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一般質問報告(3)北町遺跡と池黒皇大神社 [地元の歴史]

取上坂から白竜湖S.jpg

明るい話題に転じます。

2、南陽市における遺跡・文化財保護について 
歴史への関心はアイデンティティ自己確認の基盤となります。南陽という場所がどういう歴史を重ねてきた土地なのか、そのことへの関心が未来への道筋を教えてくれます。その観点から質問します。

⑴北町遺跡について
北町遺跡については2年前の夏、1万2千年前縄文草創期の地層からマグロの骨が発見されたということで大きな話題になりました。(1万年以上前の縄文時代から山の民と海の民は交流していたhttps://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12505037671.html)大谷地にある低湿地遺跡であるため、普通なら腐ってしまう遺物が残っており、まさに縄文時代のタイムカプセルということでその後の調査研究の進展が期待されているところであります。次の3点についてお聞かせいただきたい。
①現段階での評価は。
②今後どう進めてゆくか。
③その場所は調査が終われば埋め戻され、知る人は多く有りません。今後市民への周知啓蒙をどう考えているか。

応徳3年棟札.jpg⑵池黒皇大神社「応徳3(1086)年棟札」について
「北に丘陵、南に沃野」、縄文の大昔からまことに住みよい南陽の場所でありました。今から55年前、当時の安孫子山形県知事から示された時には唐突に思えた「南陽」という名でしたが、今になってみれば見事にありがたい命名だったと感謝したいです。その南陽にあって宮内は、「北に丘陵、南に沃野」に加えて「東に清流吉野川、西に街道」という、古来都の条件とされる四神相応の条件を備えています。街道とは矢の目街道で遠く大和、京都から北を目指して江戸、日光、会津そして大峠を越えて置賜に至った突き当たり、そしてそこに祀られた神社が池黒皇大神社です。その由緒によれば、桓武天皇の延暦年中というので西暦800年の前後、坂上田村麻呂が温情をもって臨んだ奥州支配を目指す東征の際、兵を置いて城砦を築き、社を建立、祀り創められたので、古来坂の上のお神明さまと称されてきました。その皇大神社に保存されてきた棟札には、「応徳3(1086)年」と記されており、県内で最古とされ、南陽市の文化財に指定されています。ところが最近、米沢の歴史研究家清野春樹氏の著書で日本最古の棟札であることが指摘されています。公に日本で最古の棟札は岩手県中尊寺の保安三年(1122)とあり、それより36年も遡るというのです。さらにこの棟札で注目すべきなのは、建立に関わった者として、韓志和と三条宗近の名を読み取ることができることです。韓志和は平安京建設を統率した飛騨の匠であり、三条宗近は、その制作物がことごとく重要文化財級の刀鍛冶の名工です。ともに伝説的な二人です。なにゆえにこの地の棟札に二人の名が記されているのか。この棟札をめぐるロマンは限りなく広がります。市として今後何ができるか。ぜひその価値を明らかにしていただきたいと考えます。
 以上、よろしく御答弁のほど、お願い申し上げます。

まず「北町遺跡」についての教育長答弁。《①「現段階での評価」でございますが、北町遺跡は、赤湯の北町に位置し、縄文時代の草創期から前期、後期、及び平安時代の遺跡として登録されております。/これまでの調査で、地下深いところから縄文時代草創期の地層が見つかり、そこに多くの遺構や遺物があることが判明しております。/その一番の特徴としては、大谷地という特殊な湿地環境によって、遺物の保存状態が良いことがあげられ、土器や石器のほか、木材や動植物等の痕跡が残されており、当時の人と環境の関わりが解明できる遺跡として期待されているところであります。/また、竪穴住居と思われる遺構等が複数見つかっており、日本人の定住生活の始まりを考えるうえでも貴重なデータが得られるものと考えられております。/縄文時代の始まりを告げる草創期の遺跡は元々数が少ないうえ、なおかつ低湿地性の遺跡であることから、北町遺跡は、白竜湖湖岸に栄えた集落遺跡として全国的にも数少ない貴重な遺跡と評価されております。②現在の調査は、愛知学院大学が主体となり、古環境や地質、DNA分析等、様々な専門分野の方々が集まって北町プロジェクトとして調査研究を進めているところでございます。発掘調査については」、今後も大学主導で進めていくことになりますので、市として適宜必要な協力を行ってまいります。/また、遺跡の保護については、遺跡の性格や範囲を正しく把握し。その保存を適切に図る必要性がございますので、調査研究の推移を見ながら、今後さらに検討してまいりたいと考えております。③発掘調査に関する周知や現地説明会等による公開については、実施主体である大学の判断となるものでございます。/しかしながら、市民の宝とも言える貴重な遺跡でありますので、毎年、各学校や公民館などを巡って開催しております「わがまちの歴史と文化財展」等で周知啓発を図るとともに、今後、大学の協力を得ながら、市民向けの情報提供について検討してまいります。》
ついで池黒皇大神社棟札について、《池黒皇大神社の棟札は、応徳3年(1086)の棟札として市の指定文化財になっております。/現在、日本最古の棟札として一般に知られているのは、岩手県中尊寺所蔵の保安3年(1122)とされており、本紙の棟札はそれよりも36年ほど古い年号になります。/応徳3年棟札に書かれた年号や銘文については、専門機関による赤外線調査等により、間違いがないことが確認されております。/これまでの研究では、応徳3年の貴重な棟札であると考えられておりますが、なお、その確証を得るための調査手法の検討や、その適切な保存が必要と考えているところでございます。》
井上ひさしインタビュー①m_E4BA95E4B88AE381B2E38195E381971.jpg《北町遺跡はほんとにありがたい、すばらしい遺跡としてこれから南陽市の宝になっていく。昭和58年だから、今から38年前、井上ひさしさんが南陽市で講演された時に、夜終わってから車で上山までお送りしたことがあった。その時井上ひさしさんが鳥上坂を上りながら、「司馬遼太郎さんと汽車に乗って、この置賜盆地の白竜湖が見えた時、司馬遼太郎さんが『あっ』と声をあげた。」と言われたのを、週刊置賜の加藤茂さんと二人で乗せていた時に井上さんから直に聞いた。滅多に驚かれて声をあげたりすることのない司馬遼太郎さんが、白竜湖を中心にした置賜盆地の風景に感動されたということを、私は井上ひさしさんから直に聞いています。私もそれが嬉しくて頭にあるんですけれども、まさにあの北町遺跡、あの遺跡、今竪穴住居が二つ見つかっているようですけれども、あの一帯というのは1万2千年、あるいはそれ以上昔から、ほんとうに日本の大昔から栄えた場所だった。それがひとつ北町遺跡をきっかけにして、どんどんどんどんこれからいろんなことが見つかっていったとしたら、南陽市にとってすごい財産です。司馬遼太郎さんがダテに「あっ」と声をあげたんじゃあなくて、(見え出した盆地の風景から)ずっと長い歴史を司馬遼太郎さんなりに感じ取ったんではないかなあというそんな思いもします。北町遺跡、まだほんの大学の先生が一生懸命調査している段階ですが、今からあれをすばらしい財産として活かしていくという、そういった思いで育てていってほしいと切に思います。》
池黒皇大神社石段2.jpg上の平羽黒神社跡石祠.jpgそしてもうひとつ、池黒皇大神社。この間たまたまえくぼ案内人の方々と一緒に見て、その後、奥の上の平まで個人的に行ってきました。非常に、何がこれから出てくるかわからない場所です。応徳三年の棟札というのは、ただ古いだけでなく、韓志和三条宗近という、これまで私知らなかったんだけれども、今回いろいろ調べるとものすごくメジャーな人だった。それだけに正直「ほんとかな」という気持ちもある。けれども、この片田舎といえば片田舎のここへ、そのメジャーな名前が記された棟札が存在する。それが中尊寺の棟札よりもまだ古い。36年も遡る。日本で最古の棟札かもしれない。そういったものがわれわれのすぐそばにあるということ、これやはり興奮する。そういったことで教育委員会も、ホントかウソか、その確証、調べてニセモノだった、それはそれでいつの頃、どういう経緯でそういう棟札を作ったのかというような、そんないろんな想像も働かせられるわけだし、いろんなロマンがいっぱい詰まっている棟札だなあと思うので、今回取り上げさせていただきました。いま宮内は、熊野大社にお客さんがいっぱい集まってきて、若い人が来て、いろんな形でいい動きになっていると思います。南陽市、そういう中で、いいものはいいものとして、なんとか育てていくような姿勢で今後取り組んでいってほしいということを切に要望しまして、私の質問を終わります。》ちょうどここで50分の制限時間を告げるベルが鳴り響きました。




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