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新・mespesadoさん講義(28)「豊かさ」平等享受社会 [mespesado理論]

《格差を解消したいと思うとき、所得が低い方を引き上げることよりも、所得が高い方を引きずりおろす方を好む。←これはなぜそうなるかというと、人類の歴史の大半は資源不足の時代であり、貧しい人間を豊かにしようとしても資源不足で物理的に出来ない。これに対して豊かな人間を引きずりおろすことは資源不足でも出来る。だから、この、物理的に可能な方が人間の本能にビルトインされてしまっただけのことに過ぎないと思う。》ところが、少なくとも日本は、モノは十分あり余っている状態。「技術革新で環境が変わり、資源不足が解消したのだから、そもそも労働強化する必要なんか無いじゃん。更に富裕層を引きずりおろす必要も無いじゃん」》ということへの頭の切り替えを、というのがmespesadoさんの一貫した考え。私にとってもここがいちばんの「目からウロコ」でした。

《根本に立ち返って考えれば、何も途方に暮れる必要は無いわけで、経済成長が鈍化したのは、別に労働者が怠けたからではなく、供給が需要に追いついたからに他なりません。で、これ、実は驚くべきハッピーなことなわけです。なぜなら供給力が余りまくっている、ということですから、人類の長年の理想であった「国力増強」と「福祉」を、両方ともしかも十分な規模で実行できるようになったんですよ!何を悩む必要があるんでしょうか。あり余る労働力を思い切り「国力増強」と「福祉」に振り分ければよい。実に簡単なことです。なのにどうしてそれができないのか?》mespesadoさんの2017/11/25の発言です。→http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16256324/577/ mespesado理論のいちばん大事なところです。「mespesadoさんによる1億人のための経済講座」の記念すべき第一回のコメント欄から掘り出してきました。→https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-11-06 ものすごく大量のmespesadoさん発言が詰まっていますが、ここをじっくり読み返すことで「後ろ方向に発展させていく」ということの意味が体得できそうな気がしているところです。

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210 名前:mespesado 2021/04/09 (Fri) 08:58:15
 うずらのブログの最新エントリー↓
https://ameblo.jp/kobuta1205/entry-12667076162.html
所得の低さこそが格差の本質
では、現代ビジネスの次の記事↓
盛り上がる「ベーシック・インカム」政策、
その「大きな落とし穴」に気づいていますか?
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81855?imp=0

における慶應義塾大学教授である井手英策氏の発言が取り上げられ、批判されている。その発言の中でも
> ベーシック・サービスを実現するには同時に消費税を上げることがどう
> しても必要です。そうでなければ、富裕層叩きにはなっても、結局、今
> 苦しんでいる人を見殺しにすることになるからです。(略)消費税を使っ
> て、豊富な税収を思い切って使う。それが、本当に困っている人たちの
> 暮らしを楽にする近道だと申し上げています。

の部分は酷い。一体いつまで税を財源だと勘違いしたまま議論し続けるのだろう。思えば、慶応大学の経済学部というのは、多くの誤った貨幣論に基づいた政治家やら財務省の御用学者やらテレビキャスターやらを輩出しているので有名だが、この慶応大学の創設者である福沢諭吉が緊縮脳だったのか?
 ところが次のような本が出ているようだ↓
まだMMTを知らない貧困大国日本 新しい学問のすゝめ

↑例の、正しい貨幣観と正しいトランプ観を併せ持つ小浜逸郎氏のMMT本である。この本のレビューによると、福沢諭吉はMMTの考え方の一歩手前まで達していたらしい。
 何ということだろうか?正しい考え方の根幹が弟子に伝わらず、弟子が本来の精神と真逆の方向に暴走してしまう。それはなぜなのか?
 冒頭のうずらのブログの最初の方の次の記述にそれを考えるヒントがあると思う↓
> 格差解消を訴える論者は多いが、そのほとんどは、「富裕層と一般大衆
> との所得や資産額の差異」にばかり着目し、結局は「金持ちの待遇を引
> き下げろ」、「議員や公務員の給料を減らせ」という上部層(※公務員は
> とても上部層とは言えないが…)の引き摺り下ろしに終始するだけ。

> 彼らが富裕層に向かって「アイツらは貰い過ぎだ!」と糾弾するエネル
> ギーは、「真面目に働いている俺たちの給料をもっと上げろ!」という
> 熱量を遥かに凌駕している。

 格差を解消したいと思うとき、所得が低い方を引き上げることよりも、所得が高い方を引きずりおろす方を好む。←これはなぜそうなるかというと、人類の歴史の大半は資源不足の時代であり、貧しい人間を豊かにしようとしても資源不足で物理的に出来ない。これに対して豊かな人間を引きずりおろすことは資源不足でも出来る。だから、この、物理的に可能な方が人間の本能にビルトインされてしまっただけのことに過ぎないと思う。
 このことから得られる教訓は、「格差が良くないから格差を解消しよう」という当初の理念は至極まっとうであり、資源不足という当初の環境下では資源不足を解消するために労働を強化するように人々を啓蒙するのも極めて真っ当な政策であり、それが行き過ぎて労働者が疲弊すれば、「働かざる」富裕層に批判の目が行き、富裕層を引きずりおろそうとする「人間の本能」に火が付くのもこれまた自然なことである。
 しかし、ここから「技術革新で環境が変わり、資源不足が解消したのだから、そもそも労働強化する必要なんか無いじゃん。更に富裕層を引きずりおろす必要も無いじゃん」という方向にはなかなか考えが進まない。
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 ある理念なり理論なりを考察するとき、その理念や理論にはその発展史や研究史というものがある。歴史上のある一点Aにおいて、その理念や理論が誕生し、幾多の思想家や研究者による理念・理論の進化が生じて、現在における集大成Bが得られている。
 この理念・理論の進歩にかかわっている思想家や研究者は、現在地点であるBに居て、それを更に発展させようとする。ときどき考えに行き詰って、過去を振り返ってA地点からB地点の間にどんな進展があったかを眺めてヒントを得ようとすることもある(温故知新)。だが、それはBより先に進むためのヒントを得る手段に過ぎないので、過去に遡ることばかりやっていると「過去に囚われるな」という批判を受ける。まあ当然だ。
 ところが、理念や理論を整理するとき、発展史・研究史という形の整理の他に、もう一つの整理の仕方がある。それは、現実の発展史・研究史というものを一度無視して、現時点において判明している当該理念・理論の全貌を、土台から幹・枝・末端へと論理的演繹の順に並べる方法だ。いわゆる「基本原理」というものを出発点に起き、そこから論理的・演繹的に導かれる結果を順に列挙していき、その究極的結果を最先端の位置に置く、という整理の仕方だ。数学では『ブルバキ数学原論』という試みがそれに当たる。
 このような整理の仕方をすると、最先端を更に発展させるという作業だけでなく、一番最初の「基本原理」それ自体を、更に「なぜそうなるの?」と遡り、当該理念・理論の更なる根源を知るべく、いわば後ろ方向に発展させていく、というのも極めて重要な作業であることがわかる。
 ところが、日本人に限らず、人類にとって、この「論理的・演繹的な順序」に整理した場合の「後ろ方向に発展させていく」というプロセスが、どうも欠けているような気がしてならない。実際、ガチガチな理論の親玉ともいえる数学のブルバキ数学原論でも、「基本原理」は最初に書かれているが、なぜそれを基本原理にするべきなのかという必然性は一切議論されることが無く、今日においても全く進展が無いように見える。いわんや実学の中の実学である政治・経済の分野をや。
 そもそも緊縮財政論が根本的に間違いだ、という理論がMMTで初めて出てきたのも当然のことであり、経済学そのものが、「研究史」的に発展して出来たものであり、「基本原理から演繹的に整理された」ものではない。
 私は >>207 で、日本人は
> 頭脳という資源そのものは十分過ぎるほどあるのに、なぜその賢さが政
> 治に反映しないのか?
と書いたが、日本人は「基本原理から演繹的に整理する」というのがあまり得意でもなく、好きでもないようだし、そもそも仮に「基本原理から演繹的に整理する」ということをやったところで、日本人だけでなく、すべての人類が「後ろ方向に発展させていく」ことを不得手とするのだから、うまく行かないのも当然なのではないか、という気がしているところである。

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