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「宮内の歴史」ということで、語りたかったこと(1)龍口神社 [地元の歴史]

小、中、高校同窓で一年後輩のKTくんからの誘いで、KTくんの同級生と首都圏在住の知人夫婦6人ぐらいを前に「宮内の歴史」を語らせていただく機会を得た。会場はKTくんの同級生が女将の高畠幸新館、松茸料理フルコースをご馳走になってきた。どんな切り口がいいか考えているうち、今自分にとっていちばん旬な話題から入ろうという気持ちになった。
先日こう書いた。《今年の宮内小の児童数320名、奇しくも須藤永次が生まれた前年(明治16年)の宮内小と等しい。そこから製糸業の発展とともに宮内は大きく伸張する。一時は人口12,000人に達せんとし(昭和23年)、宮内小の児童数が2,000人を越えた時代もあった(昭和20年)。そして今、まさに蟠竜昇らんとす、この5月に金山の龍の口明神(龍口神社)が熊野大社に遷られたことも、昨今のおくまんさまの賑わいとも思い合わせて、奇霊(くしび)なことである。https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-05-15https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-10-01金山龍口神社を熊野大社厳島神社に合祀したことで、風水におけるパワースポットとしての龍穴が、熊野大社に移ったように思えたのだ。それがこのところの熊野大社の賑わいになっているのではないか。ここ10日ほどそれを思っていた。そこから語り始めたかった。資料づくりは、11日当日の朝から。結局家を出る3時ぎりぎりまでかかった。以下、語ったこと、語りたかったことを整理しておきます。
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「宮内の歴史」ということで、いま語りたいこと

◎金山龍口神社の熊野大社厳島神社への合祀https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-05-15
◆経緯
飛騨福来心理学研究所(六次元会)髙橋宥明上人長南年恵刀自を顕彰する神社をゆかりの場所(南陽市)に建立したい。
②髙橋七兵衛家が中心になって守ってきた龍口神社の存続をどうするか。
③南陽市に事務局を持つ「宥明上人顕彰会」(会長 加藤茂)が①と②をリンク。→六次元会が土地譲渡を受け新神社建立の方向へ。
④龍口神社の御祭神は市杵島姫命であることから、同じ御祭神の熊野大社境内社の厳島神社に合祀することで熊野大社の了解を得る。
⑤合祀に向けた手続き開始。(神社庁、法務局)→令和2年3月完了。
⑥令和2年5月13日、無事合祀。→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-05-17-2
⑦8月23日、地鎮祭。
※今年完成予定だったが、コロナのため今年は基礎工事までで、来春から建設工事。石工職人も大工さんも飛騨から泊まりがけで。
※この過程で、池黒皇大神社所蔵の日本最古かもしれない棟札に、飛騨匠の伝説的人物「韓志和(からしわ)」の名が記されていることを知った→日本最古の棟札https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-01-04/「韓志和」とは(池黒皇大神社)https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-01-05
※ ↓は現在の様子。
正面(北側).jpg東側.jpg六次元.jpg
【2020.11.3 整地なったと聞いて今朝行ってきました。】
正面.jpg西北.jpg真東.jpg東側.jpg
小滝街道を越えて置賜盆地の山並みが見え出す、まさに龍ノ口にあたる位置にあります。
後ろ遠景.jpg背景2.jpg
◆意義
◇まず龍口神社について
①室町時代の武将髙橋七兵衛がついに見つけて住みついた勝景の地。(↓「ロマンを探る」参照)
②龍口神社の位置はぴったり四神相応。「龍口」は白鷹山塊の龍穴の意。(白鷹山地は、東の奥羽山地、西の朝日山地から完全に独立した山地で、東西置賜、東西南村山5郡の交界をなしています。その形成は今から100万年位前の火山爆発に始まります。/主峰白鷹山(994m)には、虚空蔵尊が祀られています。役行者(634-701)による開山 ともいわれ、御本尊は、行基菩薩(668ー749)彫刻と伝えられます。米沢藩第三代藩主上杉定勝以来代々藩主の祈願所で、鷹山公も25歳の時の御参拝記録が残ります。鷹山の号は当山に由来するともいわれます。/古来「高い山」といって、例祭日の旧暦4月17日に弁当をもって山に上り、神様と饗食する風習がありました。虚空蔵尊は養蚕の神様として信仰を集めていたことから、広い地域 からの老若男女が列をなしてにぎわいました。今は、5月13日を例祭日として「山頂サミ ット」も開かれ、置賜・村山交流の貴重な場となっています。)『里山暦』
③三大古墳との不思議な位置関係大朝日岳山頂ー龍口神社ー天神森古墳(小松)が90度。飯豊山神社ー龍口神社ー稲荷森古墳(赤湯)が60度。龍口神社ー戸塚山古墳(米沢)ー西吾妻山頂が一直線上。
金山郷(商工会報).jpg龍脈図.jpg龍口神社配置図.jpg
◇熊野大社について
①「北に丘陵、南に沃野、東に清流吉野川、西には京師に続く矢の目街道」、まさに四神相応。
②山形県内寺社との不思議な位置関係。
(1)夏刈資福寺跡を中心にした置賜山岳神社の不思議な相関。(置賜まんだら図)
(2)湯殿山神社ー熊野大社ー慈恩寺(寒河江)、慈恩寺ー熊野大社ー山寺立石寺、山寺立石寺ー熊野大社ー熊野岳熊野神社が全部30度、ということは、湯殿山神社ー熊野大社ー熊野岳熊野神社が直角。(湯殿山神社と熊野岳熊野神社を直径にした円を描くと熊野大社は円周上)
(3)長井葉山ー熊野大社ー村山葉山、村山葉山ー熊野大社ー上山葉山でつくる角度がともに60度。しかも熊野大社から長井、熊野大社から上山葉山の距離が等しい。さらに村山葉山と熊野大社を結ぶ線上に宮内羽山があり、その線を南に延ばした先に米沢の兜山がある。
③熊野大社の御祭神考。→伊邪那美命の御本霊?(次記事)
置賜まんだら4E38080E7868AE9878EE381BEE38293E381A0E38289E79BB8E996A2E59BB3.jpg出羽三山と熊野大社配置図.jpg葉山熊野大社配置図.jpg
◇以上より、このたび熊野大社に龍口神社が合祀されることで、熊野大社は名実ともに「龍穴」となった。金山龍口神社は白鷹山塊を龍に見立てた「龍穴」であったが、熊野大社は、出羽三山から鳥海山、さらに秋田、青森までつづく出羽丘陵(出羽山地)を一頭の龍と見立てた上での「龍穴」といえるのではないか。
※参考記事:宮内の地霊が動き出した!https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-01-29-1
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●長南年恵 http://霊能.com/p042/
長南年恵は、明治時代に生きた超能力者・霊能者(霊能力者)として知られる女性です。1863年12月、現在の山形県鶴岡市に生まれ、満43歳で亡くなりました。彼女がたびたび起こしていた不思議な現象が詐欺行為とされて、何度も逮捕された経歴があります。しかし1900年、法廷内において人々の目の前で霊現象を起こしたことで、裁判長から無罪放免を言い渡されたと伝えられています。今日までの日本の裁判で、超能力を使って無罪になった唯一の事例として記録されていることで有名です。今回はこの長南年恵について、その生い立ちから生活、超能力、逮捕の遍歴など、彼女の人生について紹介します。

明治時代に生きた超能力者 長南年恵
長南年恵の名の呼び方は、「おさなみ・としえ」とも「ちょうなん・としえ」とも言われ、どちらも正しいとする説や「ちょうなん」が正しいとする説などはっきりしていません。さらに鶴岡市の戸籍によれば、本名は「登志恵」だとも言われています。彼女は1863年12月6日、羽前国庄内高畑、つまり現在の山形県鶴岡市日吉町に、庄内藩士の長女として生まれました。伝えられているところによれば、彼女は人並み外れて無口で、母や目上の者に対しては極めて従順、その命令に背くようなことは一切なかったそうです。また非常に無欲で、誰かが欲しいと言えば、羽織やかんざしなどを惜しまず与えたとも伝わっています。年恵が11歳の頃、鶴岡に小学校が開校したものの、入学できずに子守奉公をしていたそうです。そしてその頃から、予言めいた言葉を口走るようになったと言われています。以後その噂を聞いた住民たちの、様々な相談に乗るようになっていったのでした。

長南年恵の超能力・霊能力
「万病に効く」という神水と呼ばれる霊水を、人々の目の前で満たすという超能力を多くの人の前で披露した年恵。実際、密封された空の一升瓶の中に、空気中から取り出した赤、青、黄など様々な色の神水を満たしたと伝えられています。この霊水を飲んだ難病患者の病気が治ったことから、たちまち「万病の薬」だと評判になります。一方、冷やかし目的で年恵の前に現れて神水をせがんだ者や、不治の病を患う病人については、神水は授からず空瓶のままだったというエピソードもあります。その能力は卓越しており、一度に一升瓶40本ほどの量を満たすこともできたそうです。彼女はこの霊水を引き出す能力の他にも様々な能力を持っており、特に遠方から何もないところへ物を引き寄せる能力に卓越していたそうです。その他、ポルターガイストや霊界の神仏との会話、トランス状態で踊ったりテレポーテーションしてみたり、様々な超能力や霊能力を見せたと言われています。

水のみで生きていた?
年恵には、その超常現象を起こした伝説の他にも、その生活や身体のことで非常に多くの不思議なエピソードが残っています。まず、35歳頃から生水と生のさつまいも以外は一切受け付けない体質になったという話。それ以外の物を飲食すると嘔吐・喀血してしまうのだそうです。しかしながら、驚いたことに身体は頑丈で肉付きもよく、非常に健康体であったそうです。また排泄物はほとんどなく、風呂に入らなくとも髪や身体はいつも清潔だったとも言われています。

3度の逮捕と裁判
彼女は万病を治す霊水を取り出すことができる、この話を聞きつけた人々が彼女の元に殺到してから、彼女は一躍世間から脚光を浴びることになります。そして、ついに「医師の資格なしに病気治療と称する行為を行った」という詐欺行為によって逮捕されることになるのです。1895年と1896年、このときは拘留されるものの証拠不十分で釈放されました。しかし1900年に3度目の逮捕となり、同年12月に神戸地方裁判所で再審を受けることになります。この裁判では尋問が終了した後、ある大きな出来事が起きました。裁判長が密封して封印したという空き瓶に、「神水を充填させられるか?」と問い詰めたのです。それを聞いた年恵は、「少し集中する時間があれば可能」であると返したそうです。そして裁判中に身体検査が行われ、別室で精神集中をした後、裁判長によって密封された空き瓶に茶褐色の神水を満たしたのでした。これにより確かにその超能力を認めた裁判長は、彼女を無罪放免としたのです。この事実は当時の毎日新聞に掲載され、裁判の記録も神戸地方裁判所に残っています。

長南年恵の最期
法廷においてその超能力と霊能力を発揮し、その力を認めさせた歴史に残る出来事を残した年恵はその後、生まれ故郷の鶴岡へと戻り、43歳でこの世を去りました。死の2ヶ月前には、自身の死を予言していたそうです。この長南年恵について残る記録は、彼女の弟である長南雄吉によるものが多く、後に心理研究家である浅野和三郎がまとめています。
短い生涯の中で、その不思議な能力を発揮し、世に知らしめた長南年恵。その類いまれな生には、未だに多くの謎が残されています。

高橋宥明上人について http://syonin.blog87.fc2.com/blog-entry-4.html
 明治、大正にかけて活躍された、山形県南陽市荻赤山出身の天才霊能者・高橋宥明上人が誕生して、今年(2008)11月9日で150年になります。地元では、生誕150年を記念して、有志が「高橋宥明上人顕彰会」の結成に向けて準備を進めておりますが、全国からの参加者を募っています。
 宥明上人は、弘法大師の導きで霊能力を与えられ、全国を舞台に活躍された方です。弘法大師に導かれたという巨岩が今も山中に残っていて、仙縁石と呼ばれて多くの人々が訪ねています。
 私が上人の存在を知ったのは数年前からですが、明治という、まだ身近な時代に、本当にこのような霊能力者がおいでになったという事は、正直、地元に住む者として、驚いております。この科学の時代で、そのような事は、と当初は信じられませんでしたが、上人の事を少しずつ調べていく内に、その存在を信じるようになりました。上人は、確かに実在された人物です。

 宥明上人の得意は「投筆」だったそうです。軽く巻いた白紙を床の間などに置き、自分はそこから5,6m離れた所に立ち、筆に少しだけ墨を付けて、何かを念じて投げるのだそうです。すると、投げられた筆は紙の方に穂先を向けて落ち、巻かれていた紙を開けると、梵字や龍の字が書かれていたそうです。人々は、「投筆」して貰った書を掛け軸にして、大切に保存したそうですが、それが今もあちらこちらの家庭に保存されており、宥明上人が実際に「投筆」された事を証明しています。

 また上人は、心清らかな多くの人々を助けています。上人の貰った梵字のかいた紙を飲み込んだり、または湯に入れて飲んだりすると、病気はたちまちに快復したそうです。そうして助けて貰った人が全国にいて、上人が生誕地の荻赤山に戻られて他界されてからも、わざわざ訪ねて来たそうです。大阪から来たという和尚の人も、上人の鬼籍を知って、「高橋宥明上人の碑」を建立していったそうですが、その碑はついこの間まで上人生誕地の赤山にあり、今はその後、上山に移転した子孫の墓地の所にあるそうです。

 上人と付き合いのあった方が、その神変記を書いており、それを資料に、地元の郷土史家が「吉野文化史」という郷土史誌に論文を書きました。高橋宥明上人顕彰会では、その許しを得て、新たにその部分だけを別冊にした資料集の制作に入っています。出来れば生誕150年までに完成させ、顕彰会に参加して下さった方に差し上げたいと思っておりますが、そこでは、信じられないような事が次々と起こった事実を伝えております。 

 私が高橋宥明上人に関心を抱くのは、日本古来の精神が、そこに宿っていると思うからです。清廉潔白、決しておごらず、そして決して欲しがらず、人としての道を務めておれば、今を生きていく事が必ず叶うというその信念が、こうした時代であだけに、大切にしなけらばならない日本の土着の思想だと思うからです。上人はその象徴のようにも思われます。

 この泥海社の頁を立ち上げる際にも宣言しましたが、このままでは、日本人の全てが失われます。その精神も、肉体も。そしてそれを救うのが、この共に生きるを基調とした「土着の思想」にほかならないと、強く信じて疑いません。この思想をさらに体系化して、山形の山中から発信して行きたいと思っておりますので、暫く見守って頂ければと思うのであります。草々。(2008年10月10日)

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