浪花千栄子自伝『水のように』
NHK『おちょやん』も最終盤、ずっと気になっていた浪花千栄子の「唯一の著書にして自伝」という『水のように』を買って、ドラマのシーンを思い出しながら一気に読んだ。ドラマ以上に壮絶だった。
小学生の頃、月曜の夜7時半から9時まで、NHKラジオ第一放送を聴くのが楽しみだった。宮田輝アナウンサーの「三つの歌」、アチャコと浪花千栄子の「お父さんはお人好し」、そしてクイズ「私は誰でしょう」。立って手が届く高いところにあったラジオの下で1時間半、じっと聞き入っていた自分の姿が思い浮かべることができる。ドラマの筋などは何も記憶にないが、その時からアチャコと浪花千栄子の2人は私の中でごく親しい。「さえこお姉ちゃん」が好きだったのに、キャスト一覧の中にその名が見当たらないのが腑に落ちないのだが・・・。
「おしん」もそうだが、明治生まれの子供たちは、今ではとても考えられないいっぱいいっぱいの暮らしがごく普通にあった。私の身近でも、おそらくそういう経験とともに育ったであろう人の顔が何人も思い浮かぶ。そういう人が年を重ねてどうなったか。自ずと身についた頑なさのようなものが、浪花千栄子とも多く重なる。われわれ世代にはもう持ち合わせない強固な感覚を得難く思いつつ、それにつけても今の「豊かさ」を有り難く思うべきなのだ。あらためて昨日の記事。→「「豊かさ」平等享受社会」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-04-10-1 そしてこの記事にリンクするのが著者が出会った大事な人として登場する松下幸之助。
《「浪花さん、私は、人様のお世話をするときは、自分の持っている器にいっぱいものを入れて、そこからこぼれる余分のものがあったら、人様のお世話をすることにしています。自分にどうしても必要な一杯しかないものを、人様に半分分ければ、何かいいことをしたような錯覚を起こす。しかし自分を満腹にしない、人も満腹しない。まことに中途半端で、世話を受けた人も、これでは不平は出ても、感謝してはくれない。たいへんむずかしいことですが、完全な意味で人を世話するということは、まず自分が完全でないといけないと、私は、常々思っています。」》(139p)この考え方はそのまま、水道の水のように低価格で良質なものを大量供給することにより、物価を低廉にし消費者の手に容易に行き渡るようにしようという松下幸之助の経営哲学「水道哲学」につながる。そうして日本は「豊かさ」を得て今に至る。ところが今や水は蛇口の手前まで溢れかえっているのに蛇口を開ける手立てが準備されていない。気持ちは依然と昔のまんまの倹約脳。だれもが気軽に蛇口を開けれる形をつくることこそが今の最重要課題、ということか。ドラマの『おちょやん』の今後の展開、離婚騒動がどう描かれるかもあわせて、どんな結末で終わるのか楽しみです。
【今朝の双松公園】
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