていたことで残った、タイムカプセルのような遺跡です。
また、赤湯小学校近くの長岡南森遺跡は、東北最大級の大型前方後円墳の可能性があります。古墳と確認されれば、南陽市に畿内のヤマト政権と強いつながりを有する強力な集団と権力者が存在していたことが推察され、東日本の歴史に大きな影響を及ぼします。
これらの遺跡からは今後もさらなる発見が期待されており、南陽市では調査を続けていきます。そのため、史跡等関係予算の確保と充実を図る必要があります。
そこで、全国史跡整備市町村協議会(全史協)の総会がホテルニューオータニで行われ、出席しました。
総会では、全国各地の史跡や埋蔵文化財などの発掘調査等充実に向けた「令和3年度史跡等関係予算重点要望事項」が採択されました。総会後、全史協副会長の丸山至酒田市長を含む全史協の役員は、文化庁、文科省、財務省、国会議員などへ予算確保の陳情活動を行いました。
また、山形県史跡整備市町村協議会では、南陽市長と事務局の酒田市職員の皆さんが山形県選出国会議員事務所を訪れ、要望事項を陳情しました。
以下は総会の概要メモです。
はじめに会長の井澤邦夫国分寺市長が「今日は全国から多数ご参加いただき感謝。また史跡保存議員連盟の河村建夫代表世話人をはじめ、世話人の井上義久衆議院議員、事務局長の馳浩衆議院議員、事務局次長の松本洋平衆議院議員、同じく原田義昭衆議院議員、同じく赤池誠章参議院議員、同じく細野豪志衆議院議員など議連の皆さん、また文化庁の宮田亮平長官をはじめ文化庁次長、審議官、資源活用課長、文化財第二課長ほかの皆さんにもご参加いただき、盛大に開催できることに厚く御礼申し上げる。さて、今年度の総会は太宰府市での開催予定だったが中止となり残念。改めて令和3年度に太宰府市での開催を願っている。私が会長となって早くも5年。本総会で交代するがこれからも本会発展のため努力する。本会は昭和41年に39の市町村でスタートし、現在では619の市区町村が加盟。文化財など先人から引き継いだものを守っていく大切な活動をしている。来年度の予算確保はコロナの影響で非常に厳しい状況だが、史跡保存議連のご協力を賜り努力していく。加盟市区町村のご協力を願う」などと挨拶しました。
続いて史跡保存議連の河村建夫代表世話人が「協議会は都道府県ではなく市区町村が中心となって活動している会。予算をつけなければならない。史跡議連には衆参合わせて225名の議員が参加。文化財と観光をいかに結びつけるか。これは地方創生につながる。いまは厳しいがインバウンドもいずれ戻ってくる。その時に史跡、文化財は重要。それを守るため国土強靭化もしっかりやる。超党派の議連で予算獲得に向けがんばっていく。退任する井澤会長に感謝。次期の豊岡武士三島市長、引き続きご協力願う」などと挨拶しました。また議連議員役員も挨拶を述べました。
続いて文化庁の宮田亮平長官が「日頃のご協力に感謝。コロナ禍だが文化財保護の重要性は変わらない。イギリスの故事に、3月の雨と4月の風が5月の花を咲かせる、とある。いまは大変だが関係予算の確保に全力を注いでいき、文化財を世界に発信していく」などと祝辞を述べました。
続いて議事に入り、令和元年度事業・決算報告、令和2年度事業計画の変更及び補正予算案、令和3年度事業・予算案、役員選任、次期開催地、令和3年度予算重点要望事項、総会後の陳情活動、総会決議案が諮られ、全て承認されました。
by めい (2020-11-05 13:51)
南陽市HP「埋蔵文化財ニュース
南陽市内で調査が行われた遺跡について、わかりやすく紹介する「埋蔵文化財ニュース」です。
遺跡が身近にあるということ、その遺跡がどのような性格のものであるかを知っていただき、郷土の歴史に興味を持っていただけるきっかけになれば幸いです。
「埋蔵文化財ニュース」は、年数回更新を行い、市内の遺跡を紹介します。基礎的な用語についても随時解説しますので、ぜひご一読ください。
今回ご紹介する遺跡は、「北町(きたまち)遺跡」です。
◎遺跡の概要
「北町遺跡」は、白竜湖から直線距離で西に約500mのところに位置する遺跡です。現在の北町公園や北町公民館が含まれています。従来から縄文時代の遺物が出土する遺跡として認識されていましたが、詳細な調査には至っていませんでした。
平成29(2017)年11月の防火水槽設置工事(下図 北町遺跡位置図 ドドメキ地点)に伴い、東北芸術工科大学長井謙治准教授(当時)の協力のもと、当市教育委員会が試掘調査及び工事立会を実施した結果、縄文時代草創期(※1)に遡る遺構・遺物を含む泥炭層(※2)の存在を確認しました。
この調査を契機として、東北芸術工科大学による補足調査(平成29(2017)年12月)、同大学及び愛知学院大学による発掘調査(平成30(2018)年8月、令和元(2019)年8月の計2回)が実施され、多くの重要な成果が得られました。新聞にも取り上げられた「マグロの骨」が出土した場所もこのドドメキ地点です。
※以下、掲載している図や写真は、平成7~8年度・平成28(2016)~29(2017)年度に実施した試掘調査・工事立会・補足調査の報告書「南陽市埋蔵文化財調査報告書第21集」からの抜粋となります。
◎北町遺跡位置図
◎試掘調査の様子(実施:当市教育委員会 協力:東北芸術工科大学考古学研究室)
◎遺物出土状況(ドドメキ地点)
◎出土遺物(ドドメキ地点 一部のみ掲載)
※上の写真「3層出土土器」の「3層」は、地上から約1mの深さにある層で、「縄文時代早期」のもの
※上の写真「15層出土石器」の「15層」は、地上から約3.5mの深さにある層で、「縄文時代草創期」のもの
平成30(2018)年、令和元(2019)年に実施された発掘調査では、縄文時代草創期の「竪穴住居跡(※3)」も検出されており、現在、調査主体の愛知学院大学において整理・分析が進められています。
※縄文時代草創期※1(じょうもんじだいそうそうき) 約15,000~約11,000年前 ※諸説あり
※泥炭層※2(でいたんそう) 植物遺体(過去の植物の種・葉・樹木片など)を多量に含む粘土や砂からなる層。
※竪穴住居跡※3(たてあなじゅうきょあと) 地面を掘り、円形や方形の床を作りその上に屋根を作った半地下式の住居。旧石器時代から中世まで作られた。
by めい (2021-03-14 06:06)