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「紅旗征戎吾事に非ず」 [メモ]

「石城山行③山上修法」を書きつつ、安藤昌益の「自然(じねん)」を思った。
かつてこう書いた。『統道真伝』にこんな生々しい記述があることを知った。「男は外側に進気が覆っているので、その茎を女の内側に挿し入れて動動させる。一方、女は内側が進気なので、門内に男の茎を引き入れて動動する。男は上に覆う から転 (=天)であり、女は下に横たわるのだから定(=地)である。こうして互いに動動するのは、木火の進気のなせる業だ。」(『統道真伝』の「人倫巻(16)●夫婦の交り人倫の太本一真論)なんとあっけらかんとしたことか。》(「『安藤昌益からの贈り物 石垣忠吉の物語』」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-10-13-1狂人日記.jpg副島隆彦著『狂人日記。戦争を嫌がった大作家たち』に通ずる。
「自立の思想的拠点」を探った吉本隆明にしても行き着いたところは、ここだった。・・・残念なことに、どうも俺は鷗外・漱石に比べたら平凡な物書きに終わりそうだな・・・傍から見ても、そばへ寄って話を聞いても、「このうちは本当にいいな。いい夫婦だな。子供もいいな」という家庭を目的として、それで一生終わりにできたら、それはもう立派なことであって、文句なしですよ。・・・それ以上のことはないんです。・・・それがいかに大切で、素晴らしいことかというのは、僕ぐらい歳をとれば、わかりますよ。・・・一生を生きるというのは、結局、そういうこと以外に何もないんだと思います。それだけは間違いないことだから。(2010.6.4)》
そんな折の「紅旗征戎吾事に非ず」。
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「紅旗征戎(せいじゅう)吾事に非ず」の言葉、『陥穽』に2度出てきた。《京都に到着した伊達一家は、中川宮が提供した青蓮(しょうれん)院近く、粟田口(あわたぐち)の別墅(べっしょ)に落ち着いた。/宗広は中川宮と対面したが、宗興が用意した幕府への「直訴状」については一言も触れなかった。話柄は些かも時勢にわたらず、歌道、歌学から「古今」「新古今」に至り、「世上の乱逆追討、耳に満つと雖(いえど)も、これを注せず、紅旗征戎(こうきせいじゅう)、吾が事に非(あら)ず」という藤原定家の『明月記』の一節を地で行くような座談に終始した。》「陥穽」(96) https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFG00031_Q3A530C2000000/《一月三日、鳥羽・伏見の戦いが勃発した。/……とうとう戦争になってしまいましたよ、と小二郎は龍馬に語りかける。あなたは、見ないで済んでよかったかもしれません。そして、今私は、戦争にはまるで関心がありません。桂さんや伊藤がどこにいて何をしていようと、また西郷隆盛がこの戦争を思う壺とほくそ笑んでいようと構うものですか。"紅旗征戎(こうきせいじゅう)吾が事に非ず"です。》「陥穽」(256)https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFG00025_W3A111C2000000/

この語についての解釈があった。藤原定家の言葉として有名なこの言葉、初めて知る者としては世の中がどれほど戦乱で修羅の巷となろうが、我関せずで詩歌に逃避する、という意味に捉えがちである。/定家は決して聖者ではない。時の権力者に迎合して宮廷社会を生き抜いたしたたかな面もある人物である。だが源平合戦の折に明月記に記されたほかにも、承久の乱の折に別の書にも記されているこの言葉を通じて長く仰がれているその人徳を偲ぶことが出来る。/定家は言う、「火、崑崗に燃ゆれば、玉石倶に焚く」と。戦火が一度上がれば、善人も悪人も共に焼き尽くすのだ。そして「老臣」はただ泣く、と。時代を透徹した目で見据えた当時の日本で最高級の教養人であった定家は、天下の父母として民に仁慈を垂れるべき後鳥羽上皇と順徳上皇が起こされたこの戦乱を憂い悲しまざるを得なかった。/隣国で戦乱が起こるか否かという時にあって、私はこの事を思う。/金正日の昏愚は既に人皆の知る所だが、愚かな匹夫一人の為に幾百万もの人間が死に追い遣られてよいはずがない。/韓国のみならず各国の為政者が血の汗を滲ませて智慧を搾り尽くし戦争だけは避けることを願う。》「紅旗征戎吾事に非ず」の真意とは http://kyouandou.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-5190.html
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以上、「石城山行③山上修法」のためのメモ。
 



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