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矢口高雄さん「雪迎え」 [日記、雑感]

矢口高雄「雪迎え」から.jpg

矢口高雄さんの訃報。山形新聞に「矢口さんと親交 錦さん(南陽)」の記事があった。矢口さんが錦三郎先生に取材して書き上げた「雪迎え」がようやく世に出た年に錦先生が亡くなられ、矢口さんは自宅を訪れて霊前に本を捧げられたのだという。その本『矢口高雄自薦傑作集』(双葉社 1997)があるはずと思い引っ張り出したら、錦啓(あきら/天見玲さん)先生の「日曜随想」(山形新聞 H19.1.28)の切り抜きが挟まっていた。これを読んでこの本を買ったのだった。

懐かしい錦三郎先生の面影が描かれている。錦先生が宮内小学校に教頭として赴任されたのは私が4年生か5年生のとき。担任不在の折、音楽の時間にヴァイオリンを持ち込まれての楽しい授業を受けたこともある。5年生のときに北体操場を真っ暗にした中で、先生が撮影されたのだろうか、クモの映画を見たのが忘れられない。たしかその時「雪迎え」を知ったはずだ。退職後南陽市史編纂の中心を担われ、上杉移封で信州飯山から移った尾崎家文書の発掘も錦先生による。飯山市との親しい交流が始まって、一緒に飯山に行くのを楽しみにしていたのに、突然のように亡くなられたのだった。(←「源流」より 錦先生.jpg尾崎家末裔尾崎哲雄氏による『源流』(H16)に、尾崎氏宅を錦先生とともに訪ねた時の写真が載っていた。)以前、尾崎家文書と錦先生について書いている。《尾崎家文書が公になるには錦三郎先生の功績が大きい。尾崎の歴史は上杉の正史から消されていた。当地蓬莱院は、当地で亡くなった重誉の祖母の戒名に由来する にも関わらず、そのことが寺に伝わってはいなかった。飯山から来たことが明らかな善行寺(今は米沢)にも慶長以前の記録はない。また、尾崎の家臣であった はずの当地代官安部右馬助は、その出自を越後安部庄と記す文書が残っているのだが、錦先生が手を尽くしてその場所を探しても、どうしても探すことができなかったという。あえて尾崎の家臣であることを隠さねばならなかったのか。徳昌寺破却と並行するようにして直江との関わりの深い尾崎の歴史を闇に葬ろうとする動きがあったのだろうか。/当時南陽市史編集主任の錦先生と尾崎文書との出会いは、昭和53年(1978)、尾崎家の菩提寺である米沢の東源寺の楠行雄住職(平成7年没)による『東源寺五百年史』の発刊がきっかけだった。偶然にも楠住職(南陽市梨郷建高寺より入婿)が錦先生の教え子(梨郷小時代)ということもあり、錦先生の旺盛な探究心は隠された歴史の闇を切り裂くことへと繋がってゆく。当時仙台在住の尾崎家嫡流尾崎翠氏の信頼を得て尾崎文書の解明が進み、『南陽市史編集資料 第10号』の「宮沢城主尾崎氏関係文書」、さらに『南陽市史 中巻』に結実を見ることになる。》と書いていた。直江兼続公の実母についてhttps://oshosina.blog.ss-blog.jp/2008-11-03

矢口高雄さんの訃報で錦三郎先生を思い出すことになった。『矢口高雄自薦傑作集』の「あとがき」にこうある。《「雪迎え」は近年の作品ですが、発表誌が諸般の事情で創刊されず、書斎の抽出しに眠っていたものです。その意味では初公開の書き下ろしと言えるでしょう。ただ、この作品にはひとつ残念なことがあります。雪迎えの謎の解明に心血を注がれた錦三郎先生(「空を飛ぶクモの話」の著者)のことです。作品を描くに当たって、錦先生には何度もデンワでお話を伺い、多大のご指導を得て完成させた作品でしたが、その錦先生がさきごろ他界されてしまったのです。それも、諸般の事情とはいえ、本作品の誌上掲載を見ることなく‥。謹んでご冥福をお祈り申し上げると共に、本書が出来ましたら、まずは初版の一冊を錦先生の霊前に捧げたいと存じます。》そしてその約束は果たされた。そういえば、最近も錦啓先生(天見玲さん)、「気炎」欄に矢口高雄さんのことを書いておられたように思う。

「矢口高雄」と「錦三郎」で検索して見つけました。→山形県立博物館館長室だより(平成24年度)http://www.yamagata-museum.jp/josf10j7p-1882

矢口高雄訃報.jpg錦啓 日曜随想.jpg





















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