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直江兼続「西明寺展望に題す」 [歴史]

米沢遠山の西明寺に行ってきた。東北古典彫刻修復研究所の手によって修理が完成した「木造十一面観音坐像」の御幕の注文で、何の予備知識もないまま息子に付いていったのだが、住職と話していて驚いた。直江兼続による「西明寺」を読み込んだ漢詩があり、先代住職の時代に建立されたという詩碑があるお寺だった。《直江兼続が米沢の町を眺めた地 西明寺は米沢市街の西南、なでら山の麓にあります。元々は越後にあった寺でしたが、上杉家が会津、米沢と移封になる度に移動してきました。/この寺は、町中より高めの場所にあるため、米沢市街が見渡せます。 直江兼続は、時々この寺を訪れて、米沢の町が出来て行く様を眺めていたと言われています。/鷹狩りの際に寺に立ち寄り詠まれたという詩が、石碑として寺院内に建てられています。/西明寺には、直江兼続の詩碑の他、上杉綱勝が会津から嫁いだ媛姫の病気全快を祈願して植えたといわれる『虎尾樅(トラノオモミ)』の木(山形県指定文化財(天然記念物))、綱勝公が再建したといわれる薬師堂、そして米沢市指定文化財である西明寺木造十一面観音坐像があります。/また西明寺の北には、伊達政宗の父・輝宗を弔うために建てられた覚範寺(かくはんじ)跡があります。》https://yonezawa-kankou-navi.com/person/naoe_02.html

西明寺から米沢展望.jpg遠山展望 直江兼続.jpg

     西明寺展望に題す  

   遠山西望西明寺            遠山西に望む 西明寺
   緬憶時頼投宿秋    はるかに憶う 最明寺投宿の秋
   暮月林間将輾外      暮日林間まさに 外にめぐらんとし
   無端衣色金風流    無端の衣色 金風に満つ

住職と奥様の話の中に北条時頼と能「鉢の木」の話が出てきて、その時はよく呑み込めなかったのだが、「恵日山西明寺」という名そのものが、時頼の入道名「最明寺」に由来することを「直江兼続漢詩校釈」(島森哲男)に記された由緒書きで知った。「鉢木」と同じような伝えがこの寺にあったことに驚く。「鉢木」については、「北条郷」関連で以前書いたことがある。→「北条郷熊野の夏まつり」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-07-26

愛宕神社.jpgもうひとつ驚いたシンクロ体験。ちょうどこの日の朝、斎藤喜一さんが、「熊野大社の紹介で宥明上人について知りたいというご夫婦を仙縁石などにご案内してきた」と言って見せてくれたのが、米沢愛宕神社の権禰宜さんの名刺。愛宕神社は西明寺からすぐ。そんなことから、西明寺のご住職に宥明上人のことを話すことになった。西明寺弘法大師像のコピー.jpg宥明上人が超能力を授けられたのが弘法大師、西明寺は真言宗で、立派な弘法大師像がある。まもなく建設始まる顕彰社のこともあり、宥明上人のおはたらきを思うことになった。

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直江兼続漢詩校釈*島森哲男
file:///Users/takaoka/Downloads/bull.mue_51_242-270-6.pdf
    〔失題〕
  遠山西村 裡望西明寺  遠山西に望む西明寺 
  緬憶時頼投矣(宿)秋  緬(はる)かに憶う時頼投矣×〔宿〕の秋
  暮月林間端将輾外    暮月林間将に外×〔上〕に輾ぜんとして
  端衣色金遇風流     端無くも衣色に金風流る
▽七絶。下平声十一尤韻(秋・流)起句踏落し。
[新月]?底本木村本に拠る。
△木村德衞『直江兼続伝』に引く「兜山夜話」によれば、「西望」作「村裡」。「矣」作「宿」。「間」作「端」。「外」作「上」。「無端」作「若斯」。「金」作「遇」。木村德衞は続けて云う「尚誤字があるものと思われる」。ここでは「矣」を「宿」に、「外」を「上」に改め、他は底本どおりとしておく。
いま西明寺境内にこの詩の碑が立っている。碑文はすべて書き下し文で「西明寺展望に題す」と題し、「遠山西に望む西明寺/はるかに憶う最明寺投宿の秋/暮月林間まさに外にめぐらんとし/無端の衣色金風に満つ」とある。(「時頼」作「最明寺」。「流」作「満」。)やはり意味がよくわからない。
●作詩年次未詳。木村德衞云う、「この詩は、休日、兼続西の山辺に紅葉狩の時、黄昏、上長井より遠山邑の西明寺を望んで詠じた七絶である」と。
○遠山:詩の言葉としては遠い山の意だが、地名の遠山村(西明寺の所在地)でもあろう。
○緬憶:「緬」は遥か。はるかに憶う。回想する。明の劉若愚「酌中志・見聞瑣事雑記」に「緬かに君の容を憶えば、宛然として目に在り」。
○西明寺:山形県米沢市遠山町にある恵日山西明寺(真言宗豊山派)。余説に載せる。寺の由緒書参照。
○時頼:鎌倉幕府の執権北条時頼(一二二七~一二六三)、後に出家して最明寺入道時頼と号した。出家後は身分を隠して諸国を巡遊し、地方の実情を観察して回ったという回国伝説がある。特に鉢の木伝説が有名。
○投宿:やどにつく 泊る。漢・劉向「九嘆・逢紛」に「平明蒼梧を発ち/夕べに石城に投宿す」。
○暮月:夕暮れ時の月。漢語では「春暮の月」という言葉はあるが、「暮月」は見えない。
○林間:林の中。孫綽「遊天台山賦」(『文選』巻十一)に「朱闕林間に玲瓏として/玉堂高隅に陰映たり」。司空図「柏梯寺懐旧僧」(『三体詩』巻三)に「縦い人の相問う有りとも/林間書を拆くに懶し」。白居易「送王十八帰山寄題仙遊寺」に「林間に酒を暖めて紅葉を焼き/石上に詩を題して緑苔を払う」。
○輾外:「輾」は車の車輪をきしらせる、めぐらせる。鄭谷「曲江春草」(『三体詩』巻一)に「香輪青青を輾〔きし〕り破ること莫れ」。陸亀蒙「和皮日休酬茅山広文」(『三体詩』巻二)に「会〔かなら〕ず?輪を輾〔めぐ〕らせて玉皇に見ゆ」。底本は「輾下」に作るが、意味の上からここは月を車輪に見立てて、それが「上」に登ってきたことを表現したものと理解して、一本に従い「輾上」に改めておく。
○無端:はからずも。思いがけず。ここは月光の金と秋風の金とがはからずも重なって、ということだろう。李商隠「錦瑟」(『三体詩』巻二)に「錦瑟端無くも五十絃/一絃一柱華年を思う」。賈島「酬慈恩文郁上人」(『三体詩』巻二)に「聞説く又た南嶽を尋ねて去ると/端無くも詩思忽然として生ず」。
○衣色:最明寺入道時頼の旅の衣の色。
○金風:秋風のこと。晋の張協「雑詩」(『文選』巻二十九)に「金風素節に扇し/丹霞陰期を啓く」。李善注に「西方を秋と為し、而して金を主とす。故に秋風を金風と曰う」。ここは月が昇り秋風が吹いて、月の金色と秋風の金色で、旅の衣が文字通り金色に染まったということだろう。
遠山村から西に望む西明寺。遥か昔、最明寺入道時頼どのの投宿された秋。夕暮れ時に月が林の向こうから顔を出す。月の光も金色、秋の風も金色、時頼どのの旅の衣ははからずも金色に染まったことだろう。
【余説】西明寺のホームページに載せる寺の由緒書をそのまま引用しておく。
「(前略)慶長六年(一六〇一年)八月、家康から長井郡仕置きが決定し、この年末から家中の大移動が開始され、同時に多くの寺社も移転してきた。恵日山西明寺は越後から米沢の遠山村に移転してきたものという。寺の由緒書によれば、「羽前国置賜郡遠山村恵日山西明寺は、慶長年中越後国より米沢に引き移りし寺也。」由来に曰く、「宗尊親王御治世執権職北条入道最明寺時頼殿、建長年間(一二四九~一二五五年)諸将の賢愚、士卒の剛胆を正に知らんと欲し、身を行脚にやつし諸国を巡歴す。下越後に至り行き暮れて貧敷農家に一泊を乞う。亭主何某有徳の者にて、所縁もなき僧とはいえども、暮困難せん事を憐察し、懇ろに取り扱い貧しき中にも心を用いて厚く饗応しける。翌朝入道殿出立せんとし給う時、この家の女房安産す。亭主入道殿に請うて曰く、愚妻只今安産男子出生せり、是れ迄度々産すといえども、いかなる前業にや夭死して育ち難し。出生の子に名を賜るべしと只管に嘆願しけり。入道殿不憫に聞こし召し我が法名をとりて、西明寺と名付け給う。亭主大切に撫育しけるが安全に成長しけり。その後、郡役にて彼の西明寺、鎌倉に登りける所、傍輩共、西明寺、西明寺と呼びける故、公役人不審に思いその謂れを問うに、出生の時の事件を詳らかに答えた。その旨台聴に及ぶ処、入道殿先年の厚情・仁慈、且つ出産の時に一泊せし因縁を思し召しだされ、有難くも其の者の年貢・郡役を免じ国元へ帰村致されたり。西明寺、この時始めて北条時頼殿なるを知り、御恩沢の厚きを奉戴し、農業を廃し出家となり、我家を寺に建立し、西明寺を寺号となし、恩恵の深きを以て恵日山と号し、三密偸伽の法を修し、国家長久を朝暮祈念怠ることなし。是れ恵日山西明寺の祖なりと云々。」
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米沢・西明寺の市文化財「木造十一面観音坐像」修理完成
  • 写真・図版

 山形県米沢市遠山町の西明寺(さいみょうじ)の市指定有形文化財「木造十一面観音坐像(ざぞう)」の保存修理が完成した。戦国時代の16世紀後半に京都の仏師が制作したとみられ、当時、この地域を治めていた伊達氏の関与が推測される木造。劣化が進んでいたが、構造を強化し、欠損部分も補い、戸田清崇(せいしゅう)住職は「感無量です」と喜んだ。

 2019年4月から2年間かけ、東北古典彫刻修復研究所(上山市)が修理した。事業費は約410万円で、米沢市からの補助金のほか、朝日新聞文化財団も助成した。

 市教育委員会によると、十一面観音は深い慈悲で民衆の苦しみを取り除き、功徳を施す菩薩(ぼさつ)。坐像はヒノキの寄せ木造りで、像高は88センチ、台座の高さは62センチ。銘文に製造年が1588(天正16)年、制作者が京都の仏師、康住などと記されている。

 白鷹町の正念寺にある阿弥陀如来像など、同じ仏師が制作した像が県内にほかにもあることや、西明寺の近くには伊達政宗の父輝宗の菩提(ぼだい)寺・覚範寺があったことなどから、西明寺の坐像も伊達氏の関与が考えられるという。これは、京都の文化、文芸を受け入れていた伊達氏の文化事業の一環とみられ、京都との文化交流のレベルの高さや、地方文化の興隆を考えるうえで貴重なものという。

 地元では、地名から「遠山観音」や、像が座る蓮台(れんだい)がユリの根に似ていることから、「百合観音」とも呼ばれ、信仰されてきた。

 修理前の坐像は経年劣化などで、部材が多く遊離していたり、ネズミなどにかじられたりした跡があったという。このため、解体による根本的な修理を基本に、部材の補修や、欠落していた部位を新たに制作した。台座に構造材を仕込み、安定させた。

 25日に西明寺で関係者向けに完成説明会があり、修復研究所の渡辺真吾副所長が修理内容を説明した。西明寺は今後、本堂に坐像を安置し、一般公開していく予定という。(石井力)


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