宮内まち歩き研修会 [地元の歴史]
1週間前の日曜日(26日)、南陽えくぼの里案内人ふるさと南陽に学ぶ観光塾ということで宮内まち歩き研修会に講師として参加していいひと時を過ごすことができました。今朝の山新に載ってますので、当日用に作成した資料をアップしておきます。ほとんど宮内以外の方々なので、驚きかつ喜んでいただきました。多勢丸中邸はもとより、池黒皇大神社も感激でした。当日用事があったはずの米山宮司が都合をつけて待っていてくださったのも実にありがたかった。退職されて宮司に専念されるようで、今後の皇大神社に注目です。→「日本最古の棟札(池黒皇大神社)」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-01-04 水園では須藤永次のすごさについて語らせていただきました。4時間で7キロの行程でした。
* * * * *
南陽えくぼの里案内人ふるさと南陽に学ぶ観光塾
宮内まち歩き研修会資料
令和3年9月26日(日)
宮内まち歩き研修会資料
令和3年9月26日(日)
◎多勢丸中邸
◆多勢丸中家の歴史(株式会社多勢丸中製作所HPより)
・明治44年(1910)、多勢吉郎次の娘婿多勢慶輔(養子/長女婿)、多勢丸多から独立して多勢丸中製糸工場を開設(48釜、約60名)。
・昭和2年(1927)、釜数180、社員260名となる。
・昭和15年6月、二代目賢次を中心に社業隆盛を極めるも、賢次急逝。初代慶輔現役復帰。
・昭和19年、陸軍赤羽被服廠の疎開倉庫に指定され工場閉鎖廃業。
・昭和23年、二代目賢次妻・とし、資本金50万円、社員20名、10釜にて 株式会社 多勢丸中製糸工場として再開。朝鮮動乱特需で活況。
・昭和27年 以降、当時最先端の自動操糸機を導入し合理化を図ろうとするも、目覚しく発展した化学繊維に押されて製糸業は次第に衰退の兆し、さらに養蚕農家の果樹転作 が進み、原料となる繭の確保困難。 日本経済は神武景気(S30~33年)、岩戸景気(S33~37年)の恩恵を受けることなし。
・昭和35年、三代目賢二郎、電器部を創設。コンデンサー部品の製造を開始。
・昭和38年、株式会社 多勢丸中製糸工場を自主廃業し、株式会社 多勢丸中製作所 を設立。
・昭和61年 、鉄筋造一部2階建て1,995㎡新工場建設。
・昭和63年、機械加工部門を分離し、関連会社 (株)創機を設立。
・現在、両社併せて資本金3,400万円、従業員22名。両社とも、四代目社長多勢経一郎。非常用自動起動発電装置、充電式蓄電池(ためまるくん)、LED投光機、ワイヤーハーネス、スペースヒーター等を製造。オーダーメイドにも対応。
◆羽前エキストラー時代の先端をゆく「山形方式」
《明治の終わり日本生糸は量的には世界一となったが、品質は織物の「よこ糸」用の二流品であった。更なる輸出の増大には欧州糸が占有している「たて糸」分野へ の進出が必要であった。そのためには生糸を構成する繭糸本数(粒付け数)の管理を徹底して生糸の太さを揃え、繭を良く煮て生糸の抱合を良くする必要があっ た。軽め煮繭浮き繰りの諏訪式繰糸法ではその要望に応えるのは困難であった。政府は大正に入ると、「信州式浮き繰り法」から「たて糸」用生糸作りの、繭を 良く煮熟し、繰られている繭だけが湯面に頭を出す、山形流の「沈繰(ちんそう)法」への技術転換を積極的に指導した。》(『わが国の製糸業の変遷とこれからの生きる道』嶋崎昭典 平成19年)
◆どのぐらい儲かったか?
大正4年(1915)の多勢吉郎次家(丸多製糸場)の場合(「近代における優等糸生産の展開と製糸技術」伊田吉春 平成25年)
・年間推計売上額235,717円–生産費用133,340円=推計収益額102,378円
・推定従業員数150人で計算すると、一人当たり売上1,571.4円。一人当たり収益682.5円
・この年の給与所得者年収333円、大工手間賃1.1円(1日)。消費者物価指数(都市部)1915/2015:1/3110。
・エヌデーソフト(株) 2017年度売上(単独)80.3億円 営業利益(単独)15.1億円(純利益10.8億円) 従業員(単独)376名→一人当たり売上2,136万円。一人当たり収益402万円
・(株)かわでん 2018年度売上188億円 営業利益8億円 従業員564名(2014) →一人当たり売上3,333万円。一人当たり収益142万円
◎池黒皇大神社
◆由緒
《明治の終わり日本生糸は量的には世界一となったが、品質は織物の「よこ糸」用の二流品であった。更なる輸出の増大には欧州糸が占有している「たて糸」分野へ の進出が必要であった。そのためには生糸を構成する繭糸本数(粒付け数)の管理を徹底して生糸の太さを揃え、繭を良く煮て生糸の抱合を良くする必要があっ た。軽め煮繭浮き繰りの諏訪式繰糸法ではその要望に応えるのは困難であった。政府は大正に入ると、「信州式浮き繰り法」から「たて糸」用生糸作りの、繭を 良く煮熟し、繰られている繭だけが湯面に頭を出す、山形流の「沈繰(ちんそう)法」への技術転換を積極的に指導した。》(『わが国の製糸業の変遷とこれからの生きる道』嶋崎昭典 平成19年)
◆どのぐらい儲かったか?
大正4年(1915)の多勢吉郎次家(丸多製糸場)の場合(「近代における優等糸生産の展開と製糸技術」伊田吉春 平成25年)
・年間推計売上額235,717円–生産費用133,340円=推計収益額102,378円
・推定従業員数150人で計算すると、一人当たり売上1,571.4円。一人当たり収益682.5円
・この年の給与所得者年収333円、大工手間賃1.1円(1日)。消費者物価指数(都市部)1915/2015:1/3110。
・エヌデーソフト(株) 2017年度売上(単独)80.3億円 営業利益(単独)15.1億円(純利益10.8億円) 従業員(単独)376名→一人当たり売上2,136万円。一人当たり収益402万円
・(株)かわでん 2018年度売上188億円 営業利益8億円 従業員564名(2014) →一人当たり売上3,333万円。一人当たり収益142万円
◎池黒皇大神社
◆由緒
《桓武天皇の延暦年中坂上田村麻呂東征の際、屯軍の地として城砦を築き、社を建立、祀り創められたので、古来坂上神明と称する。白河天皇の応徳3年(1086)当山別当職出羽御輿麻呂が再建し、更に後水尾天皇の元和年中、伊勢国伊勢山源海寺別当に請い天照大神を再び勧請し天下泰平を祈る。元和7年(1621)北条郷代官安部右馬助及び総氏子の請願により、源海寺別当が当社に転任。元和8年まで三度の建立を経たまま現今に至るまで諸人の崇敬篤く、中でも源義経奥州下向の際神徳に浴し、戦勝を祈願し馬具及び甲冑を奉納したと伝えられる。明治5年4月村社に列する。又、応徳3年当皇大神社建立の際の棟札が現存している。》(『山形県神社誌』)
◆「応徳三年(1086)棟札」
応徳三年丙寅七月十有五日 当山別当職 出羽神輿磨敬白
梵(カン不動)奉再立天照皇大神宮国家安泰如意祈願
木刻師韓志和鍛治三条小門宗近
□□□□
東置賜郡漆山村池黒別所皇大神社
・日本最古の棟札?:『南陽市史』には、《山形県最古となる貴重なものである》とだけあるが、公に日本で最古の棟札は岩手県中尊寺の保安三年(1122)とあり、それより36年も遡る。
・韓志和 《皇太神社の棟札に残る「木刻師(もっこくし) 韓志和(からしわ)」とは誰だろうか。この「韓」の字の右下の部分が欠けでいたために、 長い間正確な読みと意味が分からなかった。ただなぜ「韓」という朝鮮味半島系の名前の人がででくるのかが不可解とされていた。私が現代の機器を使っていろいろ調べでいくと、「木刻師 韓志和」は歴史上の人物であることが分かった。ただの木刻師ではなく、飛騨匠であるという。 飛騨高山市には飛騨匠神社がある。飛騨匠神社 では、木匠祖神(きのたくみのおやがみ)として、猪名部真根大人(いなぶのまねおうし)他二神を祀っている。それから飛騨匠累代神璽として歴代の名人が祀られている。 神社の解説には代表的な名工の名前が記してあるが、「延暦年間には〈韓矢田部志和眞人〉(韓志和)が飛騨工匠頭に任ぜられ平安城を造営すると伝えてい」るとある。平安京は飛騨匠によって建設されたが、それを統率したのが韓志和という人物であった。》(清野春樹『山形歴史探訪4 平清水・宮内・赤湯・上郷・長井の秘密』)
◆羽黒神社神像
羽黒神社は、皇大神社から登った上ノ平にあった古社。明治35年に社殿が大風で吹き飛ばされたため、そこの石祠にあった神像を皇大神社に移して今に至る。《羽黒神社の本地仏とみられる本像は、藤原風を濃くみせながらも、ようやく時代が次の鎌倉時代に近づいてきたころの造顕であろうといわれている。/一度拝すると、やや悲しげな目と、つつましやかな口元の表情は強く印象に残って離れない。》(『南陽市史』上巻)
◎宮内キリスト教会
《「戦前、このあたりは製糸業の女工さんが3000人以上いた。その教育に役割を果たしたのがキリスト教。宮内教会の日曜礼拝は彼女たちが列をなすほとだったという。1951 (昭和26)年にはキリスト教社会連動家の賀川豊彦の講演会がここ宮内で地元の大歓迎の中で行われ、その時に集められた7000円を賀川は、『未来の人材を育成するために幼稚園を作りなさい』と言ってそのまま地元に残した。その資金と地元の熱意で翌年に設立されたのが宮内幼椎園だ」とキリスト教保育が受容される素地がこの地にあったことをこう説明する。 宮内教会の歴代の牧師や教会員の伝道の足跡が伺える話だ。/そして、子どもたちは毎日祈ることで霊性を根っこから植えつけられている。地元の小学校の校長から『宮内の子どもは違う』と褒められる》(『信徒の友』2019.10)
《花すぎて 緑の山に小鳥なく 世のさわがしさ 気にとめぬごと ー山形県 宮内にてー》(賀川豊彦 昭和7年5月)
◎宮澤城
《宮沢城は、宮内城(館)、三桜城とも呼ばれ、熊野大社の300mほど北の丘陵上に築かれた城である。伊達家家臣大津土佐守が居住していたと伝えられている。戦国末期に上杉領となると、上杉氏重臣直江兼続は置賜を知行することとなり、宮沢城には元信州飯山城主尾崎家第20代の三郎左衛門重誉が入り、近隣の金山城主には越後平林城主色部修理亮光長が入り、山形の宿敵最上氏に備えたと言う。尾崎氏は兼続の母の実家の家系で、重誉は兼続の従兄弟の子、また色部光長は兼続の妹を妻にしており、兼続の親族で固めていたことから、南陽市街の一帯が対最上の前線基地として重視されていたことがわかる。その後、江戸時代の1国1城令により廃城となった。
/現在、城址付近は一面の果樹園になっており、周囲の堀は水田になっている。かなり変貌してはいるものの、地形的には往時の面影を残しており、本丸や南丸、大手跡等が明瞭で、本丸周囲の切岸や腰曲輪もはっきりしている。また城の周囲を堀で囲んでいたらしく、一部は堀跡も比較的はっきりしている。しかし何分、城跡が果樹園であるため、勝手に中まで立ち入ることができないので、周囲から眺めるだけである。果樹園という性格上、これ以上の史跡としての整備は難しいだろう。ちょっと残念である。/尚、地図を見るとこの付近は菖蒲沢と言われている様であるが、「勝負沢」の転訛であると思われるので、宮沢城の周辺で合戦が行われたこともあったのかも知れない。》(城跡探索ブログ『春の夜の夢』)
《尾崎家の御先祖、尾崎家の氏神様のお計らいとしか言いようのない出会いがありました。平成21年11月、飯山からの一行19名が予定より1時間も早く着かれたので、スケジュールを急遽変更して最初に熊野大社参拝をしていただくことにして一行をご案内しました。石段の途中まで来たとき、宮司が上からこちらに向かって「奇遇だ、奇遇だ」と声を上げています。なんと、そこに福島市上名倉の和光神社の氏子さんたち28名の一行がおられたのです。/慶長3年(1898)旧暦3月秀吉の命による国替えで、信州飯山尾崎を本貫とする尾崎重誉が宮沢城主として宮内に入ります。いま宮内熊野大社境内にある和光神社は、その時飯山から勧請した泉氏尾崎家代々の氏神様で和光大明神と呼ばれていました。その後重誉は半年そこそこで福島に移ります。そしてその地福島市上名倉にも和光神社が今も大切に祀られていたのでした。/ そしてなんと、飯山の一行と福島の一行が何の打ち合わせもなしに、宮内の和光神社のご神前でばったり出会うことになったのです。しかもこの日は、和光神社に正式参拝していただくべく神社にお願いしており、期せずして和光神社に縁ある3つの土地の代表が玉串を捧げることになったのでした。》(高岡 記)
◎宮澤山蓬莱院
南陽市上野曹洞宗盛興院の第4世観室順応大和尚による開山、創立年代等不詳となっているが、信州飯山の英岩寺が泉氏の嫡流尾崎家とともに宮内に移ったと考えられる。宮内で亡くなった尾崎重誉の祖母の院号が「蓬莱院殿」。飯山市のサイトにはこうある。《長峰山英岩寺の創建は不詳ですが永仁年間(1293-1299)、英岩寺天台宗の修験道場として開かれたのが始まりと伝えられ飯山市街地で最古の寺院です。当初は江岸寺と称し、初代飯山城主泉重信の菩提寺になると泉家に庇護され寺運も隆盛したと思われます。泉家は建保元年(1213)、当時の当主で鎌倉幕府御家人の泉親衡が幕府内の政争に敗れ、当地に土着したのが始まりとされ、以来、数百年にわたり泉家が当地域を支配しました。上杉謙信が死去するまで飯山城の城主として影響力がありましたが、上杉家の家督争いである御館の乱の際、上杉景勝と武田勝頼の同盟により飯山城が武田方となり、泉家も没落したと思われます。》(https://www.nagareki.com/iiyama/eigan.html)
◆「応徳三年(1086)棟札」
応徳三年丙寅七月十有五日 当山別当職 出羽神輿磨敬白
梵(カン不動)奉再立天照皇大神宮国家安泰如意祈願
木刻師韓志和鍛治三条小門宗近
□□□□
東置賜郡漆山村池黒別所皇大神社
・日本最古の棟札?:『南陽市史』には、《山形県最古となる貴重なものである》とだけあるが、公に日本で最古の棟札は岩手県中尊寺の保安三年(1122)とあり、それより36年も遡る。
・韓志和 《皇太神社の棟札に残る「木刻師(もっこくし) 韓志和(からしわ)」とは誰だろうか。この「韓」の字の右下の部分が欠けでいたために、 長い間正確な読みと意味が分からなかった。ただなぜ「韓」という朝鮮味半島系の名前の人がででくるのかが不可解とされていた。私が現代の機器を使っていろいろ調べでいくと、「木刻師 韓志和」は歴史上の人物であることが分かった。ただの木刻師ではなく、飛騨匠であるという。 飛騨高山市には飛騨匠神社がある。飛騨匠神社 では、木匠祖神(きのたくみのおやがみ)として、猪名部真根大人(いなぶのまねおうし)他二神を祀っている。それから飛騨匠累代神璽として歴代の名人が祀られている。 神社の解説には代表的な名工の名前が記してあるが、「延暦年間には〈韓矢田部志和眞人〉(韓志和)が飛騨工匠頭に任ぜられ平安城を造営すると伝えてい」るとある。平安京は飛騨匠によって建設されたが、それを統率したのが韓志和という人物であった。》(清野春樹『山形歴史探訪4 平清水・宮内・赤湯・上郷・長井の秘密』)
◆羽黒神社神像
羽黒神社は、皇大神社から登った上ノ平にあった古社。明治35年に社殿が大風で吹き飛ばされたため、そこの石祠にあった神像を皇大神社に移して今に至る。《羽黒神社の本地仏とみられる本像は、藤原風を濃くみせながらも、ようやく時代が次の鎌倉時代に近づいてきたころの造顕であろうといわれている。/一度拝すると、やや悲しげな目と、つつましやかな口元の表情は強く印象に残って離れない。》(『南陽市史』上巻)
◎宮内キリスト教会
《「戦前、このあたりは製糸業の女工さんが3000人以上いた。その教育に役割を果たしたのがキリスト教。宮内教会の日曜礼拝は彼女たちが列をなすほとだったという。1951 (昭和26)年にはキリスト教社会連動家の賀川豊彦の講演会がここ宮内で地元の大歓迎の中で行われ、その時に集められた7000円を賀川は、『未来の人材を育成するために幼稚園を作りなさい』と言ってそのまま地元に残した。その資金と地元の熱意で翌年に設立されたのが宮内幼椎園だ」とキリスト教保育が受容される素地がこの地にあったことをこう説明する。 宮内教会の歴代の牧師や教会員の伝道の足跡が伺える話だ。/そして、子どもたちは毎日祈ることで霊性を根っこから植えつけられている。地元の小学校の校長から『宮内の子どもは違う』と褒められる》(『信徒の友』2019.10)
《花すぎて 緑の山に小鳥なく 世のさわがしさ 気にとめぬごと ー山形県 宮内にてー》(賀川豊彦 昭和7年5月)
◎宮澤城
《宮沢城は、宮内城(館)、三桜城とも呼ばれ、熊野大社の300mほど北の丘陵上に築かれた城である。伊達家家臣大津土佐守が居住していたと伝えられている。戦国末期に上杉領となると、上杉氏重臣直江兼続は置賜を知行することとなり、宮沢城には元信州飯山城主尾崎家第20代の三郎左衛門重誉が入り、近隣の金山城主には越後平林城主色部修理亮光長が入り、山形の宿敵最上氏に備えたと言う。尾崎氏は兼続の母の実家の家系で、重誉は兼続の従兄弟の子、また色部光長は兼続の妹を妻にしており、兼続の親族で固めていたことから、南陽市街の一帯が対最上の前線基地として重視されていたことがわかる。その後、江戸時代の1国1城令により廃城となった。
/現在、城址付近は一面の果樹園になっており、周囲の堀は水田になっている。かなり変貌してはいるものの、地形的には往時の面影を残しており、本丸や南丸、大手跡等が明瞭で、本丸周囲の切岸や腰曲輪もはっきりしている。また城の周囲を堀で囲んでいたらしく、一部は堀跡も比較的はっきりしている。しかし何分、城跡が果樹園であるため、勝手に中まで立ち入ることができないので、周囲から眺めるだけである。果樹園という性格上、これ以上の史跡としての整備は難しいだろう。ちょっと残念である。/尚、地図を見るとこの付近は菖蒲沢と言われている様であるが、「勝負沢」の転訛であると思われるので、宮沢城の周辺で合戦が行われたこともあったのかも知れない。》(城跡探索ブログ『春の夜の夢』)
《尾崎家の御先祖、尾崎家の氏神様のお計らいとしか言いようのない出会いがありました。平成21年11月、飯山からの一行19名が予定より1時間も早く着かれたので、スケジュールを急遽変更して最初に熊野大社参拝をしていただくことにして一行をご案内しました。石段の途中まで来たとき、宮司が上からこちらに向かって「奇遇だ、奇遇だ」と声を上げています。なんと、そこに福島市上名倉の和光神社の氏子さんたち28名の一行がおられたのです。/慶長3年(1898)旧暦3月秀吉の命による国替えで、信州飯山尾崎を本貫とする尾崎重誉が宮沢城主として宮内に入ります。いま宮内熊野大社境内にある和光神社は、その時飯山から勧請した泉氏尾崎家代々の氏神様で和光大明神と呼ばれていました。その後重誉は半年そこそこで福島に移ります。そしてその地福島市上名倉にも和光神社が今も大切に祀られていたのでした。/ そしてなんと、飯山の一行と福島の一行が何の打ち合わせもなしに、宮内の和光神社のご神前でばったり出会うことになったのです。しかもこの日は、和光神社に正式参拝していただくべく神社にお願いしており、期せずして和光神社に縁ある3つの土地の代表が玉串を捧げることになったのでした。》(高岡 記)
◎宮澤山蓬莱院
南陽市上野曹洞宗盛興院の第4世観室順応大和尚による開山、創立年代等不詳となっているが、信州飯山の英岩寺が泉氏の嫡流尾崎家とともに宮内に移ったと考えられる。宮内で亡くなった尾崎重誉の祖母の院号が「蓬莱院殿」。飯山市のサイトにはこうある。《長峰山英岩寺の創建は不詳ですが永仁年間(1293-1299)、英岩寺天台宗の修験道場として開かれたのが始まりと伝えられ飯山市街地で最古の寺院です。当初は江岸寺と称し、初代飯山城主泉重信の菩提寺になると泉家に庇護され寺運も隆盛したと思われます。泉家は建保元年(1213)、当時の当主で鎌倉幕府御家人の泉親衡が幕府内の政争に敗れ、当地に土着したのが始まりとされ、以来、数百年にわたり泉家が当地域を支配しました。上杉謙信が死去するまで飯山城の城主として影響力がありましたが、上杉家の家督争いである御館の乱の際、上杉景勝と武田勝頼の同盟により飯山城が武田方となり、泉家も没落したと思われます。》(https://www.nagareki.com/iiyama/eigan.html)
◎吉野石膏須藤家別邸「水園」
◆須藤永次(1884-1964)という人
《吉野石膏を今日在らしめた須藤永次は、自ら「野育ち」と言うように、料亭の私生児として生まれ、13歳から9年間の丁稚奉公、そこでこすっからい商売(三べえ商法)を覚えて宮内に戻って叩き上げ、そのあげくの倒産で東京へ、ということで、宮内での生き様の印象は決して芳しいものではありませんでした。しかし永次は、悲惨な空襲の経験から「火がつけば燃え上がる紙と木の住まいを燃えない住宅に変えねばならぬ」との堅い決意をもって石膏ボード業界を立ち上げ、さらには日本の至宝ともいえる吉野石膏コレクションの土台を築いたのです。『男子、三日会わざれば刮目して見よ』、永次の一生は「変身の一生」でもありました。
永次を変えた三つの出会いがありました。「山崎るい」と「浅野総一郎」と「石膏」です。
「あなたの思い通りにやりなさい」と言いつつ陰でしっかり支え続けたのが妻のるいでした。永次一大飛躍のきっかけとなった石炭販売に導いた浅野からは、日本の実業界を背負って立つ気概と志を学びました。そして「石膏のように単純な物質で、石膏の機能を代替するものは現れない」と言われる石膏を最大限活かしきることに成功したのです。》(高岡 記)
◆須藤恒雄会長の話
《一番最後の三十五両目の貨車が八月十五日に宮内の駅に到着したわけだ。その前の日にね、「明日重大放送があるそうだから聞くように」と言われたから、お昼ごろ聞いたんだね。あの玉音放送が始まったんだ。聞いて皆ぷったまげたわけだ。まさか、敗戦になるなんて、だれも思ってもみなかったろうし。
終戦になったら、先代(須藤永次)は「マッカーサーは、これ以上日本人を殺したりしないだろう。終戦になったのだから、大至急東京に戻ってボード工場を復 活しろ」というんだ。焼夷弾一発で何百戸も焼けるような、燃える家を作らせちゃ駄目だ、戻って早くやれ、というわけだよ。
終戦の日の、その夜だよ、「大至急、東京に戻れI」という号令を出したのは。こっちは、命からがらようやく宮内に来たのにすぐ東京に戻れ、だろう。(私は)とんで もないって言ってがんぱってたのよ。疎開してきた荷を全部送り返すまで宮内におった。十月過ぎくらいまで宮内にいたんじやないかなあ。
先代は、「俺はこれから東京に行く」ってね、九月にはもう、ステッキー本持って東京に出てきたね。》
《これからは、大空襲でこれくらい焼けたんだから、必ず大復興建築が始まる。それには、またマッチ一本ですぐ撚えるような家を造らしては駄目だ、と。少なくとも内装だけは、燃えない家を造らなくちゃな らない・・・そういうことを宣伝しながらね、ボードを売ろう、ということでね、そういうことで、始まったわけだ。
ところがねえ、今度は専売特許(新たに開発した須藤式ボード製造機)になったからね、うち一軒でやってたっ
《吉野石膏を今日在らしめた須藤永次は、自ら「野育ち」と言うように、料亭の私生児として生まれ、13歳から9年間の丁稚奉公、そこでこすっからい商売(三べえ商法)を覚えて宮内に戻って叩き上げ、そのあげくの倒産で東京へ、ということで、宮内での生き様の印象は決して芳しいものではありませんでした。しかし永次は、悲惨な空襲の経験から「火がつけば燃え上がる紙と木の住まいを燃えない住宅に変えねばならぬ」との堅い決意をもって石膏ボード業界を立ち上げ、さらには日本の至宝ともいえる吉野石膏コレクションの土台を築いたのです。『男子、三日会わざれば刮目して見よ』、永次の一生は「変身の一生」でもありました。
永次を変えた三つの出会いがありました。「山崎るい」と「浅野総一郎」と「石膏」です。
「あなたの思い通りにやりなさい」と言いつつ陰でしっかり支え続けたのが妻のるいでした。永次一大飛躍のきっかけとなった石炭販売に導いた浅野からは、日本の実業界を背負って立つ気概と志を学びました。そして「石膏のように単純な物質で、石膏の機能を代替するものは現れない」と言われる石膏を最大限活かしきることに成功したのです。》(高岡 記)
◆須藤恒雄会長の話
《一番最後の三十五両目の貨車が八月十五日に宮内の駅に到着したわけだ。その前の日にね、「明日重大放送があるそうだから聞くように」と言われたから、お昼ごろ聞いたんだね。あの玉音放送が始まったんだ。聞いて皆ぷったまげたわけだ。まさか、敗戦になるなんて、だれも思ってもみなかったろうし。
終戦になったら、先代(須藤永次)は「マッカーサーは、これ以上日本人を殺したりしないだろう。終戦になったのだから、大至急東京に戻ってボード工場を復 活しろ」というんだ。焼夷弾一発で何百戸も焼けるような、燃える家を作らせちゃ駄目だ、戻って早くやれ、というわけだよ。
終戦の日の、その夜だよ、「大至急、東京に戻れI」という号令を出したのは。こっちは、命からがらようやく宮内に来たのにすぐ東京に戻れ、だろう。(私は)とんで もないって言ってがんぱってたのよ。疎開してきた荷を全部送り返すまで宮内におった。十月過ぎくらいまで宮内にいたんじやないかなあ。
先代は、「俺はこれから東京に行く」ってね、九月にはもう、ステッキー本持って東京に出てきたね。》
《これからは、大空襲でこれくらい焼けたんだから、必ず大復興建築が始まる。それには、またマッチ一本ですぐ撚えるような家を造らしては駄目だ、と。少なくとも内装だけは、燃えない家を造らなくちゃな らない・・・そういうことを宣伝しながらね、ボードを売ろう、ということでね、そういうことで、始まったわけだ。
ところがねえ、今度は専売特許(新たに開発した須藤式ボード製造機)になったからね、うち一軒でやってたっ
て、そんなもんは知れたものだから、競争会社を作ってね、切磋琢磨してやっていった方がいい、 というわけで、その今野という技術者に須藤式ボード製造機というのを造らせて、それでそっちこっちにね、競争会社を造った。そして切磋琢磨しながら拡昄しろ、ということで、ボード業界をつくったわけ。いまはそれが 「石膏ボード工業会」ということで・・・。長い間、その会長やったりなんか、そんなことで勲章二回ももらったということになんのかねぇ。》
《三菱系統の東北肥料㈱がね・・ここも燐酸肥料を多量に作っていた。それで副産される石膏の処分に困っていた。だから「ただでもいいから、これをなんとかしてくれ」と言ってきた。・・・最初は石膏代など、ただでもいいということだった。捨てるのに運賃だけでもトン何百円もかかる、大変なもんだからね。ただでもいいっていうんでやったとこ ろが、儲かり過ぎてねぇ。みな税金に納めるんじゃ勿体ないというわけで石膏代金、原料代として1トンについて二百円か、二百五十円かナ、払うことにした。 それでも儲かり過ぎるんで、六百円で計算することにした。それじゃ、吉野石膏も取れと言われたが、当座、吉野石膏は儲かっていたもんだから、余計な利益あげて税金取られても、というわけで、「いずれ吉野石膏が困ったときに利益をもらうから、この際遠慮する」って、利益の配分は遠慮した。》(『週刊置賜』)
◎妹背の松(相生の松)
「妹背の松」は、赤松が二本並び立ち、地上約4mのところで斜め横に連結している。根本は一樹のように結合し、目通りは東側のものが1.75m、西側のものが2.1mである。東側のものは真っ直ぐ上に伸び、約15mの高さに達し、西側のものは西側に垂下し、枝張りは10m西方に及んでいる。夫婦相生の形から「相生の松」とも呼ばれ、縁結び、長寿、夫婦和合の信仰の対象にもなっている。現存する全国の「相生の松」の中で最高の形と大きさ。昭和31年に山形県天然記念物に指定。
《三菱系統の東北肥料㈱がね・・ここも燐酸肥料を多量に作っていた。それで副産される石膏の処分に困っていた。だから「ただでもいいから、これをなんとかしてくれ」と言ってきた。・・・最初は石膏代など、ただでもいいということだった。捨てるのに運賃だけでもトン何百円もかかる、大変なもんだからね。ただでもいいっていうんでやったとこ ろが、儲かり過ぎてねぇ。みな税金に納めるんじゃ勿体ないというわけで石膏代金、原料代として1トンについて二百円か、二百五十円かナ、払うことにした。 それでも儲かり過ぎるんで、六百円で計算することにした。それじゃ、吉野石膏も取れと言われたが、当座、吉野石膏は儲かっていたもんだから、余計な利益あげて税金取られても、というわけで、「いずれ吉野石膏が困ったときに利益をもらうから、この際遠慮する」って、利益の配分は遠慮した。》(『週刊置賜』)
◎妹背の松(相生の松)
「妹背の松」は、赤松が二本並び立ち、地上約4mのところで斜め横に連結している。根本は一樹のように結合し、目通りは東側のものが1.75m、西側のものが2.1mである。東側のものは真っ直ぐ上に伸び、約15mの高さに達し、西側のものは西側に垂下し、枝張りは10m西方に及んでいる。夫婦相生の形から「相生の松」とも呼ばれ、縁結び、長寿、夫婦和合の信仰の対象にもなっている。現存する全国の「相生の松」の中で最高の形と大きさ。昭和31年に山形県天然記念物に指定。
横山大観 画(ポーラ美術館)
《・・・熊野神社の荘厳な森と双松公園をひかえた宮内小学校は誠に恵まれた環境であった。神社の前の年輪を経た大銀杏の古木は、春来たりなば春を告げ、冬の訪れが近づけばはらはらと黄色い葉を散らして、冬支度を急げ急げと教えてくれた。/ 私が6年生の春、父と母とがわずか1ヶ月のうちにあいついで死んでしまった。悲しみのあまり双松の下でひとり淋しく涙のかれるほど泣いたものであった。/ 戦後ほど経ってから、植物学博士東大の名誉教授の本田正次先生ご夫妻と一緒に、砂塚村の丘ひじきの盛りのころに出かけ、寺島家のひじき畑を見学してから双松の松へご案内したところ、松は半分ほど赤葉になって枯死寸前の姿であったが、先生はこんな立派な松を手当てもしない町当局も悪いが、天然記念物に指定するにふさわしいといわれ、早速山形市教育長をしておられた結城先生に連絡して、どこにもない珍木だからといって、ぜひ天然記念物に指定のできるよう手続きをお願いしたら、すぐ県庁から人夫が来て木の根を消毒してくれたり。町の婦人会の方々が酒をたっぷりのませてくれたりした効が奏して、半年後には記念物に指定され、新葉も元気よく出て、みごとに蘇生した写真を結城先生から送られてきたときは、とび上がるほどの嬉しさと喜びを感じた。それから後は帰省ごとに松の姿を見るのが楽しみの一つである。・・・》(酒井佐和子『宮内小学校100年のあゆみ』)
《・・・熊野神社の荘厳な森と双松公園をひかえた宮内小学校は誠に恵まれた環境であった。神社の前の年輪を経た大銀杏の古木は、春来たりなば春を告げ、冬の訪れが近づけばはらはらと黄色い葉を散らして、冬支度を急げ急げと教えてくれた。/ 私が6年生の春、父と母とがわずか1ヶ月のうちにあいついで死んでしまった。悲しみのあまり双松の下でひとり淋しく涙のかれるほど泣いたものであった。/ 戦後ほど経ってから、植物学博士東大の名誉教授の本田正次先生ご夫妻と一緒に、砂塚村の丘ひじきの盛りのころに出かけ、寺島家のひじき畑を見学してから双松の松へご案内したところ、松は半分ほど赤葉になって枯死寸前の姿であったが、先生はこんな立派な松を手当てもしない町当局も悪いが、天然記念物に指定するにふさわしいといわれ、早速山形市教育長をしておられた結城先生に連絡して、どこにもない珍木だからといって、ぜひ天然記念物に指定のできるよう手続きをお願いしたら、すぐ県庁から人夫が来て木の根を消毒してくれたり。町の婦人会の方々が酒をたっぷりのませてくれたりした効が奏して、半年後には記念物に指定され、新葉も元気よく出て、みごとに蘇生した写真を結城先生から送られてきたときは、とび上がるほどの嬉しさと喜びを感じた。それから後は帰省ごとに松の姿を見るのが楽しみの一つである。・・・》(酒井佐和子『宮内小学校100年のあゆみ』)
◎双松公園
◆田島賢亮(1898-1973)
《私が長い教員生活の間に、大げさにいえば、命をかけて教育をした学級、ないし学年、また学校は、大体五、六をかぞえるのですが、その中の1つが宮内小学校における五年生甲組への教育でありました。/私が俳人として世に名をあげたのは大正七年、八年に至り、滝井孝作、芥川竜之介、菊地寛、志賀直哉というような人々から、私独特の持ち味が認められて、小説家への転向をすすめられたのが同八年、したがって宮内小学校における生徒への授業や指導もまた単に形式的な常規にのっとらず、奔放自在、闊達不覊、燃えるが如き情熱を傾倒して全生徒の学力の増進に力をもちいたことはいうまでもなく、特に個々の持つ天性の発掘伸長に全力をあげたのでした。・・・・・宮内の教え子たちからは、誰かれとなく始終なつかしい便りが来ました。私の手許には、今もそれらの多くか保存されているのですが、ここにその中から二通を掲げて昔をしのびたいと思います。
佐藤忠三郎から
ワガ愛スル先生ヨ、何ヲ見ツメテヰマスカ。/アナタトイフソノ男性ハ、何モノカヲカスカニ見ツメテ考ヘルノデセウ。/一心ニハゲミナサイ。一心ニフルヒナサイ。/(オナツカシイ先生、サヨウナラ)
芳武茂介から
太陽の光を暖く浴びて、草木の芽は目をさました。川柳は何やら小さな小さな音楽を歌ひつつ、ささやかに流れる小川の傍で、仲よく遊んでゐる。/白いとみた雪のところどころに、若草が青々として見える。/一人の少年が近づいて来た。どかと腰を落し、草の芽生えを眺めなから、写真機を出して何か写した。》(「宮内小学校百年のあゆみ」)
《「以前『教える』という言葉が使われました。私には不満足であります。たとえぱ、親孝行とはかくすべきだと教えることは誰にでも出来ます。けれどもこれだけでよいものでしょうか。戦争後には『指導する』という言葉が使われるようになりました。これも不満足です。こうして親孝行をしなさいと指導すること誰にでも出来ます。けれどもこれだけでもよいものでしょうか。/ 私は、教育は『感化』であると信じております。自分自身が親孝行でなけれぱ、子供を孝行の人に感化するわけには参りません。感化は理屈ではありません。理屈などは、子供自身が先刻知っております。わかっておるのに理屈を並べるから、子供はますますいやになるのです。/ 教師や大人に純情があり、熱情があり、若々しい鋭い感性があり、けがれない良心があり、同感があれぱ、必ず子供は感動を受けます。感動のないところに、感化はありません。教育は人間との共鳴に出発すると存じます。》(『追想 田島賢亮』昭和61年)
・教え子たち
須藤克三、芳武茂介、黒江太郎、小田仁二郎、大竹俊雄(自由律俳人、果樹農家、市会議員)、吉田誠一(石工、小田仁二郎碑等)、佐藤忠三郎(同級会長、市会議員、(医)公徳会理事長・NDソフト(株)社長の父)、海老名松之助(農業)、漆山源次郎(農業、市会議員)、加藤栄一(農業)、菅原正藏(建具製造)、鈴木隆一(宮内高教頭)、高橋ヨシ(女医)、中山いち(女子美術学校時代に夭折)、高橋儀一郎(東京で夭折)、三須秀三(NHK国際調査局チーフ)、相原四郎
《私が長い教員生活の間に、大げさにいえば、命をかけて教育をした学級、ないし学年、また学校は、大体五、六をかぞえるのですが、その中の1つが宮内小学校における五年生甲組への教育でありました。/私が俳人として世に名をあげたのは大正七年、八年に至り、滝井孝作、芥川竜之介、菊地寛、志賀直哉というような人々から、私独特の持ち味が認められて、小説家への転向をすすめられたのが同八年、したがって宮内小学校における生徒への授業や指導もまた単に形式的な常規にのっとらず、奔放自在、闊達不覊、燃えるが如き情熱を傾倒して全生徒の学力の増進に力をもちいたことはいうまでもなく、特に個々の持つ天性の発掘伸長に全力をあげたのでした。・・・・・宮内の教え子たちからは、誰かれとなく始終なつかしい便りが来ました。私の手許には、今もそれらの多くか保存されているのですが、ここにその中から二通を掲げて昔をしのびたいと思います。
佐藤忠三郎から
ワガ愛スル先生ヨ、何ヲ見ツメテヰマスカ。/アナタトイフソノ男性ハ、何モノカヲカスカニ見ツメテ考ヘルノデセウ。/一心ニハゲミナサイ。一心ニフルヒナサイ。/(オナツカシイ先生、サヨウナラ)
芳武茂介から
太陽の光を暖く浴びて、草木の芽は目をさました。川柳は何やら小さな小さな音楽を歌ひつつ、ささやかに流れる小川の傍で、仲よく遊んでゐる。/白いとみた雪のところどころに、若草が青々として見える。/一人の少年が近づいて来た。どかと腰を落し、草の芽生えを眺めなから、写真機を出して何か写した。》(「宮内小学校百年のあゆみ」)
《「以前『教える』という言葉が使われました。私には不満足であります。たとえぱ、親孝行とはかくすべきだと教えることは誰にでも出来ます。けれどもこれだけでよいものでしょうか。戦争後には『指導する』という言葉が使われるようになりました。これも不満足です。こうして親孝行をしなさいと指導すること誰にでも出来ます。けれどもこれだけでもよいものでしょうか。/ 私は、教育は『感化』であると信じております。自分自身が親孝行でなけれぱ、子供を孝行の人に感化するわけには参りません。感化は理屈ではありません。理屈などは、子供自身が先刻知っております。わかっておるのに理屈を並べるから、子供はますますいやになるのです。/ 教師や大人に純情があり、熱情があり、若々しい鋭い感性があり、けがれない良心があり、同感があれぱ、必ず子供は感動を受けます。感動のないところに、感化はありません。教育は人間との共鳴に出発すると存じます。》(『追想 田島賢亮』昭和61年)
・教え子たち
須藤克三、芳武茂介、黒江太郎、小田仁二郎、大竹俊雄(自由律俳人、果樹農家、市会議員)、吉田誠一(石工、小田仁二郎碑等)、佐藤忠三郎(同級会長、市会議員、(医)公徳会理事長・NDソフト(株)社長の父)、海老名松之助(農業)、漆山源次郎(農業、市会議員)、加藤栄一(農業)、菅原正藏(建具製造)、鈴木隆一(宮内高教頭)、高橋ヨシ(女医)、中山いち(女子美術学校時代に夭折)、高橋儀一郎(東京で夭折)、三須秀三(NHK国際調査局チーフ)、相原四郎
◎宮内が頂点を極めた頃
○「郷土に立脚して宮内町附近の製糸業概況を語る」(山形縣立宮内高等学校教諭 佐藤佐武郎編著 昭和8年)
《赤湯駅をさる北西方三km小高い山塊の麓に一小黒郷(ブラック・カントリー)を見る。小場面であるが林立せる煙突に工業地帯たるを思わせる。宮内漆山一帯で今述べんとする製糸業地である。宮内町の人口約一万一千中女は男より千四百余も多い。工場町として朝夕、あたかも学校町の学生を思わせる。定刻に鳴る汽笛も好景気時代を偲ばしめる一つである。何故にここに□なるのか又附近経済上の影響は如何にと考えつつ以下を編んで見た。/その昔上杉鷹山公の御奨励ありといえども多勢氏の尽力の偉大なるものがあった。今や県下の工場数の1/3を有し生産生糸は1/2の産額を見る。宮内町附近1㎢につき工場数は22、東置賜郡の76%、県下の27%、之を全国的に見るときは、やはり田舎の小郡であるが、工業地帯としての色彩は十分にある。養蚕県の名においてふさはしきものである。将来十分発達して大製糸地となるや否やは?であるが、附近産業上より見るときは一大宝庫である。/・・・・・将来に如何なる発展をなすか。最近の生糸の暴落に製糸家も之を支援の養蚕家も喘ぎ喘ぎ煙を眺めて居る。/純然たる工業地とはいへぬとしても製糸に期待を持つこと余りにも大なる附近一帯の産業上の好転を考へつつ筆を擱く。》
《今宮内町、漆山の主要街路に沿い一瞥するに両者を合せて一万千と云ふ町なのに職業上如何にも工場地としての特殊性がある。工場地と云うよりは女工相手の工業といふ風に、先づ呉服屋の多いこと、下駄屋の多いことである。/・・・・・
今、赤湯駅の方面より主要街路に沿うと大きくは前の二件、更に詳細に見ると次の事が気がつく。
1.呉服屋の多いこと
2.下駄屋(はきもの店)の多いこと
3.小間物屋の多いこと
4.小食料品屋の多いこと
更に之が理由を考察するに、宮内町が女として千人も多いと言ふ事より考えて当然に呉服屋が多くなる。又、下駄屋の多いことも当然である。女ばかりの工場に更に年頃として服装に注意するのは当然である。小間物屋でも同様で化粧品、小調度品等にも僅かづつ乍ら相当の売行きを示している。・・・小額乍らこうした店は今日の不景気の頃最も都合よく生活している。最近小さい店は次第に模様替えされて行く有様はこうした事実を物語るものである。/小飲食店の発展せるも同様である。それ等のものは大ていテンプラを売っている。又は駄菓子を売っている。工場附近に飲食店とあるは大抵それである。夕方否昼休みなど走り出て数人で食べている。こんな事はよく衛生方面に注意して商品に注意するは勿論、風紀の方面よりも工場側の方面よりも一考の必要がある事と思ふ。》
横山大観
コメント 0