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新・mespesadoさん講義(96)今試されていること [mespesado理論]

mespesado理論の本格的展開です。結語が、《今我々が試されているのは、歴史の事実を知ることももちろん大切ですが、政治や民族の誇りなるものが、それとどういう関係にあるのか、その裏事情も含めて悟ることこそが本質である、ということに個々人がどこまで気付くか、ということではないでしょうか。》「知ること」ではなくて「悟ること」が本質である、というのです。「評価」を超えて「生きること自体」が本質である、と言い換えることができるように思えました。「新・mespesadoさん講義(86)冷徹な考察(承々前)」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-10-22 にリンクします。新たな地平の展開が見えてきそうです。

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580:亀さん:2021/11/08 (Mon) 10:26:27
今朝、三橋貴明氏の動画を観た。
唯一の天皇暗殺事件から読み解く〜聖徳太子が教科書から消されかけた謎(三橋貴明)【11/12(金)23:59までの限定公開】
https://www.youtube.com/watch?v=PoxNtXQMKrg

三橋氏は22:34あたりでグローバリズムと対抗する勢力、「ナショナリズム」を取り上げ、そのナショナリズムを形作っているものこそ、以下の三つだと主張していたが、概ね賛成である。

①日本人
②日本語
③日本史

三橋氏が自身の歴史講座に着手したのは、我々の子どもや孫が、より良い未来を切り拓いていく史料にと意図して、企画された講座だということが分かる。現在中断しているとは云え、小生も飯山史観を纏めていることもあって、三橋氏の意図が痛いほど分かる。

この三橋氏の取り上げた①~③について、いずれ飯山史観の最終章に織り込んでいく予定だが、今回は②の日本語について少しだけ言及しておきたい。そこで紹介しておきたいのが以下の動画だ。
英語ができるかどうかではなく、母国語がしっかりしているかどうか。
9割の国民が知らない「英語化は愚民化」という真実(室伏謙一×施光恒)
https://www.youtube.com/watch?v=OnemW_9d0ss

特に印象に残ったのが、対談相手である施光恒氏の以下の主張だ(35:35~)。
__________
バイリンガル教育を国を挙げて行っているシンガポールでさえ、両方の言語で一般の新聞が読めて、専門的なことについて会話が出来る国民は12~13%に過ぎない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
小生は宮本武蔵のように両刀(母語と第一外国語)を、自由自在に使える者をバイリンガルと定義しているが、施氏は「セミバイリンガル」という定義を持ち出し、「どちらの言語(母語と第一外国語)のいずれでも、難しい話(専門的な話)ができない人たちのこと」と定義。さらに、「日本でも現在行っているような英語教育を推し進めると、専門的な本は読めない・会話ができない日本人が激増する」と語る同氏の説に賛成である。

亀さん@人生は冥土までの暇潰し

581:mespesado :2021/11/10 (Wed) 10:36:12
>>580
 ご紹介の、三橋さんの動画を見せてもらいました。
 「自虐史観のウソに気付いて民族の誇りを取り戻そう」という三橋さんの主張は大変よく分かりましたし、そのご趣旨には100%賛成します。
 が、しかし…。
 かつて「皇国史観」の誤りを指摘する「古田史観」を支持し、後にその古田史観の欠点も知ったという歴史学研究の紆余曲折を経たものとして、更には昨今のコロナ・プランデミックに対する識者の認識などを俯瞰した者として、ちょっと個人的な見解を述べさせていただきたいと思います。
 三橋さんはさかんにGHQの洗脳による「自虐史観」という言葉を用いており、これは保守層・ウヨク界隈ではおなじみの表現ですが、この言葉はその本質を実は捉えていないと思います。なぜなら、自ら自分の母国、すなわち自分の祖先が経てきた歴史を「自虐的に」捉えることを良しとする主義を持つ、などということは、よほどのマゾヒストでなければあり得ない発想だからです。
 実は、この「自虐史観」の本質は、戦前の「皇国史観」に対する不満から来るものであり、その「皇国史観」とは、「お国のために自分を犠牲にすべし」という主義主張のことを意味しており、それへの反発から出来上がった史観だ、というのがことの本質だと思うのです。そういう意味で言うと、実は「自虐史観」側の言葉である「皇国史観」という言葉も本質を捉えていないと思うのです。なので、今後「自虐史観」「皇国史観」のかわりに「サヨク史観」「ウヨク史観」という言葉を使うことにしたいと思います。
 では「サヨク史観」「ウヨク史観」の本質とは何か。
 まず「ウヨク史観」の方ですが、これは明治維新前後に日本を植民地化しようとする海外、とくに欧米の勢力による外患からいかに日本人を守るか、ということに腐心していた頃の日本の立場のことであり、外国の侵略を防ぐためには、戦国時代に白人たちが宣教師を使って個々の国柄を否定して彼らのキリスト教のドグマによって国家意識を弱体化させようとした戦略に気付いていた「時の政府」が、とにかく鎖国で「国家意識」を持たなかった日本人ににわか仕込みの国家意識を速成栽培するために、急いで天皇を権威の中心とする思想で国民を「洗脳」するために、歴史を含めてその主義主張に染めていったことが、その「ウヨク史観」の特徴だと思われます。実際、『古事記』や『日本書紀』はおおむね天皇を万世一系の絶対的な権威とする書き方で書かれていますから、これを「そのまま」歴史事実として学校で教えさえすれば、その目的に叶うものとなったわけです(ただし、『日本書紀』にはしばしば残虐な天皇の話が出てきますが、そういった話は教育の場ではウヤムヤにされたりするわけですが)。そして、国家の存亡がかかってくる、とりわけ第二次世界大戦のような危機時には、国家優先、個々人の自由は二の次となるのは必然で、もともと勝算が無い事を知っていた「知識人」の間では、次第にこの国家優先主義とそれに不可分な「ウヨク史観」への反発が大きくなり、敗戦と同時に、GHQとは思惑が違うのに結果としての方向性が一致したことから、GHQの「虎の威」を借りて、国家による個人の抑圧を批判する主義に大転換するわけです。すると、思想的にも天皇が絶対的な対象として書かれた『日本書紀』は、戦前の「大本営発表」への反省もあって、「どうせ『日本書紀』のような『正史』というのは、勝者が自分にとって都合の良いように歴史を書き換えているのだろう」と「気付」いた「大いなる目覚め」によって、この史書の記述を疑うようになって、いわゆる「サヨク史観」が出来上がるわけです。つまり「国家を守る主義」が、たまたまその方針にとって都合がよい『日本書紀』の記述と合い、そこで日本が天皇の統治する国として書かれていたことから、これをサヨクが「皇国史観」と呼ぶようになり、戦後これを「国家権力が個人より上位にあったからこんな悲惨な戦争に巻き込まれたんだ」として批判するサヨクが自らの国家の持つ権力どころか戦前の国家システムそのものを批判・否定したから、これを今度はウヨクが自国を批判するというとんでもない主義だ、ということで「自虐史観」と呼ぶようになった、ということだと思うのです。
 さて、戦後70年以上が過ぎて、舞台裏で小細工することに長けた中国による「皇室への工作」など、今度はこの国家権力を批判する「サヨク史観」が彼等外国勢力に悪用され、日本の弱体化を狙っていることに気付いた現代の「知識人」により、今度は外患に悪用される「サヨク史観」の危険性に気付き、これを否定する動きが活発化し、そんな中で戦前の「ウヨク史観」を見直す動きが出てきた…。今回の三橋さんの動画はそんな流れの中にあるように思いました。
 ただ、三橋さんは、動画の中で、「自虐史観」でも「皇国史観」でもない正しい歴史を、ということを述べているのですが、私には、これを「正しい歴史」と言い切れるのかというと疑問に感じます。実際、『日本書紀』が勝者による記録であることは事実ですし、それがそのまま史実であるというのもどうかと思うわけです。
 ただ、そうは言っても、ちょっとでも『日本書紀』に関するそんな疑問点を指摘したとたんに、そこに飛びついて「自虐」に結び付けて日本人の「誇り」を無くそうとする海外勢力の力が強いのもこれまた事実です。そのため、政治的には、少し行きすぎかなと思うくらいに「ウヨク史観」にしておいた方が今日の日本の国家防衛上は「安全」なのだろう、そういうバランスの観点から見ると三橋さんの主張も合理性はあるのかな、と私もちょっと前までは思っていました。
 しかし、ここへ来てコロナ・プランデミックの登場です。これは、国家を超えた裏社会が政府を背後から脅して有害なワ○チ○を推進し、国家を信じた国民を騙す全世界的な企みです。つまり、我々は再び第二次大戦前夜の日本のような「国家による個人の自由への侵害」を経験することとなったのです。(ちなみに三橋さんは、このコロナ・プランデミックというテーマについては一切の発言を控えており、この見地を踏まえると、また違った見解を出していたかも知れません。)
 明治維新前後で国家が外患による危機に直面したとき国家を重視し、敗戦で前夜で国家権力の行き過ぎの弊害があり、戦後再び外国による見えない侵攻に気付いて再度国家重視の重要性に気付き、ここへ来て再度背後から脅されたとは言え、国家による個人の抑圧を経験する…。歴史はこのような出来事の繰り返しです。一体こんな3次元世界の中で、どのような「歴史教育」が「正解」なのでしょう
 私が言いたいのは、「歴史の事実を解明する」ことと「日本人の誇りを取り戻す」ことと「歴史について政治的に取る立場」それぞれ別のことだ、ということです。例えば、欧州では例えば「ホロコーストは無かった」という研究をすること自体が法律で禁止されたりしていますが、そもそも事実を究明することを法律で禁止するという行為は「政治行為」であって、「真実を究明する」ことを目的とした「研究」ではありません。このようなことは、外交上「事実が明かされるとマズい」というような場合にはしばしば生じることですし、また米国で自分たちがネイティブアメリカンを過去に虐殺してきたという「歴史事実」を教える米国版「自虐史観」の動きが最近ポリコレの一環として出て来ていますが、これが彼らの「民族の誇り」を否定する効果を見せていることは、日本の「自虐史観」の再演かと思うほどです。また、韓国も、「自力で独立を果たせなかった」という「事実」を受け入れると民族の誇りが保てないので、真実の歴史が普及しないように必死になって国際政治の場で暗躍しているのは誰もが知るとおりです。また、いくら「白人がアジアやアフリカの地元民たちを騙して残虐な方法で植民地化してきた」ことが事実だとしても、その「加害者」である白人が現在でもご健在であるうちは、学校教育でそのまま事実として教えることは「外交上の理由で」憚られるでしょう。
 今我々が試されているのは、歴史の事実を知ることももちろん大切ですが、政治や民族の誇りなるものが、それとどういう関係にあるのか、その裏事情も含めて悟ることこそが本質である、ということに個々人がどこまで気付くか、ということではないでしょうか。

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