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大地の感覚:「自然(じねん)」→「一心清明」 [神道天行居]

昨日、山上修法に行くきっかけをつくってくれたMさんから手紙が届いて、その返事を書いていたら、今朝の日経、

《陸奥は、美しい星に曝されながら毛皮にくるまって、草の上に寝た。頭上の星と、背中に大地との直接のつながりを感じながら眠った。》『陥穽』)

山奥に入り、灯りを消して雪の上に寝転び、夜空を見上げる。自然と一体になれる感覚がたまらない。》「倍賞千恵子 私の履歴書(23)」)

このたび山上修法での感覚→「アマテラスオホミカミ」の大音声の中、斎火の熱を右身に浴びながら、一歩一歩大地の感覚を確かに感じつつ踏みしめてゆく。この時の感覚をしっかり記憶しておきたい。おそらく「一心清明」に通ずる、至上の感覚だった。太鼓を合図に行進を終えるが、そのままつづけていたかった思いの感覚が今も残る。/思い起こして安藤昌益の「自然(じねん)」の感覚がリンクした。(「気張らず自然(じねん)で通すこと」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-04-30-1/「安藤昌益は「神道思想家」に近い!」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-10-05)この世に生きるヒトとしての立脚点、原点感覚とも言えるかもしれない。昌益は「自然ノ世」の骨子のひとつとして《「転定(てんち=天地)モ人倫モ別カツコト無キ「天心一和」の調和》(『安藤昌益事典』207p)と言っている。》石城山行③ 山上修法https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2023-11-29

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辻原登「陥穽」(289)

小杉小二郎 画

陸奥は旅行した。横浜から大阪行きの定期船南海丸に乗った。甲板の上の寒々とした目覚め、水ばかりの風景から受ける茫然とわれを忘れてしまうような憂鬱。友情、愛情、憎悪、失意、絶望などが苦い思い出となって去来した。

新宮で下船する。初めての熊野の旅である。那智大社に詣で、大瀧を拝んだ。速玉大社の梛(なぎ)の大木を見上げ、梛の押し葉と牛王宝印(ごおうほういん)の守札を妻と子供たちに送る。

新宮には、和歌山戍営時代、輜車(ししゃ)隊長をしていた中森奈良好(ならよし)という青年がいて、解兵後新宮に戻って家業の造園業に携っている。彼は熊野修験者でもあって、陸奥は彼の先導で「大峯奥駈(おおみねおくがけ)」に挑戦する。途中で倒れればそれまでだ。

「大峯奥駈道」は「吉野・大峯」と「熊野三山(本宮大社、速玉大社、那智大社)」を結ぶルートで、紀伊半島の背骨である紀伊山地の標高千二百〜千九百メートルの山々を縦走する、約九十キロのコースである。陸奥が選んだのは通常の奥駈道を逆に、南から北へ、熊野三山から大峯・吉野へと至るコースである。中森は奥駈けのパイロットで、輜車隊の頃、陸奥にその醍醐味について何度も語った。これをやれば権現(ごんげん)さま並(なみ)の力がつきます、と。

陸奥は、美しい星に曝されながら毛皮にくるまって、草の上に寝た。頭上の星と、背中に大地との直接のつながりを感じながら眠った。

十津川郷の良音寺(りょういんじ)を訪ね、天誅組によって梟首(きょうしゅ)された武林敦(たけばやしあつし)の霊を慰めた。

陸奥は、中森の先導で「奥駈」を六日間で踏破して、無事吉野に辿り着いた。

五條で無残に焼かれたままの代官所跡に佇む。書肆「松屋」の主人は健在だったが、「小二郎」のことを覚えていなかった。徒歩で吉野川沿いに橋本に下る。念佛寺、恋野(こいの)、九度山(くどやま)、入郷(にゅうごう)……十六年前に通った昔のままの道である。岡左仲を訪ね、岡と連れ立って町石道(ちょういしみち)を登って高野山に詣り、尊了師の墓前に額(ぬか)ずいた。尊了師は「高野山挙兵」のあった三カ月後に亡くなっている。

紀ノ川を舟で粉河まで下り、児玉庄右衛門を訪ねる。児玉は紀ノ川筋の豪農で、伊達宗広の木綿栽培と織物振興策を支え、高岡要の学業を援助して、彼を江戸に送り出した。

陸奥は児玉に、高岡の高邁、崇高な精神について語った。――惜しみて余りある命でした。

庄右衛門の傍に一人の若者がいた。二男の仲児(ちゅうじ)で、福澤諭吉の慶応義塾で学んでいるという。

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倍賞千恵子 私の履歴書(23)別海町

「家族」「遙かなる山の呼び声」の撮影で北海道・中標津が気に入り、年末年始は独りで近くの養老牛温泉で過ごすのが恒例になっていた。

スノーモービルで遊ぶ(中標津で)

小六さん(小六禮次郎)と付き合うようになると冬も一緒に過ごす。シンシンと降り積もる雪。体の芯まで温まる源泉。夜空にミルクを流したように瞬く銀河系……。

北海道は空が広い。東京の四角い空とは大違いだ。

冷え切った外気を胸いっぱい吸い込む。心の底からリフレッシュできる。地元の人たちの心根も優しくて温かい。厳しい自然の中で生きるには助け合い精神が欠かせない。

西田敏行さんに北極圏で教えてもらったスノーモービルで私は小六さんや仲間たちと雪原を走る。山奥に入り、灯りを消して雪の上に寝転び、夜空を見上げる。自然と一体になれる感覚がたまらない。V

冬だけではない。

新緑が一斉に芽吹き、タンポポやツツジが咲き乱れる春、雨上がりの空に七色の虹の橋がかかる夏、葉の白い裏がフリルのように風に波打つ秋――。四季それぞれに味わい深い魅力があふれている。

小川がサラサラと流れ、小鳥がチュンチュンと囀(さえず)り、ホッと一息つける温泉もある。いつの日かそんな別荘を持つのも悪くないなと夢を膨らませていた。そんな矢先。1992年のお正月のことだ。

「おい、あれは何だ?」

旅館の送迎車に乗っていると小六さんが興奮気味に声を上げた。見上げるとグライダーのような小型飛行機がトンボみたいに何機も青い空にゆったりと弧を描いている。

ウルトラライトプレーン。 動力付きの超軽量飛行機のことをそう呼ぶらしい。

「ちょっと行ってみよう」

小六さんは目を輝かせながら小型機が離着陸する飛行場に向かう。もう誰にも止められない。小六さんは指導員の話を聞きながら、その日のうちにテスト飛行まで体験。以来、すっかりこの飛行機にはまってしまった。幼少から飛行機に憧れていたようだ。

中標津町に隣接する別海町の小さな飛行場。地元の愛好者らが同好会を作り、趣味として飛行を楽しんでいた。小六さんもその同好会に加入し、すぐに中古小型機を購入。時間さえあれば別海町に足繁く通う生活がスタートする。

事態はさらに急旋回する。

オーナーが92年秋に施設を手放すことになったのだ。「本格的に楽しもう」と小六さんは意気込んでいたので施設を買い取ることを決意(土地は借地)。しかも、その敷地内に私たちの別荘まで建ててしまおうと言い出したのだ。

青天の霹靂(へきれき)だった!

電気や水道はかろうじて通っているが、憧れていた小川も白樺も温泉もない。私の夢にはだいぶ隔たりがある。

「ここに別荘を? プールでもなきゃ、私絶対に嫌よ」

「じゃ、プールも作ろう」

これですべて決まり。

93年春に着工、翌年のお正月には山小屋風の別荘が完成した。私が使う12メートルの室内温水プールも作った。サンルームや寝室も増築。防風林がなかったので地元の皆さんに白樺、桜などを植えてもらった。

冬は地吹雪にとじ込められ数日間孤立することもある。

「お〜い、チエさん、大丈夫かい?」

助けてくれるのは地元の仲間たち。食料やお酒も差し入れてくれる。地震で石油タンクが壊れた時にも来てくれた。生活を楽しむだけじゃない。仲間たちとの交流や絆が命綱になっている。

別海町に別荘を建てて良かった。しみじみそう思う。


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