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陸奥宗光の初恋の人 [本]

佐代.jpg陸奥宗光14歳の時、出羽寒河江(さがえ)柴橋代官所から着任したばかりの代官松永善之助の十歳の娘と八歳の息子の家庭教師となる。その時松永の後妻佐代は27歳。宗光の初恋の人だった。今朝の『陥穽』、《――佐代は船場で裁縫を一年余り教えたあと、胸の病いを発症し、二人の子供を連れて生国(しょうごく)の出羽置賜郡白鷹(おきたまごおりしらたか)の実家に帰り、一年後、深い雪の中で息を引き取った。》

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辻原登「陥穽」(257)

小杉小二郎 画

翌日、再び代官所を訪れ、手代の富田から松永夫人は夫の死後、二人の子供を連れて法円坂の惣年寄(そうどしより)・今井喜十郎の離れに身を寄せていたことを教えられた。即日、今井を訪ねると、夫人は二年前から船場の呉服問屋が営む裁縫御稽古場に移り、住込みで裁縫を教えていることが分かった。

遂に会える。五條で夫人と出会った時、小二郎は十四歳、彼女は二十七歳だった。

小二郎は二十五歳になった。しかし、夫人は彼の中で二十七歳のままである。幻影でしかない。人妻という崇高で神秘な、犯し難い存在そのままの姿に、代官の死を知るや、その幻影に更に未亡人という新しい魅惑が加わった。

小二郎は幻影の夫人に向かって、初めて、佐代、とファーストネームで呼び掛けた。震えるような歓びが脊髄を駆け昇る。彼はこの歓びに"LOVE"という名称を与えた。

小二郎は船場の呉服問屋を訪ねた。しかし、夫人はもうそこにはいなかった。その先の行方は杳(よう)として知れない。元来、彼女は小二郎にとって幻影なのであり、幻影は永遠に捉えることは出来ない。滅びることもまたない。

小二郎の探索はここで終わるが、私達はその後の夫人の消息を知っている。――佐代は船場で裁縫を一年余り教えたあと、胸の病いを発症し、二人の子供を連れて生国(しょうごく)の出羽置賜郡白鷹(おきたまごおりしらたか)の実家に帰り、一年後、深い雪の中で息を引き取った。小二郎が上海で、ディケンズの『デイヴィッド・コッパフィールド』を読み終えた頃のことである。

幕府軍の大坂への敗走が始まっていた。大坂城では、連日の敗報に接していた将軍慶喜が大広間に幕閣、諸将を集めて、「事、すでにここに至る。たとい千騎戦没して一騎となるといえども退くべからず」と檄を飛ばした。一月五日である。しかし、六日夜、彼は密かに大坂城を脱出、八軒家(はちけんや)から小舟で天保山沖に停泊中の軍艦開陽丸を目指した。一月七日、新政府は徳川慶喜追討令を発する。一月十二日、慶喜は品川沖に到着、浜御殿から上陸する。勝海舟が出迎えた。大坂城は、将軍の退却後の混乱の中で、本丸御殿の台所から出火、城内の殆んどの建造物は焼失した。小二郎が上町台地から遠望した、夕日に燃え上がるように照らされていた大坂城である。

松永夫人を完全に見失ったと分かった時、彼は新しい別の目標に向かって動き始めた。


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辻原登「陥穽」(38)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFG00019_Z20C23A3000000/
松永善之助の妻女佐代は、色白できめの細かい肌を持つ、雪国生れの美しい女性だった。三歳の娘を残して妻に先立たれた松永は、出羽柴橋に初めて代官として赴任した際、出羽置賜紬(おいたまつむぎ)の一つ、白鷹御召(しらたかおめし)の織元の娘と見合いして再婚した。

辻原登「陥穽」(39)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFG00005_R30C23A3000000/
ある日、桜井寺の門前で、板谷(いたや)統一郎が彼の帰りを待っていた。板谷は真剣な口調で、
「これを代官の奥方に渡してくれや」
と一通の手紙を差し出した。
小二郎は素直に受け取り、翌日の授業が始まる前、彼を迎えた佐代にその書状を手渡した。この日は算術の授業で、子供たちは彼の期待に応えて、目覚しい上達ぶりを発揮した。
授業後、夫人にあ挨拶しようとすると、彼女は顔を背(そむ)けて、激しい怒りを露(あらわ)にし、
「今後、二度とこのようなことはなさらないで。この文(ふみ)は板谷、――名前を口にするのも汚らわしい――とかいう男に突っ返して下さい。何という破廉恥な言い種! あなたはこのような卑しい心根の人物とどんな関係で繫がっているのですか」
と詰問した。

辻原登「陥穽」(182)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFG00015_Z20C23A8000000/
小二郎は岡左仲の手紙で、殺された五條の代官が松永でなかったことと、その松永は既に大坂で病死していることを同時に知った。松永夫人佐代は未亡人になった。自分は大人に変貌を遂げ、しかも彼の中で、夫人は昔のままの姿である。

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