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『神やぶれたまはず』再々読(2) [本]

第4章は太宰治。《「厳粛とは、あのやうな感じを言ふのでせうか。私はつつ立ったまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく、つめたい風が吹いて来て、さうして私のからだが自然に地の底へ沈んで行くやうに感じました。/死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました。・・・ああ、その時です。背後の兵舎のはうから、・・・トカトントンと聞えました。」(「トカトントン」)(71-72p)著者(長谷川)の言葉、《”君の幻聴がどこから生じてゐるかは明らかで、それは君が自分の耳にふたをした、その耳栓のたてる音にほかならないのだ。君は、ひとたび天籟を聞きながら、その沈黙の深さに耐へられなくて、大いそぎで耳栓をしてしまつた。・・・勇気を出して耳栓をはづし、あの一瞬の静寂に耳をかたむけてみたまへ。そこにひろがる本物の「無」の淵をのぞき込んで戦慄したまへ。そのとき、君のちゃちな幻聴などたちまち止んでしまふことだらう。”》(82-83p)と言いつつ、その後では、トカトントンの音は、真理から耳をふさいでゐるが故に聞こえてくる音なのではない。むしろそれは、もつとも戦慄すべき事実ーー「死ぬのが本当」なのに、その道が閉ざされてしまつてゐるという事実ーーを、くりかえし目の前に呼び出し、つきつけてくる音なのである。》(91p)「最終戦争」であったはずが、敗れてなお生きねばならなかった戦後、三島由紀夫は、《無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。》(84p)と言い放ってその数ヶ月後、自から命を絶った。《悲壮も厳粛も消え失せた〈トカトントンの日本の姿〉がある。》さらにそれから40年、《単なる「経済的大国」でゐつづけることすらできな》くなり、《現在の日本の精神的麻痺状態は、まさにこの、トカトントン」症状の最終段階にまで達してゐると言ふべきであらう。》(84-85p)「あの一瞬」に還るしかない。
第5章、伊東静雄。その日記の一節、《「十五日陛下の御放送を拝した直後。/太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照し、白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない。」》(101p)ここに至る日々を桶谷が語る。《「この最後の日々は、日本の歴史においてかつてなかつた異様な日々であつた。梅雨が明けると夏空はいやましに澄みわたり、匂ひ立つ草木のみどりが、人びとにけふのいのちの想ひをさらに透明にした。/マリアナ、硫黄島、沖縄の基地から連日やつてくるB29爆撃機の空襲は、大都市から中都市に範囲をひろげ、焦土廃墟の地域が急激に増えていつた。/家を焼かれ、肉親を失ひ、着のみ着のままで、食べるものも満足にない多くの日本人が、何を考へて生きてゐたかを、総体としていふことはむづかしい。/ただひとついへることは、平常時であれば人のくらしの意識を占める、さまざまの思ひわづらひ、利害の尺度によつてけふとあすのくらしの方針をたてる考へ方が捨てられたことである。何らかの人生観によって捨てられたのではなく、さういふ考へ方を抱いてゐても無駄だつたからである。/もちろん、人の生き方はさまざまであり、口に一億一心をとなへながら、疎開者から取って置きの衣類を巻きあげて闇米と交換する農民や、都市の焼跡の二束三文の土地をせつせつと買ひ占める投機者はいくらでもゐた。/しかしそんな欲望も、本土決戦が不可避で在るといふ思ひのまへには、実につまらない、あさはかなものにみえた。/あすのくらしの思ひにおいて多くの日本人が抱いてゐたのは、わづかばかりの白米、あづき、砂糖を大事にとつて置いて、いよいよとなつたらそれらを炊いて食べて、死なうといふことであつた。」》(112-113p)コロナ禍を引きずり、さらに深刻な食糧危機を迎えようとしているる今、この文章、むしろ親しくさえ思える。
第6章は磯田光一。桶谷が「”その瞬間”まで」にこだわり続けたのに対し、磯田の関心は、「”その瞬間”の後」だった。《ただもつぱら「生の方へ歩きだした日本人」だけに目を向けてゐる。》(116-117p)
対照的な二人、実は学生時代、二人揃っての講演を聴いたことがある。1970年11月19日だから、大学祭だったろうか。前日は石堂淑朗氏だった。《磯田は若干期待はずれ、というより過大評価だったようだ。納得、というところ。要するに、恐ろしさを秘めてはいない、という印象だった。それゆえ、磯田さんのいうことが、いちいち、予想どうりという感じで聞いた。/桶谷氏は、なにか、秘めた、情念を抱えこんでいる感じ。/磯田氏は、単に、批評家、認識者の位相にあるが、桶谷氏は、文学者の位相にある、という感じ。/磯田の〈政治ー文学〉という図式の中に、〈認識(批評)〉の位相を組み込むことが必要なんじゃあないだろうか。そして、それは、現実から最も疎外されたところにあるものとして。認識者とは、そもそも、”たりえぬことによって、たらんとする”者なのだから。それに対して、文学者は、”たりえぬことによって、たらんとする”という、まだ現実の中に生きることを主体としているのだ。尤も、文学者は容易に、認識者の位相に滑り込みうるはずだ。吉本がそうであるように。そして、認識の持続は、いかに”たりえなかったのか”ということで決定づけられているように思う。/おれは一体、どうなのか?/たりえぬ以上、その位相で命がけになること?/それは、認識にとって矛盾であるか?》欄外に、《磯田は一歩あやまると、城塚(登)と同じところにいっちまう。もういっちまっているのかもしれない。柄谷の危惧はあたっている。もとから磯田はそうなのかも。器用さにおぼれてしまう。》

もう50年以上前のことだが、二人から感じ取った”違い”の感覚は、今も忘れてはいない。三島由紀夫の自決はそれから数日後、11月25日だった。その翌年、磯田は三島論としての『殉教の美学』にこう記す。《「『戦後思想』という古風な幻想とは異質な、苛烈な戦後精神よ、安らかに眠れ!あなたの霊の在ますところには、造花の菊が、造花の薔薇が、美しく咲き乱れているであろう。そして生き残った私は、ある”渇き”をいだきつつ、現世の汚濁のなかで、私自身の道を行くであろう。」》それに対して著者(長谷川)、《これは、磯田氏個人の、三島由紀夫への訣別の言葉である。と同時にこれは、敗戦から四半世紀後の、あらためて繰り返された「生の方へ歩き出した多くの日本人」と「生命を絶った日本人」との分岐点であったと言へる。》(128p)磯田がその歩みの延長上で『戦後史の空間』を書いたのが1983年、長谷川は言う、《この『戦後史の空間』は、言ふならば著者自身が”戦後”における日本人の精神の変質を体現することによつて書かれた戦後精神史である。・・・おそらく磯田氏自身は、これを書きながら、桶谷氏が『昭和精神史 戦後篇』を書いてゐるときに感じた「身も心もへとへとに疲れた」といふ疲労感は感じないですんだことであらう。ただし、それだけに、これはいつそう痛ましい、精神の喪失の記録なのである。》(129p)そして考察は、吉本隆明を襲った「やるかたない痛憤」に向かう。それは磯田が取り逃がしてしまったものだった。(つづく)

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